第12話「スポーツをする」の巻

 祭林が「流星」を名乗っているのを知った庶務課長は、「それでは自分も」とばかりに「上弦」を名乗り始めていた。ただ、それだけのことで、なぜか若い社員の二人に対する好感度はアップしていた。特に少し成績の悪い社員には、流星課長、上弦課長と呼ばれ、慕われるようになった。

 ある日、甲子園を目指したことがあるという若手が、昼休みに祭林の席を訪れた。

 「祭林課長。いや、流星課長。社員でソフトボールチームを作ったんですよ」

 「はあ。そう。それで」

 「それで実は、チーム名を『流星』にするか、『上弦』にするかでもめているんです」

 「迷うことはない。『流星』にしなさい」

 「はい。ボクは『流星派』です。しかし、『上弦派』も半分ぐらいいるんです」

 「庶務課長も人気を伸ばしているようだな」

 「ええ。それでですね。チームを半分こして、ソフトボールで決着をつけることにしたんですよ」

 「それは、ぜひ、頑張ってほしいなあ」

 「はい。それでですね。ただ、勝負しても仕方ないので、流星課長と上弦課長に両軍の監督を務めてもらいたいということなんですよ」

 「は? ワシはスポーツのこと全然、分からんよ」

 「やっぱりそうですか。でも、いいんです。両課長がいれば、盛り上がりますから。それで、勝った方の監督にはチームの部長になっていただき、負けた方の監督はマネージャーになっていただくというアイデアなんですけど。いかがでしょうか」

 「うむ。勝てるんなら、引き受けてもいい。とにかく負けたくない」

 「チーム力としてはこちらの方が上ですが、あっちのチームにはすごいピッチャーがいるんです。勝負としては五分五分というところです」

 「負けるかもしれないのなら、あまりやりたくはないなあ」

 祭林は、ちゃんとスポーツをしたことがない。いや、別に運動音痴というわけではない。ポリシーである。子どもの頃は、走るのも速かったし、木登りや川泳ぎも人並み以上にはこなしていた。ただ、中学、高校、大学と科目の体育以外では、まじめに体を動かしたことがない。社内のボーリング大会でも、幹事役に徹していた。そもそも、野球やサッカーみたいな団体競技は性に合わない。野球の「送りバント」とかサッカーの「壁」には、滅私奉公を感じてしまう。そのわりに、エース選手ばかりが脚光を浴びる。また個人競技も、水泳はプールが許せない、陸上はトラックが許せない、柔道は寝技が許せない、剣道は防具が許せない、相撲はふんどしが許せない……。なんのかんの理由をつけて、スポーツに親しまなかった。しかし、本当は負けるのが嫌いだった。祭林がギャンブルをしないのも同じ理由である。マージャン、囲碁、将棋…ジャンケンすらしない。

 その時、背後から。

 「臆したか。流星のお」

 その声に振り返ると庶務課長が腕を組んで仁王立ちをしていた。まずいと思った。

 「よし、受けて立とうじゃないか」

 我ながらバカだ。何十年も避けつづけてきた勝負事に、このようなことで引きずり込まれるとは。しかも、敗者には耐えがたい屈辱が与えられる。チーム流星とチーム上弦の対戦は日程と場所まで決まっていた。

 決戦まで1週間という夜、祭林と庶務課長は、一緒に練習風景も見学した。確かに相手ピッチャーの球は速い。

 「あれは、素人には難しいウィンドミルという投法だ。しかも、あれはライジングボールといって、バントさえ難しいぞ」

 庶務課長が頼もしそうに言う。祭林は、それよりも庶務課長がソフトボールに詳しいことに危機感を抱いた。早速、本屋でソフトボールのルールブックや指導書を買い込み、徹夜で勉強した。そして、チーム流星のキャプテンを呼び、作戦会議を開いた。とにかく、絶対に負けられないのだ。

 決戦の夜。勝算はこちらの方がエラーが少なそうだということだけだ。両チームとも控え選手はいない。表・裏七回をフルに戦う。

 一回表、チーム上弦の攻撃。簡単に二死を取るも、四球で走者一塁から、相手の四番に痛打を浴び、早々に一点献上。後攻のチーム流星は、ウィンドミルから繰り出されるライジングボールに、手も足も出ず、パーフェクトに抑えられている。それでも、守備は固く、味方投手の打たせて取るピッチングを支えた。

 そして、1対0のまま、最終回を迎えた。それまで、監督として何も指示を出せなかった祭林が、選手に円陣を組ませ、作戦を授けた。

 「相手投手も疲れてきている。バント作戦で行こう。これまで、君たちが思いっきり振り回してきた分、油断があるはずだ。フェアグラウンドに転がしさえできれば、守備機会がほとんどなかったから、慌てるはずだ。打順は一番からだ。足の速い一・二番のどちらかは出塁してほしい。クリンナップもバントを前提としよう。もし、走者を三塁に送ることができたら、スクイズも考える。スクイズのサインは屁だ。ワシが屁をこいたら、スクイズだ。名付けて、作戦『サインはブー』。分かったか!」

 「オーウ!」とばかりに、円陣が解け、一番打者はボックスに向かった。

 一球目。唸りを上げて向かってくるライジングボールに、ヒッティングの姿勢からうまく、腰を落とし、一塁線に転がした。投手はファールにしようとボールに触らなかったが、フェアグラウンドに止まった。作戦どおり、初の走者が出た。

 パーフェクトを逸して、少し肩を落とす相手投手に、二番打者もバント。三塁手が拾って、一塁でアウト。一死二塁と変わった。

 三番打者のバントは、一塁線。一塁手が拾って、カバーに入った投手に無難にトス。期待した守備の破綻は起きなかった。走者を三塁に送ったが、すでに二死。スクイズはなくなった。

 相手投手とこちらの四番の一騎討ちとなった。こちらの四番は、あの甲子園を目指した若者である。彼のバットに期待するしかない。「思い切って行け!」。祭林は力強くヒッティングのポーズをして見せた。

 疲れの出たライジングボールに、一球目をジャストミート。快音を残したが、引っ張りすぎて、惜しくもファール。打ち気を見透かされて、二球目はチェンジアップを空振りしてしまった。祭林は「ボールをよく見て」と声をかけた。打者は祭林の声にうなずいた。素人監督とは思えない所作であった。

 そして、三球目は、渾身のライジングボール。打者は思い切って、踏み込んだ。そして、フルスイング。しかし、バットの根元に当たり、ボールは打者の顔面を直撃。チーム流星の四番打者は鼻血を飛ばして、もんどりうった。駆け寄る両軍選手。本人は立ち上がったが、ボールは最初に手に当たっており、爪を割ったようだ。バットが持てそうにない。

 審判が「どうします?」と祭林監督に尋ねる。控え選手はいない。「五番打者を繰り上げるわけにはいかないのか」と聞いたが、それは認められない。ピンチヒッターがいないとなると、棄権で敗戦になるという。祭林は心を決めた。

 「代打! 祭林!」と自ら手を上げた。

 チーム上弦の監督である庶務課長は、投手のもとに駆け寄り、「武士の情けじゃ。祭林課長は敬遠し、次の打者と勝負する」と指示した。

 二死三塁、ツーストライクノーボールからの再開である。相手投手は、いかにも弱々しい打者に対して、ゆるいボールで大きくはずした。

 スリーボールになった。祭林の中で、何かがひらめいた。そして、ニヤリと笑い、「ブーッ!」と外野まで聞こえるような、大きな屁をこいた。守備についている相手チームの選手は、大笑いを始め、「さすが、祭林課長。ただでは終わらない」などと言って、なごやかな雰囲気になっていた。特に一番近くの捕手は、臭いの被害も受けていた。

 投手も笑いながら、祭林への四球目。手元が狂って、ど真ん中へ。「サインはブー」。スクイズだ。三塁走者はスタートを切っていた。祭林はバントの構え。スリーバントスクイズ、しかも、ツーアウトからだから、自らも一塁に生きなくてはならない。ゆるい球とはいえ風を切る音がする。少し恐怖を覚え、祭林はバットを離した。

 これが絶妙の効果。ボールはバットに当たり、適当に勢いの死んだ打球は、投手と捕手の間に止まった。屁で緊張感を失っていた相手の守備。ボールを拾った捕手は不必要な本塁を振り返る。駿足の三塁走者はすでにホームイン。同点。

 捕手は祭林を刺すために一塁を見た。しかし、祭林は意外に足が速い。慌てた捕手は見事に悪送球。一塁手の頭上をはるかに越え、ライト線を転々。右翼手が拾ったときには、祭林はなんと三塁の達していた。祭林は塁上で、ガッツポーズを見せた。

 しかし、これも相手の油断を誘う技。右翼手が、二塁手にゆるく返球するのを確認した祭林は、再スタート。「来た!」と相手選手の声が上がる。捕球した二塁手は、ホームを振り返り、速い送球。捕手のミットに向かうボールが、本塁へ走る祭林の視界に入った。「このままでは、アウトだ」。祭林は、ホームベースの二メートルも手前でヘッドスライディング。捕球した捕手。中途半端な位置でコケている祭林にタッチにいくが、姿勢は大きく前傾。祭林は、体勢の崩れかけた捕手の頭を押さえて立ち上がり、反動を利用して本塁へ飛んだ。

 チーム流星の逆転サヨナラである。祭林監督は胴上げされた。

 そして、上弦課長が歩み寄った。

 「完敗だ。お前があんなに身軽とは知らなかった」

 「ワシには忍術の心得がある」と言いたかったが、心臓がバクバクいって、声にならない。

 「すべて偶然の所産のように思うが、いくらか計算はあったのか」

 しばらく息を整えて、祭林は言う。

 「そう、偶然だ。しかし、わしは偶然を起こす確率を上げる計算をしていた。スクイズのサインを屁にして、笑いを起こすのは計算。失策の確率を上げた。臭いによる捕手の動揺は偶然。ガッツポーズは計算。二メートル前のスライディングから捕手を飛び越えるのはとっさのひらめきだ」と祭林は言った。

 「しかし、スタンドプレーだな」

 「負けたくなかった。それだけだ」

 「いや、大したものだ。俺は甘んじてマネージャーになるよ」

 「そう言うな。ワシも監督などは性に合わない。今日、そう思った」

 「どういうことだ」

 「生涯現役ってことだ」

 「そうだな。お前も俺も人間をコマのように動かす器じゃないよな」

 二人は握手をした。二人を囲んで、会話を聞いていた両軍選手から拍手が起こった。

 「我々はこの会社に入って良かったと、今、心から思っています。だって、こんなに素晴らしい先輩がいるんですから。…流星課長、上弦課長。お二人を、監督やマネージャーではなく、現役選手としてお迎えします。どうか、入部してください」

 鼻血まみれのキャプテンが言った。

 「いや、ありがとう。皆の仲間に入れてもらってうれしいよ」

 庶務課長が突然、社歌を歌いだした。やがて、全員の斉唱となった。

 「不出来な社員の愛社精神」。一つ一つ消えていく照明灯の中、祭林はそうつぶやいた。

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