第4話
私が皿を空にすると、綴は腕時計を指し示した。時刻は十一時頃を捉えていた。
「昼食は遅めで良いわね」
コップの水を飲みこむ私に、彼女は呆れた様子で言った。私は首を縦に振って、了解の意を示した。すると、綴は軽やかに立ち上がる。彼女に並んで、私も腰を上げた。私より少し背の低い綴は、こちらを見上げて口を開いた。
「何か他に用事とかある?」
「無いかな。貴女を迎えに来る以外、特に用は無かったから」
「何か、手を煩わせちゃったみたいね」
「ううん。そういうわけじゃないよ」
硬い頬を持ち上げる。本心と言えど、やはり表情筋を動かすのには骨が折れた。
「そう、それじゃ、案内してもらおうかしら」
綴はそう言って、私の背を押した。そのまま食堂を出る。日光はより明るさを増して、アスファルトは熱を帯びていた。
他愛もない応答を繰り返しながら、私達は私の自宅へと向かった。大学からほんの十五分歩けば、私の自宅、山の中の生家があった。手入れがまだ追い付いていない草木は、塀を思わせる程に建物の周囲を覆っていた。三階建ての一軒家の壁には、蔦が絡んでいる。
「外は荒れているけど、中は何も無いし、今度、清掃入ることになってるから」
安心してね。と、私は鍵を刺し込んだ。
私が綴をこの家に呼んだのは、彼女をここに住まわせるためだった。大学が近く市街地にも出やすいとはいえ、家族で住むにしても広いこの家に、一人で住むのはどうにも、精神に来るものがある。祖母が亡くなってから近くのアパートに引っ越してしまったが、五年前までは私もここに祖父母と父との四人で暮らしていた。五年間も無人だった家屋は、私が住むと決めた時には、二回の窓は割れ、茂る草木が邪魔をして、玄関に辿り着くのも一苦労だった。今、綴の露出した膝が滑らかなままなのは、事前に私と父が最低限の整理を行ったからだ。
「もう、一人で住んでるのね」
人の気配がしない家の中を見て、綴が言った。暗い廊下が奥まで続く。突き当りには一階のトイレがあった。その不気味さは、家主の私でも緊張で指先が冷える程だった。だというのに、綴は相変わらず、あっけらかんとした表情で、来客用のスリッパを勝手に引っ張り出しては、床の感触を確かめていた。私が電気をつけると、綴は天井を見た。玄関の電球が、一つだけ切れかかっていた。
「今度、二人で家の修理をしましょうか」
揶揄うような口ぶりで、彼女は笑う。居住を考えるためにここまでやって来た筈だが、彼女の中では既に住むことが決まっているらしかった。何を決めるにも、何をするにも、一歩遅れる私にとっては、そんな彼女の決断力は宝のようにも見えた。
玄関から居間へ、台所へ、客間へと、私達は流れるように部屋を移る。一人で過ごしていた時には気付かなかった欠陥等が、次々と目に入った。
「ねえ、私が入らない方が良い部屋ってある?」
ふと、私の部屋の前で、綴は言った。その手は丁度、ドアノブに触れていた。多分、私の部屋に入って良いものか、気が付いたのだろう。私は記憶を巡らせた。父と祖父の荷物は既に存在しない。母は八年前、祖母は五年前、既に他界していて、もう家には戻らないだろう姉の部屋も、整理はついている。私の部屋には特段、見られて困るものはない。貴重品類は仏間の金庫に押し込んであった。
「特に無いと思う。私の部屋も、仏間も大丈夫」
私の返答に、綴は少しの間をあけて、再び問いを零した。
「妹さんの部屋は?」
恐る恐るという言葉が似合う表情で、彼女は私を見ていた。
「あ……妹のね、大丈夫。部屋はもう全部片づけてあるの。帰って来ることになっても、部屋だけなら沢山あるから」
そう、それなら。そう言って、綴は肩をすくめた。
忘れていた。そうだ、妹の部屋のことが抜けていた。私が大学を選んだ理由も、この家に戻って来た理由も、妹にあった。ここ数日の忙しさと、今朝の白昼夢で、頭の動きは重く、正常ではなかった。
「妹さんが自宅介護になったら、私も手伝うからさ」
当たり前のように、彼女笑った。
「あの子は介護にはならないと思うよ。でもありがとう」
病院のベッドで、こちらを睨みながら歯ぎしりをする少女の姿が、脳の中を過った。綴の優しさには、嬉しさを浮かべられる。だがそれをそのまま飲むのは、気が引けるどころの話ではなかった。自分の家であるというのに、どうしても居心地が悪い。重力が薄いようにも感じた。
綴が再び継の部屋に歩を進めた。彼女の顔を見ることは出来なかったが、きっと明るい苦笑をしているのだろう。
軽いような、重いような、歩くために持ち上げた足が、落ち着かなくて仕方が無かった。スリッパを直す。その手に、爪楊枝でつつかれるような感触があった。背筋に水滴が伝う。それは冷や汗と呼ぶものだった。嫌な予感が、心臓の動きに合わせて沸き上がる。
それを認識したのは、数秒後、着いて来ない私に気付いた綴が振り返った瞬間だった。スリッパから百足が這い出して、私の脹脛に爪をひっかけていた。私の親指程はある胴が、冷たく脛の皮膚に擦れる。百足は次々にスリッパの中から現れては、床と私の表面を駆けて行った。甲殻同士が擦れ合う度、硝子を擦り合わせる高音が耳を裂いた。視界には駆け寄る綴が存在していた。顎下に一匹が辿り着いた時には、綴の顔も私の目の前にあった。
百足が、私の口の中に入った。私は咄嗟に歯を食いしばった。身体をくねらせて口内を蹂躙する百足を、奥歯で砕いた。
「口を開けて!」
綴の声で、私は目いっぱい顎を開いた。彼女の指が喉奥を押した。胃酸と朝食の唐揚げが、百足達を押し流す。息が出来ない。私はそのまま、綴の胸元に体重を預けた。
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