二度目のお誘い

 真澄に手料理を振る舞ってもらってから数日後。あれ以来、陽翔の生活に大きな変化はない。


 真澄と特別仲良くなることもない。これまでと変わらない、ただの隣人の関係だ。


 とはいえ、陽翔自身に変化が全くないわけではない。陽翔は真澄に部屋の掃除をしてもらって以降、可能な限り部屋を汚さないよう心掛けるようになった。


 理由は単純で、真澄がせっかく綺麗にしてくれた部屋を汚してしまうのは憚られたから。どれだけ気を付けてもいずれは汚れてしまうが、できるだけ清潔な部屋を維持しておきたい。


 もしわずか数日で掃除前のように部屋を散らかそうものなら、真澄は呆れ果てることだろう。まあ今後真澄を部屋に招く予定はないので、無駄な仮定ではあるが。


 陽翔の心掛けの一つとして挙げられるのは洗濯だ。


 以前は週末にまとめてしていた洗濯だが、ここ最近は清潔な部屋を維持する一環として一日に一回は洗濯機を回している。こまめな洗濯は面倒ではあるが、怠れば服の脱ぎ散らかされた汚い部屋に逆戻りなので仕方ない。


 この日もいつも通り学校を終えて帰宅した陽翔は、着替える前に朝のうちに干していた洗濯物を取り込むためにベランダに出た。


「……ッ」


 ベランダに出た途端、ひと吹きの風が肌を撫で、ぶるりと身を震わせる。日が暮れ始めたばかりではあるが、十月下旬ともなると肌寒い気候だ。


「あ、陽翔お兄ちゃんだ!」


 洗濯物に手を伸ばそうとしたタイミングで、弾んだ声音が隣のベランダから聞こえてきた。声の主が誰なのかなどと問うまでもない。陽翔のことを親しげに『お兄ちゃん』などと呼ぶ人間は、一人しかいない。


「こんなところで会うなんて奇遇だな、真那」


「うん、私もビックリだよ。ねえ、お姉ちゃん」


 真那は背後に立っていた真澄に声をかけた。


「そうですね、まさかこんな場所で顔を合わせることになるとは思いませんでした。こんにちは、戸倉君。ここで何をしているんですか?」


「見ての通り洗濯物を取り込んでるんだよ。そっちは?」


「私も今から洗濯物を取り込むところです。それにしても戸倉君が洗濯ですか……」


「何だよ、俺が洗濯してたらおかしいか?」


 訊ねてみると、真澄はあっさりと否定した。


「いえ、そこまで言うつもりはありません。ただ戸倉君は学校のない週末にまとめて洗濯するタイプだと思っていましたから、ちょっと意外だと思っただけです」


「……黒川にせっかく掃除してもらったからな。できるだけ汚さないよう心掛けてるんだよ」


「いいことだと思います。隣人として、あんな汚い部屋の存在は私も見過ごせませんから」


 学校では品行方正と評される真澄ではあるが、学校の外だと割とトゲのある言葉を吐いているように感じる。もしかして、こっちが素なのだろうか?


「あとは自炊ができれば完璧ですが……」


「それは無理だな。俺、料理なんてまともにしたことがないし」


 情けない話ではあるが、料理に関しては完全にお手上げだ。まともに食べられるものすら作れるか怪しいレベルだ。


「そんなに簡単に諦めないでくださいよ。いきなり上手に作るのは無理でも、練習すれば私くらいにはなれますから」


「いや、それこそ無理だろ……」


 数日前、真澄が振る舞ってくれた料理が脳裏をよぎる。どれも美味しく、いくら練習しても、とてもではないがあの領域まで到達できるとは思えない。


「練習すればって言うけど、この前食べた黒川の料理の腕はそう簡単に身に付くものじゃないだろ」


「……褒めても何も出ませんよ?」


「別にお世辞を言ったつもりはねえよ」


「…………」


 言外に今の発言が本心であることを告げた。


 するとなぜか、非難するような目で見られた。そんな目で見られる覚えはないが、知らない内に真澄を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。


「……今の話から察するに、今日も夕食はカップ麺ですか?」


「俺は料理ができないから、そうなるだろうな。それがどうかしたか?」


 真澄が少しの間思案するように口元に手を当て、押し黙る。


 しかしすぐさま再び口を開いたかと思えば、一つの提案をしてきた。


「……もしよろしければですが、この前みたいにウチでご飯を食べていきませんか?」


「は……?」


 思いもよらぬ提案に、陽翔の目が点になる。真澄が冗談を言っているようには見えないから、きっと本気で提案しているんだろう。


「……夕食に誘ってもらうような理由は、もうないと思うけどな」


「隣人がみすぼらしい食事をするのを見過ごせなかった……というのではいけませんか?」


「……お礼とかできないぞ?」


「別にそういったものを期待しているわけではありません。だからお礼なんて、気にする必要はありませんよ」


 晴天の霹靂とは、まさに今のような状況を言い表す言葉だろう。気にする必要はないと言われても気にしてしまうが、ありがたい話ではある。


 前に作ってもらった料理が思い返される。あれと同じくらい美味いものがもう一度食べられると考えるだけで、ゴクリと喉が鳴る。


 きっと今日作る料理も美味しいことだろう。それが食べられるのなら、是非ともご相伴に預かりたい。しかし陽翔には一つだけ、そのありがたい提案に対して懸念があった。


「今更だけど、俺は男だぞ? その……そう何度も部屋に招いてもいいのか?」


 以前お邪魔した時は誘われたこと自体に意識が向いていて気付かなかったが、陽翔は男子で真澄は女子。気軽に互いの部屋を行き来していい間柄ではない。


 男を部屋に上げることに、多少なりとも身の危険を感じるべきだ。


「本当に今更ですね。そんなことを気にしていたんですか?」


「そんなことってお前な……」


 陽翔は真澄の身を案じていたのに、当の本人が大したことでないかのように言うものだから、ムっとなるのも仕方のないことだ。


 陽翔が言えた義理じゃないが、真澄は自身の魅力を理解し、もっと危機感を持つべきだ。


「私は戸倉君のことを信頼してますから、問題はありません」


「……俺は黒川にそこまで信頼される覚えはないぞ」


 クラスメイトとして半年近く一緒ではあったが、まともに話したのはここ数日の話。真澄から信頼される理由に心当たりはない。


 だというのに、真澄はハッキリと信頼を口にした。陽翔は内心首を傾げずにはいられない。


「別に特別な理由はありませんよ。ただ私は、困っている女の子を打算もなく助けてくれるような人を疑うほど、疑り深い人間ではないというだけです」


「それだけで信頼してくれるのか?」


「はい、それだけで十分です。それとも戸倉君は、何か良からぬことをするつもりなんですか?」


「そんな面倒なこと、するわけないだろ」


 確かに真澄は魅力的な女の子ではあるが、それだけで良からぬことをするほど陽翔は欲望に忠実ではない。


 後で面倒なことになるのは目に見えている以上、陽翔は欲望ではなく理性に従って行動をする。


「なら何も問題はありませんね」


「…………」


 何だか言いくるめられた気がするが、それを指摘したところで意味はない。むしろここは真澄の口車に乗った方が、陽翔は美味しい手料理にありつける。


 故に陽翔は真澄の誘いに首を縦に振るのだった。





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