Ⅲ 一九九二年

 アルファルドと遭遇したのは、ズヴェスダが死んだ最初の夏である。マリアンは周囲の反感と軽蔑を誘う奇人の挙動を面白がり、色々な理由をつけて彼が所有するウィーンの陰鬱で壮麗な館に滞在するようになった。

 アルファルドは死んだ片割れアルコルに妄執を抱き続ける哀れな同類だ。同居人カラーをはじめ、彼をまともに相手する生者は少ない。だがマリアンは彼の振る舞いを、殊更悪辣とか醜悪とは思わなかった。彼の奇矯で悪魔的な振る舞い全てが、元を辿ればアルコル博士への無限の献身に基づく行為だと知っているからだ。マリアンはその愛執を無下にできないどころか、時折世俗を超越した高尚さを見出す事もあった。彼にとってアルファルドとは、カストルプに人文主義を説くセテムブリーニであり、射手の魂を求め彷徨うザミエルであり、慈悲深く親しみ易い母だった。

 一九九二年の夏、アルファルドの関心を引くだめだけに、マリアンはマヨラナ失踪に関する書籍をペラペラと捲っていた。実のところ彼は、アルファルドからアルコル博士の話を聴き、二人がヒトを象っただけの異存在と知った時から、あの日公園で出会った男の正体とアルコルの死の真相に薄々勘付いていた。だがアルファルドが故人に抱く激烈な愛着を垣間見るにつけ、マリアンにはそれを教えるのが何となく億劫に感じられた。アルファルドと過ごすのは愉しいが、彼を突き動かす妄執に付き合う程の辛抱強さは持っていない。加えてこれ程思慕されているにも拘わらず、アルコルが今なおアルファルドの前に姿を現さないのには、深い理由があるに違いない。しかしだからと言って、素知らぬ顔で隠し通すのも不誠実だ。それ故この本を読んでいる。彼は昔から、こういう婉曲的で臆病な手段を取る傾向にあった。

 一方アルファルドは、数日前からメリメの短編の翻訳に没頭している。彼は経験や意欲の有無では説明できないレベルでフランス語が不得手だが、それでもどうすれば少ない頁数にあれだけの時間を費やせるのか不思議だ。ここ数日の変化と言えば、精々脇に置いたドランブイとスコッチウィスキーが減った位だろう。彼はいつも両者を一対一で混ぜる。

「わざわざ翻訳なんてしなくても、読みたければドイツ語訳を読めばいいのに」

アルファルドはピクリと眉を動かした。

「うるさい奴だ。君こそマヨラナの頁が進んでいないようだが?」

「ふん、どうだっていいでしょう」

 マリアンは素っ気なく答えた。アルファルドはその態度が鼻についたらしい。彼は紙束や辞書を広げたまま、相手を押しのけてソファに身体を投げた。

「ちょっと、べたべた触らないでください」

 ソファを占拠されたマリアンは、じろりと睨んで椅子に腰かけた。だがアルファルドは気にも留めずに、奪った本をペラペラと捲った。

「エットーレ・マヨラナね……。私は彼の業績や理論を理解してはいないけど、このイタリア人物理学者が、一九三八年、地中海を航行する船に乗ったのを最後に失踪した事件は知っている。原因は自殺・他殺・亡命・隠遁……などなど。今でも色々解釈が生まれる興味深い人物だ。君はどう思う?」

「さあ。ただ少なくとも自殺ではないと思います。多分他殺でもない」

「やけにきっぱり言うじゃないか」

「人が死ねば、少なからず痕跡が残りますから。有名人なら尚更」

「口を利けるのは生者だけ、身を隠せるのも生者だけか」

「まあ。動機は分からないけど、彼は自分を取り巻く環境から脱して行方を晦ました。そんなところだと思いますよ」

 そこまで言って、マリアンは思わず喋り過ぎたかもしれないと身構えた。だがアルファルドの方は、少なくともマヨラナをアルコルと結びつけなかったらしい。

「自身の置かれた環境との繋がりを絶ち、今現在の自分に背を向ける。出奔は私にとっても切り離せない概念だ」

「……確かに。貴方はいつも傍らに人無きがごとし、ですものね。常に出奔し続けている」

「馬鹿だなあ君は。そういう意味じゃない。いくら姿を似せても、根本的に私たち同類は、ヒトと異なる存在だ。だから異質さが取り繕えなくなる前に、多くの同類は所属する社会や立場を変える。例えば私が今の名前を名乗り始めたのは、精々ここ五十年だ。因みに最初にアルコルと出会った時、彼はケルソスと名乗っていた」

「今でもよく彼をそう呼びますよね」

 アルファルドの黒みがかった赤毛に、柔らかな日差しがゆらゆらと降り注ぐ。彼の容貌は闇の中において妙絶な彫刻然としているが、陽光の下ではどことなく俗的で頓馬な印象を与える。それは屋外では聡明で理性的だった母親が、あの暗い部屋で悪魔的所業を躊躇しなかったのと似ている。

 アルファルドは突然がばりと起き上り、思いついたように尋ねた。

「君はクノッソス宮殿にある『ユリの王子』の話を覚えているかな」

「忘れました」もちろん記憶している。

「有名な復元壁画だ。便宜的に王子と呼ばれているけれど、女性とか僧侶とする説もある。更に言えば、復元に用いられた残存するレリーフ断片全てが、本当に同一人物を構成していたかも定かではないらしい。まあ宮殿は長大な時間をかけて陽光と風雨に曝され続けたから、この壁画が原型を留めないのも仕方ない」

「それが何か?」

「いやなに、君が提示した出奔という主題について、一つばかり心当たりを思い出したのさ」

「誰も提示なんてしていません」

「したよ。君はよくそういう婉曲的で臆病な手段を用いるからね……。まあいい。私はシノン・アンティゴノスというギリシャ人考古学者の案内で、クノッソス宮殿を見学した。彼の家とは父親の代から交流があった。」

 アンティゴノス家は著名な軍人を輩出してきたテッサロニキの名門だが、シノンの父ゼノンは幼少時に大病を患ったため植物学者になった。

「私とズヴェスダはユリアの追跡を逃れるため、一九三八年の独墺併合前夜、ウィーンを出て各地を放浪し始めた。厭世家ゼノンの屋敷は、身を寄せるのに相応しい隠れ家だ。彼はピリオ山を望む海辺の家で、妻子と共に自適の生活を送っていて、私たちは一九四七年から一九六九年まで、彼の敷地の別邸に居候しながら研究の手伝いをした。」

 当時ゼノンが研究フィールドにしていたのは、クレタ島南部の山地だった。この島はアフリカとヨーロッパの狭間に位置し、かつ南北が高い山脈に隔たれている。そういう特徴的な地理のお陰で、独特で多様な植生が見えるのだ。アルファルドたちはゼノンの荷物持ちとして、共に山野を巡っては、目に留まった植物を写真や絵に収める日々を送った。

 一九六九年の夏の日、ゼノンは人跡の無い山中で、珍しい光景を発見した。そこは風光に乏しく湿潤な、如何にも着生植物好みの小さな雲霧地帯で、シダの生い茂る大木の洞の中に、色素の無いランがいくつもの淡い白光を放っていた。何故こんな珍妙な場所が生まれたのか、何故湿地と外界とを隔てる大木の殆どが洞を持つのか、見たことも無い白いランの存在をどう理解すべきか、彼はうろうろしながら半日程考え込み、一つの仮説を立てた。

 ゼノンは湿地帯からほど近い場所に、形態がよく似たランが自生しているのを思い出した。ただそれは光合成を行う有色の種である。そこで彼は次のように考えた。恐らく白いランも元々葉緑素を持っていたが、乏しい日光と極端に湿潤な気候に影響され、短期間の内に特殊な変異を遂げたのではないか。彼は仮説を確かめるべく、ランを一株だけ採集して帰った。

「ゼノンは邸内に小さな実験植物園を造営していて、そこに珍しい植物を蒐集していた。園内に建てた温室に何日も籠り切りなんてことはざらだったよ。そしてその夏、ゼノン・アンティゴノスはその温室で死去したのさ。」

 その日は滝の様な大雨に見舞われたので、妻は夫を案じて三日ぶりに温室の門を開き、その変わり果てた光景に腰を抜かした。伸びすぎた樹木が天窓を突き破り、そこから雨やら虫やらが侵入して、いつもきれいに磨かれた外壁には、各所に汚泥がこびりついている。ゼノンがきれいに陳列した植物群は、どれがどの株か判別も付かない状態で蔚蔚と生い茂っていた。鼻の曲がる様な異臭の原因である彼の遺体は、既に一目で本人と分からない程に腐敗が進み、件の白いランは、滲みだした彼の体液に沿う様に、節の多い根を伸ばしていた。たった数日間に、恰も温室だけが何年も経過したかのような有様だったという。

「何だか不気味な話ですね」

「全くだ。何故そんな怪奇な事態に至ったのか、この私にも理解不能だった。私とズヴェスダとで遺体を埋葬して間もなく、植物園は屋敷ごと廃棄された。夫人はシノンを連れてアテネの実家に戻り、私たちもウィーンに帰った。以後ズヴェスダは、それこそ蔚然とした表情で一人考え込むことが多くなった」

「ズヴェスダさん……」

「同類は自然の体現者とも言えるから、彼も同類アルコルに育てられた一人間として思う所があったのだろう。あれ程管理された自然でも、少しの綻びがあるだけで、人間の身体を容易に翻弄する。でもそれは自然の方も例外ではなかった」

 一九七七年の夏、アルファルドはクノッソス宮殿発掘の見学機会を得た。彼を招いたのは、発掘の助手を務めていたシノン・アンティゴノスだ。その日も当時と同じく六月半ばだったので、アルファルドはふとゼノンが発見した湿地を訪ねる気になった。しかし洞の大樹に囲まれた湿地帯には、白いランの姿は跡形も無かった。

「進化や適応とは儚いものだ。陽光も水源も、存在するだけで生物を揺るがす。ランは一度環境に適応したが、結局子孫を残す事は出来なかったのだろう。……実のところ、私はランが枯れた原因の一つが、ゼノンの採集ミスにあるのではと疑っている。彼はあの日柄にもなく、採集に際して根を深く傷つけてしまったんだ。だけど彼はランを枯らすつもりで一株持ち帰ったわけじゃない。結局風光であれ学者であれ、外からの刺激に対し、如何に揺らぎ変容させられるかは、偏にランの中で終始する問題だよ。それだけの事だ……」

アルファルド少し言い澱んでから、更に言葉を続けた。

「だけどそういう変容を忌避したいと望む者は一定数存在する。そんな者にとって、出奔とは、変容を拒絶し放棄する手段になり得るのではないかな」

 マリアンは胸下に鈍い重みを感じた。あの日酷い内出血を起こした位置には、今でも青茶っぽい色の痣が残っている。

「じゃあ出奔できないまま、本来の在り方が変容してしまった人は? 最早誰かの理解や関心を望むべきではないのでしょうか」

アルファルドはくすくすと笑った。

「『本来の在り方』という概念が存在し得るのかはともかく、理解や関心を払う奴なんていないだろう。ユリの王子が良い例じゃないか。もともと何者かだったレリーフは、風光と雨によって断片となり、復元者によってキメラにされた。でもそれを理由に自然や学者を責める者などいない。ただそうなっただけだ。乏しい陽光と豊かな水源によって色素を失い、それ故学術的関心に晒され摘み取られたランの様に、仮に君が外的要因によって精神を損ない、身体を歪まされたとしても、それはごく一般的な現象で、誰も自分の問題として捉えたりしない。……でも君はそれを不条理だと感じた。だからこそ、以前ユリの王子を見てこう言ったのだろう? 『残された断片を、残されたままに展示しなかったのは、もっと深刻に捉えられるべき』だと」

「……」

「やっぱり覚えているじゃないか、ユリの王子」

「今思い出しただけです。でも貴方は穿った見方をしていますよ。あの言葉は単純に、考古学者が業績に逸ったみたいで興醒めだという意味です」マリアンはへらへら笑いながら言い繕った。

「ふーん、それならそれで構わない」

 少しの頓着も示さないアルファルドを見て、マリアンは釈然としなかった。先ほどから自分ばかりが一方的に狼狽させられていらいらする。だから一言でアルファルドをぎくりとさせる言葉を、無遠慮に放り投げてやりたくなった。

「じゃあアルコル博士の場合は? 博士が貴方の下を去ったのは、彼がその様に変容したからだと思わないのですか?」

 アルファルドがピクリと眉を動かしたので、マリアンは口に出しながら早くも後悔した。だが彼はいつものように粗野な言葉を言い返して来たりはしなかった。

「確かに、君の言う通り。いくら彼を思慕しても、私のアルコル……ケルソスは帰って来ないのかも」

でもね、と続けるアルファルドの双眸は、仄暗い妄執を湛えている。

「私はケルソス本人の不変を願っているわけじゃない。言っただろう、変容はごく一般的な事象だと。……私は彼との関係を、一種の鏡だと考えている。鏡が変形すれば、そこに映る私の姿も歪む。だけど私自身の姿が変わるわけではないし、私は鏡に向ける関心や眼差しを損なうつもりも無い。彼に変わらぬ信愛を捧げ続けるという意味で、私にとっての彼は変わり得ないのさ。出奔が私と切り離せない概念だと言ったのは、単に同類だからという理由だけではない。結局私もまた、己の変容を拒絶し、出奔に微かな望みを求める一人なのだろうね……」

 アルファルドは一度にこりと微笑んでから、ふらりと立ち上がってどこかへ消えた。マリアンは意外にもあの奇人を動揺させることに成功したらしいが、決して溜飲が下がったとは思わなかった。彼は机に広げられたままの紙束を手に取り、何となく彼の翻訳の進み具合を覗き見た。―――意外にも翻訳は終わっていた。メリメの短編「熊」は、熊に襲われた母親から誕生した理性的な貴族が、己に熊を見出して出奔する物語である。

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