大晦日

 十二月三十一日、それはその年最後の一日だ。


 一年を締めくくる最後の一日だ。人によって過ごし方は大分違うだろう。


 陽翔の場合は例年なら一人年末の特番を見ながら、スーパーで買った蕎麦を食べて年の締めくくりにしていたが、今年は違う。


「お待たせしました、戸倉君。蕎麦ができましたよ」


「陽翔お兄ちゃん、蕎麦ができたって。凄くいい匂いがするよ!」


 今年は一人ではなく、真澄と真那もいる。昨年の陽翔なら、想像すらできなかった状況だ。


「お待たせしました、戸倉君」


 三つの蕎麦の入った器がテーブルに並ぶ。真澄の作った蕎麦はとてもシンプルで、具材はほうれん草とカマボコの二種類のみ。


 ただし、真澄の蕎麦はこれで終わりではない。蕎麦の横に置かれた別皿には、数種類の天ぷらが載っている。しかも豪華なことに、エビの天ぷらは二尾も用意されていた。


 天ぷらはどれも熱々の出来立てで、蕎麦の出汁の香りと混ざり合ってこれでもかというほど食欲を刺激してくる。


「天ぷらは手作りって聞いてたけど、こんなに作ったんだな」


「最初はここまで作るつもりはなかったんですけど、つい作りすぎてしまいました。もし食べ切れないようなら残してもいいですよ」


「そんなもったいないことができるか。絶対に完食するから、残す心配はしなくていいぞ」


「戸倉君は食いしん坊ですね」


「俺が食いしん坊になるのは、黒川の料理だけだ」


「……そうですか」


 真澄は呟きながら、僅かに相好を崩した。


 冷ましてしまうのはもったいないので、三人は席に着くと早速食べ始める。


「……美味い」


 寒い冬場には、温かい食べ物というだけでも十分すぎるほどのご馳走だ。身体の芯から温まっていくのが感じられる。


 しかも天ぷらが蕎麦とは別皿のおかげで、出来立て特有のサクサクとした食感も楽しめる。真澄の細やかな気遣いが感じ取れた。


「ねえねえ陽翔お兄ちゃん」


「ん? 何だ真那?」


「どうして年末に年越し蕎麦を食べるのかな?」


 真那が可愛らしく小首を傾げつつ、疑問を投げかけてきた。


 年上としての威厳を見せつけたいが、残念ながら陽翔も年越し蕎麦の由来については寡聞にして知らない。


 答えられず黙するしかない陽翔であったが、助け舟はすぐさま出された。


「蕎麦が切れやすい麺であることから、その年の厄――つまり悪いことを断ち切って、新年を迎えるために食べると聞いたことはありますね。まあ諸説ありますから、この説が正しいとは限りませんが」


「へえ、そうなんだ! 教えてくれてありがとう、お姉ちゃん」


 疑問が解消された真那は感謝を告げると、再び蕎麦を食べ始めた。


「年越し蕎麦の由来って、そんなんだったんだな。初耳だ。黒川って物知りなんだな」


「……たまたま知っていただけですから、褒められるようなことではありませんよ」


 言ってから、真澄は蕎麦を食べる。彼女の耳がほんのり赤くなっているのは、温かい蕎麦を食べたからだろう。


「――ご馳走様でした。美味かったよ、作ってくれてありがとうな、黒川」


「お粗末様です。……まさかあれだけあった天ぷらを全部食べてしまうとは、思いませんでした」


「天ぷらも蕎麦も凄く美味かったからな」


 確かに量はあったが、たくさん食べても全然苦じゃないくらい美味しかった。真澄の料理の腕がいいおかげだ。


「……何か凄い贅沢をしてる気がするな」


「贅沢、ですか?」


「だってこんなに美味いものを食って年末を過ごせるなんて、贅沢だろ」


「戸倉君は大袈裟ですね。ただの蕎麦と天ぷらですよ?」


「全然大袈裟じゃない。俺にとっては、十分すぎるほどの贅沢だよ」


 少なくとも、昨年までの陽翔なら想像すらできないような状況だ。


(去年までの俺が見たら、驚くだろうな)


 昔の自分が今の状況を見てどんな反応をするのか想像し、苦笑が漏れる。


「戸倉君、どうかしましたか?」


「いや、何でもない……っと、もうこんな時間か。黒川、あんまり長居しても悪いから、そろそろ帰るな」


 ふと時計の時刻を確認してみると、そろそろ帰宅した方がいい時間帯になっていた。どうやらお喋りをしている内に、随分と時間が経ってしまったようだ。


「え、陽翔お兄ちゃんもう帰っちゃうの?」


「もう大分遅い時間だからな」


「えー、せっかく大晦日なんだからもっと一緒にいてよ。私、陽翔お兄ちゃんと一緒に年越ししたいよ」


 真那はムっとした顔で、可愛らしいワガママを言う。陽翔に懐いているが故の発言と思えば、悪い気はしない。


 だがそのワガママを許さない保護者が、真那を窘めた。


「こら真那、ワガママを言って戸倉君を困らせるんじゃありません」


「えー……陽翔お兄ちゃんと一緒に年越ししたいだけなのに。お姉ちゃんは陽翔お兄ちゃんと一緒に新年を迎えたくないの?」


「そうは言ってません。ただ私は、相手の都合を考えないワガママで人を困らせるなと言ってるだけです。真那だって、戸倉君を困らせたくはないでしょう?」


「それはそうだけど……」


 叱られた子犬のような顔で、シュンと肩を落とす真那。


 そんな彼女を見ていられず、陽翔は口を挟んだ。


「あー……黒川、俺この後予定ないから年越しまで真那と一緒でもいいぞ? もちろん、黒川が許可してくれるならの話だけどな」


 陽翔が言うと、俯いていた真那がパっと勢い良く顔を上げた。


「陽翔お兄ちゃん、今の本当? 嘘じゃない?」


「嘘じゃないから安心しろ」


「やった!」


 先程までの沈んだ様子が、嘘のような食いつきを見せる真那。


 喜びを露わにする真那に微笑しつつ、真澄の方に向き直る。


「そういうわけだから黒川、もう少しだけここにいてもいいか?」


「あ、はい。それはいいですけど……ごめんなさい、戸倉君。真那のワガママに付き合わせてしまって」


「気にするな。どうせ帰ってもやることなんて特になかったし」


 帰ったとしても、あとは寝るだけ。それなら、真那のワガママに付き合ってあげた方が有意義というものだ。


「陽翔お兄ちゃん、絶対に途中で寝ちゃダメだよ? ちゃんと起きててね」


「分かってる。真那の方こそ、年越す前に寝落ちするなよ?」


「大丈夫。私、絶対に寝ないもん!」


 ――と、意気揚々と語っていたのが一時間ほど前の話。


「全くこの子は……ごめんなさい、戸倉君。真那、完全に寝てしまいました」


「まあ、もう十一時過ぎだからな。小学生が起きてるのは難しい時間だから仕方ないだろ」


 真那は呼びかけても肩を揺すっても、一向に起きる気配がない。ソファーに背を預け、完全に熟睡してしまっていた。

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