二章 眼

第6話

 白い光が、私の顔を覆っていた。薄っすらと瞼を開くと、見知った生家の天井があった。電灯の無い和室に、私は転がされていた。光源を探すと、障子の向こう、庭が光り輝いているようだった。眩しさに温もりは無い。冷たい光は、異常に眩い月光か、静かすぎる車のライトか。自然ではないその白さだけで、私は、これが夢だと理解出来た。

 明晰夢は、冷静さを取り戻すには十分な程、孤独感で満たされていた。重い上半身を起こして、辺りを見渡す。黒く塗られた仏壇があった。中心で微笑む仏様の、その表情から目が離せなかった。私は膝をついたまま、仏壇に縋りついた。供物も、火の無い蝋燭も、冷たいままの全てを薙ぎ払い、金色の座像に手をかけた。

 生前、祖母はこれを「母神」と呼んでいた。仏像でありながら神とはどういうことかと、聞くことは叶わなかった。

 だが、近くで触れてみれば、成程、確かに、これは。


「――――お母さんの、顔ね」


 言葉を紡いだ瞬間、脳は現実を取り戻そうと、再び暗闇を選んだ。


 次に目を焼いたのは、清潔なカーテンと、毒々しい蛍光灯だった。本日二度目のそれは、最初の保健室とは違う。温もりに触れる手は、ベッドに上半身を預ける綴が掴んでいた。彼女の寝息と、柔らかな前髪が皮膚をくすぐる。私は上半身を起こして、彼女の頬を撫でた。綴の着衣が新しい。その要因が私にあることは、記憶していた。あの時の彼女の慌てぶりからして、ここは病院だろう。ここが私たち以外に誰もいない個室で、私の血管に管の一本も繋がれていないのは、誰か、余程柔軟な理性を持った医者がいたに違いない。おかげで、良質な睡眠時間を得られた。私の頭の中身はスッキリしていた。不安感も和らいで、人が来るのを待てるくらいには余裕が出来ていた。

 目を閉じて、耳を澄ませる。空調の音に混じって、廊下には複数人の話声と、歩く音が聞こえた。そのうちの二つには、聞き覚えがあった。今日は、なんだか脳に染みが増える日だった。


 ノックが二回を超える前には、私は「どうぞ」と声を上げた。同時に、綴の肩を揺さぶった。彼女は一瞬、身体をびくつかせて、周りをくまなく見まわした。そうしている内、病室のドアが開いた。


「おはよう。よく眠れたかしら。


 真っ先にそう声をかけてきたのは、校医の桑実だった。彼女の背後には、初めて見る顔ぶればかりだった。綴の手の感触が、初対面への恐れを失くしてくれていた。


「菖蒲さんも一緒に寝ていたのね。でもその姿勢じゃ、腰を痛めるわよ」


 ほら、と、桑実は綴の背を押す。背筋を真っ直ぐにした綴は、少し驚いたような表情で、桑実を見上げた。


「二人とも、休んでいたところ悪いんだけど、ちょっと、色々と貴方達に話をして欲しい人達がいるの」


 そう言って、当の桑実は身を翻した。ぞろと私達の前に立ったのは、背の高い男二人だった。一人は私達と同年代の精ねんで、もう一人は二十代後半といった顔立ちをしていた。前者の首から下には、見覚えがあった。


「蛇玉野郎」


 ぽろと落とした私の言葉に、二人は顔を見合わせていた。その揃った横顔の形からして、二人が年の離れた兄弟か、親戚だろうということはわかった。


「えっと、花鍬樹さんだよね」


 青年の方が、私の目を見て、笑った。声の印象とそう解離することのない、人好きする表情だった。私が返答として首を縦に振ると、彼はまた口を開いた。


「今朝は驚かせてごめんね。僕は人文学科一年の韮井識。こっちは僕の叔父で、海洋考古学研究室の韮井ミツキ」


 韮井ミツキ――――恐らくは大学教員なのであろう男は、小さく頭を下げると、膝を床に落として、私を見上げた。


「今は何が見えている」


 唐突な行動と言葉に、一瞬、足から手先までが硬直する。何より、韮井ミツキの鋭い目が、私を観察する視線が、初めての感覚で、一種の恐怖感を伴っていた。


「今、君達の目には、私と識がどう見える」


 問いの意味を理解出来たのは、私だけのようだった。何を言っているのかと、反抗を現す綴に被せて、私は声を張った。


「人間です。普通の、ヒト。韮井君……識君は、暗い茶髪に、深い緑の……穏やかそうな目。ミツキさん、いや、韮井先生は、少し赤っぽい茶髪と、翡翠の勾玉みたいな、硬い目。印象は鋭くて、少し、怖いですね。先生は」


 淡々と零れる私の迷い口を、韮井先生は黙って聞いていた。問いに正解は無いのだろう。ただ、私の反応を、私の視界を知りたくて、彼は私を観察しているようだった。


「百足も、芋虫も、何も不思議なモノなんて、見えてませんよ」


 多分、私は、笑っていたのだろう。唇の端が痛かった。ポカンと口をあけている綴に、目を細めて見せた。反応は無く、彼女は私ではなく、韮井先生に目を向けた。


「君も同じか。蠅の一匹も、いないか」


 韮井先生の問いへ、綴は首を縦に振った。また私と目を合わせると、彼は鼻で深く息を吐いた。


「――――では、あれは?」


 私の視線を操るように、先生は人差し指を振った。その指先は、部屋の隅を示していた。


 そこにあったのは、数十粒の米だった。大量の米粒が、ぽろぽろと床に落ちて、くにくにと胎児の指のように動き出す。その出所を辿れば、黒く滲んだ壁と天井があった。熟れ過ぎた果実と、それらが実る白い樹木が、ひっそりと、私を見ていた。


 ――――米は蛆、果実は肉、枝は骨。

 その事実を脳が受け入れるのには、約三十秒の沈黙が必要だった。

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