第2話

『じゃあ試験が終わってからってことで、18日とかどう?お礼もしたいから、時間空けててくれると嬉しいな』


そんなメッセージが来たのが、1週間前のことだった。てっきり服を返してもらって終わりだと思っていた涼真は、瑞稀からのメッセージにきょとんとした。お礼、とは。そもそもからあげをもらったお礼に服を貸したという話をしていたような気がするのに、お礼なんてしてもらってしまっていいんだろうか。涼真は一瞬返答に迷ったのだが、その次に来たメッセージですぐさま心変わりをした。


『焼肉、好き?よかったら食べに行かない?』


焼肉が嫌いな男子大学生なんて、いるだろうか。いやいない。

涼真は画面を見ただけで、よだれが出そうになった。焼肉なんて、食べられたとして給料日の翌日くらいしかない。下宿している涼真は、大学の学費と家賃を両親に払ってもらっている代わりに、その他の生活費は自分で稼いでいる。コンビニバイトは比較的稼げる仕事だが、節約のために基本は自炊。同級生から誘われる飲み会も、数回に1回しか行けないような状況だ。そんな彼が、焼肉と聞いて飛びつくのを我慢できるわけはなかった。


『焼き肉大好きっす!!!!』


力強い返信に加えて、はしゃいでいる鳥のミニキャラたちのスタンプも2つ押しておいた。この鳥のスタンプは、かわいいと思って最近買ったものだ。


『よかった。じゃあ焼肉行こうか』


返ってきたメッセージに、涼真は思わずガッツポーズした。服を貸したお礼に焼肉だなんて、まさかのまさかだ。「じいちゃんが情けは人の為ならずって言ったのはこのことだったのか・・・!」なんて、涼真は浮かれ切った頭で回想する。ちなみに、涼真のじいちゃんは人生訓を教えたのであって、服を貸したお礼に焼肉が返ってくると教えたわけではない。

何はともあれ、試験が終わった翌日には焼肉が食べられる。それはもう、涼真のモチベーションアップに繋がった。普段は後ろから数えた方が速いレポート提出の順番も、ゼミで1番になるほど。マークシート式のテストも、いつもより丁寧に塗りまくった。いつもは流して聞いてしまいがちな一般教養科目のテストもきちんと復習したおかげか、それなりに回答できた。何だか、インテリ人間になった気分だ。

そうして気分よく迎えた、18日。涼真は職場であるコンビニの前で、ソワソワしながら瑞稀を待っていた。「車で迎えに行くから19時に駐車場で待ってて」と言われたのだ。そして待つこと10分。涼真の目の前に停まったのは、何と黒塗りの外国高級車だった。


「ん?」


ヒマつぶしにスマートフォンでゲームをやっていた涼真は、ふと顔を上げる。そこには、テレビでしか見たことがないような磨き上げられた高級車がバックで停まっていた。窓も黒くて、何だかいかつい。涼真は目をぱちぱちとさせる。


「(何でオレの前で停まったんだ?)」


涼真の疑問は、すぐに解決した。運転席のドアが開いて、サングラスをかけた強面の男が降りてくる。そして彼は後部座席のドアを開けた。そこから細い足が見えて、見覚えのある人物が地面に立つ。


「原田くん、お待たせ」

「えっ!?」


以前会った時と同じように、トレンチコートとタイトなスキニーパンツに身を包んだ瑞稀が、涼真に向かってひらひらと手を振った。涼真は目の前の光景が処理しきれず、車と瑞稀を交互に見る。


「た、竜田さんって・・・!?」

「うん?どうかした?」

「いやっ、えっ、竜田さんってお金持ちなんすか!?」


まるで小学生のような質問。今の混乱した涼真には、これが精いっぱいだったらしい。瑞稀はキョトンとした後、ふふっと噴き出した。


「うーん、世間的にはそうなるかな?まあとりあえず乗って」

「えっ、オレ乗っていいんすか!?こんな高そうな車・・・!」

「迎えに来たのに、原田くん乗せないでどうするの。ほらほら、乗って」

「あっ、わっ、お、おじゃまします!!」


涼真は謎に一礼をしてから、促されるまま後部座席に乗り込んだ。革張りでふかふかの座席、広い足元。涼真にとっては何が何やら分からない。涼真にとっての車とは、姉弟3人と両親でぎゅうぎゅうと乗り込むワンボックスカーか、農作業のために使う軽トラだ。涼真の実家は農家であるため、学校や部活から帰る時に迎えに来てもらうのも、軽トラが多かった。実家で飼っている雑種の犬・ふくおと一緒に荷台に乗ることもしばしば。こんなふかふかと沈める座席なんて、この世に存在している事さえ知らなかった。


「や、ヤバ・・・!ふかふか・・・!」

「ふふ、そう?そんなに緊張しないで」

「いやいやいや!無理っす!オレ、実家が田舎の方なんでこんな高そうな車とかドラマでしか見たことなくて・・・!」


何度もすげーすげーと繰り返しながら、涼真は座席のあちこちをペタペタと触る。まるで、子どもが初めてのおもちゃを手に取ってはしゃいでいるようだ。瑞稀は微笑ましく思いながら、シートベルトをするように言った。


「ちょっと走るから、リラックスして乗ってね。1時間もかからないとは思うけど」

「そ、そうなんすか!?えっ、もしかして食べ放題じゃない、焼肉っすか・・・!?」

「?そうだけど・・・嫌だった?」

「食べ放題じゃない焼肉ってほんとにこの世に存在してるんすね!!」


涼真の瞳は、これでもかというほどキラキラと輝いていた。これは本当に、思っていることをそのまま言っている顔だ。瑞稀は可愛らしいやらおかしいやらで、笑いを必死にこらえる。


「ふっ、ふふ・・・!原田くん、ほんとに焼肉好きなんだね・・・!あはは・・・!」

「あっ、すんません!田舎もん丸出しで・・・!」


さすがにはしゃぎすぎていることに気づいた涼真。口元を押さえて笑う瑞稀に、かあっと頬を赤くした。一応成人しているのだが、これでは小学生と同レベルだ。


「いやいや、僕こそ笑ってごめんね。そんなに好きなら、ご馳走するかいがあるな」

「ほんと、服貸しただけなのに何かすんません・・・!お礼してもらいすぎてる気がする・・・」

「そんなことないよ。ね、竜司」

「はい」


瑞稀は運転席で静かに待っていた男に声をかけた。彼は先ほど、瑞稀が降りるときにドアを開けていた人物だ。男は振り向いて、涼真にぺこりと頭を下げる。


「社長が世話になったようで、私の方からもお礼申し上げます」

「あ、いえいえ・・・って、社長!?」


男につられて頭を下げかけた涼真だったが、彼の言葉に妙な引っ掛かりを感じてガバッと顔を上げた。


「竜田さんって社長なんすか!?」

「あれ?言ってなかったっけ」


瑞稀は胸元のポケットから、名刺を取り出す。それは、あの日涼真がコンビニで拾った名刺と同じものだった。その小さな紙面には、会社の名前と瑞稀の名前が書かれていて。


『取締役社長 竜田瑞稀』


瑞稀の名前の上に、確かに役職名が刻まれていた。あの時は、名前しか見ていなかったのだ。涼真は名刺を受け取りながら、本日何度目か分からない興奮を覚えた。


「ヤベ―・・・マジで社長って書いてる・・・」

「見えないってよく言われるんだけどね。一応会社経営してるんだ。こっちの運転手は森竜司。僕の秘書兼SPってとこかな」

「竜司です。どうぞよろしく」

「あ、よろしくお願いします!原田涼真です!」

「竜司、サングラス取りなよ。怖いって」

「ああ、これは失礼」


竜司はサングラスを取って、もう一度会釈した。黒髪でオールバックにしており、目つきが鋭く左目の目元に傷のようなものがある。だが不思議と、怖くは感じなかった。涼真はパッと歯を見せて笑う。


「竜司さん、めっちゃ強そうっすね!」

「そうですか?確かに、社長の護衛も務めておりますので・・・」

「えーすげぇな、マジで竜田さん社長なんだ。え、でも社長さんってコンビニに買い物来るんすね?それこそ、秘書の人とかに買いに行かせてそうなのに」

「社長はふらふら歩き回るのが趣味でして」

「え?そうなんすか?」

「ふらふら歩き回るっていうか、たまには1人になりたくてさ。仕事してるとどうしてもゆっくりできないから」

「あーなるほど。大変なんだな・・・」


涼真は神妙にうなずく。社長というと部下に命令をして自分は楽をするような生き物だというイメージがあったが、実際はそうではないのかもしれない。この綺麗な顔の下で、色んな苦労を重ねているんだろう。涼真は漠然とそんなことを思った。


「あ、そろそろ行こうか。一応予約してるから」

「わーすんません!オレがはしゃいじまって・・・!」

「いいよいいよ。楽しみにしててね」

「はい!このためにめっちゃ腹空かせてきたんで!」

「ふふ、食べっぷりが楽しみだな」


そして、車が走る事40分。涼真が連れてこられたのは、都心のビル街から少し離れたところにある、いかにも高級そうな店構えの焼肉店だった。涼真にとっては一生縁がなさそうだった場所だ。


「お、オレこんな格好ですけどいいんすかね・・・!?」

「大丈夫だよ。そんなに堅い店じゃないから」

「では社長、また後ほど」

「うん」

「あ、森さんは一緒に食べないんですか?」

「私はまだ仕事がありまして。どうぞゆっくりなさってください」


竜司に見送られながら、2人は店に入る。涼真はどこかおっかなびっくりといった様子で、大きな背を丸めていた。体格に似合わないその仕草が可愛らしくて、瑞稀は微笑む。予約していたので、スムーズに席に通された。店の中はすべて個室で区切られていて、高級感にあふれている。通された席は、店の一番奥だった。


「ま、マジでこんなとこ来たことないっす・・・!緊張する・・・」

「あはは、ごめんね。先にどこ行くか言っておけばよかったかな」

「いや、教えてもらってたらそれはそれで・・・たぶん緊張してたっす・・・」

「うちの会社に原田くんと同年代の若い子がいるから、どんなことがお礼になるかって聞いてみたんだ。そしたら皆、食べ盛りだから焼肉がいい!って。僕も焼肉なら好きだし、それならここがいいかなって思ったんだよ」

「そうだったんすね。やーほんと、ありがとうございます!オレこんないい店の肉食ったら元に戻れねえかも・・・」

「ふふ、気に入ったら言って。また連れてきてあげる」

「え、いいんすか!?いやでも、贅沢に慣れると後が大変ってばあちゃんが言ってたな・・・」

「あはは、それは確かにそうかも」


そうこう言っているうちに、店員がメニューとお通しを持ってやってくる。メニューに書かれている肉の種類に、涼真は目を白黒とさせた。見たことのない単語が羅列されている。涼真が見たことがあるのは、ハラミだとかカルビだとか、そういった一般的な肉の部位だ。だが今見ているメニューには、そういった単語に加えてイチボだのトモサンカクだの、とにかく見覚えがないものばかり。しかも値段も、見たことのない数字。たった一度服を貸しただけで、これを食べていいものなのか。涼真は思わず瑞稀を見た。


「どうしたの?」

「や、マジで何か・・・オレ、ここまでしてもらえるようなことしてない気がして・・・」

「そんなことないよ。原田くんにとっては当たり前だったかもしれないけど・・・困ってる人をちゃんと助けられるって、すごいことなんだよ。・・・世の中には、自分のことしか考えてない人間だって多いから」

「え?」


瑞稀の声が、少しだけ低くなった。表情もどこか厳しい。一体何を思い出しているのだろうか。涼真は何だか不安になって、瑞稀の瞳を覗き込んだ。


「竜田さん?」

「!あ、何でもないよ。ほら原田くん、あの時僕が店に入る前に女の子を助けたでしょう?」

「え?何で知ってるんすか?」

「入口の前でちょうどすれ違ったんだよ。逃げるみたいに走って行ったから、どうしたのかなって思ってたんだ。それで、中に入って原田くんとあの酔っ払いが見えたから、何となく察したんだよね」

「あーなるほど」

「助けたくても、勇気が出ない人だっているからね。原田くんはすごいんだよ。だから、そうだな・・・。お礼っていうのが一番だけど、大人としてご褒美もあげたいなって」

「・・・なんかオレ、竜田さんにご褒美ばっかもらってる気がするっす・・・」

「あれ?そうだっけ?」

「からあげも、ご褒美だってくれましたよね。オレ、ほんと嬉しかったんすよ。あんな失礼なこと言った後だったのに」

「ああ、あんなの失礼なうちに入らないよ。何だろうな、原田くん見てると何か元気が出るっていうか・・・。食べ物あげたくなっちゃうんだよね。よく言われない?」


瑞稀の言葉に、涼真は言葉を詰まらせる。彼の言うことが図星だったからだ。昔から、何故か「良い食べっぷりだね」なんて言われながら、食べ物をもらうことが多い。現在もコンビニの店長から廃棄商品をもらったり、日勤のおば様たちからおかずをタッパーで分けてもらったり。普通に食べているだけなのに、と涼真はいつもありがたさと気恥ずかしさを感じているのだった。


「・・・よく言われるっす」

「あ、やっぱり?ふふ、そうなんだ」

「オレそんなに腹空かせてそうな顔してるんすかね・・・」

「おいしいって素直な気持ちが顔に出てるんだよ、きっと。おいしそうに食べてくれたら、あげた方も悪い気はしないから。ってことで、遠慮せずにいっぱい食べてね」


そこまで言われてしまえば、遠慮しているのが悪い気がしてきた。涼真は素直にうなずいて、瑞稀の言葉を受け入れる。遠慮したところで、腹の虫が大人しくしていてくれないのも事実だ。


「じゃあ・・・ありがたくいただきます!」

「うん。どうぞどうぞ。せっかくだし、おススメもらおうか。原田くん、成人してたっけ?お酒は飲む?」

「あ、成人してます!ビールで!」

「お、いいね。じゃあ僕も最初はビールにしようかな」


店員に注文を伝え、待つことしばし。テーブルの上には、見るからに上等そうな肉が次々と並んでいった。ビールで軽く乾杯してから、涼真はさっそく肉を網に並べ始める。


「オレが焼いちゃっていいっすか?」

「うん、お願いできるかな。いつも人にやってもらってるから・・・」

「あー、確かに竜田さんは焼いてなさそう。社長さんですもんね」

「そんな偉いものでもないんだけどね。原田くんはこういうの慣れてるの?」

「一応は。オレ、姉貴と弟に挟まれてて。こういう雑用的なのはいっつもオレがするんすよねえ」

「へえ、お姉さんと弟さんいるんだ。3人姉弟?」

「そうっす!姉貴は5つ上で絶対頭上がんないし、弟はまだ高1なんでこういうことやらせるの可哀想だし」

「そうなんだ。姉弟で仲良いんだね」

「確かに、仲良いねってよく言われるかも。姉貴が社会人になるまではけっこうケンカしてたけど、もうしなくなったし・・・。弟とは6つ離れてるからケンカになんないですね」


姉弟のことを思い出しているのだろう、涼真の表情は柔らかく、優しかった。姉と弟のことを大切に想っているのが伝わってくる。瑞稀は、眩しそうに目を細めた。


「いいなあ」

「竜田さんは兄弟とかいるんすか?」

「!」


涼真の質問に、瑞稀は一瞬だけ息を詰まらせた。しかし涼真が気づく前に、先ほどまでの笑みを繕う。


「弟がいるよ。4つ下の」

「おー、そうなんだ!」

「でも、原田くんのところみたいに仲良くはないかな。ずっと前にケンカして・・・それっきり」

「え、そうなんすか?連絡とか取ってないんすか?」

「もうお互いにいい歳だしね。心配しなくても、どこかで元気にはしてるだろうから」


瑞稀の声は静かだった。だが彼の視線はどこか遠くを見ていて。何となく、言葉の後ろに本音が居るような気がした。


「竜田さんは、仲直りしたいんすね」


涼真は、無意識に瑞稀の本音を拾い上げた。彼の言葉に、瑞稀の目が大きく開かれる。それは初めて見る、彼の驚きだった。一拍置いて、涼真はしまったと顔を歪める。他人が易々と口にするべきことではなかったかもしれない。


「す、すんません!余計なこと言って・・・」

「いや・・・そうだね。僕は・・・仲直り、したいかな」


半分諦めたような、それでもまだ想いを燻ぶらせているような、複雑な表情で瑞稀は笑った。涼真の胸がずきん、と鈍く痛む。気の利いた言葉なんて思い浮かばないけれど、せめて彼の気持ちを軽くしたくて、涼真はニカっと元気よく笑った。


「きっとできますよ!」


その笑顔を例えるなら、太陽のようだった。瑞稀の心を、じわじわと温めてくれるような。彼が心からそう言ってくれるのが分かるから、感じられる温かさなのだろう。瑞稀は頷いた。


「ありがとう」


まだ知り合って間もないけれど、彼が言ってくれるなら本当になる気がした。不思議な心地だ。涼真は瑞稀の言葉に頷くだけで、それ以上は何も言ってこなかった。


「あ、肉イイ感じになってきましたね!こっちの皿に置いていいっすか?」

「ああ、ありがとう。美味しそうだね」

「やー、さっきからよだれ垂れそうっすよ!じゃあとりあえず、いただきまーす!」

「どうぞどうぞ」


手を合わせてから、涼真は大きな口を開けてハラミを一口で食べた。数秒後、彼の瞳がキラキラと輝きだす。まるで初めて離乳食を食べた赤ちゃんのような、幸せで堪らないといった表情だ。こういう顔が見たいって思われてるんだろうな、と瑞稀は密かに頬を緩める。


「うま~!!」

「あはは、それはよかった」

「えっ、うま!高いハラミってこんなうまいんすか!すげー!」

「どんどん食べてね。ほら、タンもあるよ」

「はい!うへへ、うま~!」


焼いては食べ、焼いては食べ、涼真の箸が止まることはなかった。もちろん、瑞稀の分も焼いてくれているのだけど、正直言って彼の食べっぷりを見ているだけで満腹になってしまいそうだ。彼の全身が美味しいと叫んでいる。ここまで喜んでくれるのなら、連れてきたかいがあるというものだ。瑞稀は肉を咀嚼して酒で流し込みながら、目の前の彼を楽しそうに見つめていた。誰かとの食事が楽しいだなんて、いつ以来だろうか。もう思い出せないくらい前の話だ。瑞稀にとっての食事はただの習慣で、生きるためのもの。特にこだわりもないし、高い店に行こうとも相手がいれば腹の探り合いばかりで食べた気になんてならない。1人で吸う煙草の方がよほどマシだと感じるほど。だが今夜は、本当に久しぶりに「美味しい」と思えていた。すべて、彼のおかげだ。


「竜田さん、あの・・・」

「!うん?」


物思いにふけっていた瑞稀を、涼真が遠慮がちに引き戻す。彼は右手にメニューを持って、面白いほど真剣な顔をしていた。


「この、シャトーブリアンって何すか・・・!?」


どうやら、メニューにあった知らない単語について悩んでいたらしい。瑞稀は笑いを堪えながら、答える。


「シャトーブリアンは肉の部位のことだね。確か、肉全体の何%も取れないっていう希少部位とか何とか・・・。僕も詳しくはないんだけど」

「へえ~!何か聞いたことはあったけど、部位の名前だったんだ!何か、強そうな必殺技みてえな言葉だなって思ってて・・・」

「原田くんは発想が面白いね。頼んでみる?」

「えっ、いいんすか!?」

「今さら遠慮しなくていいよ。食べてみたいでしょ?」

「う、うっす・・・!」

「よし、じゃあ頼んじゃおう」


そして運ばれてきたシャトーブリアンを見て、涼真は感嘆の声をあげた。拳くらいの大きさの塊を、焼きながら切って食べるらしい。


「しゃ、写真撮っていいっすか!?」

「あはは、どうぞ。誰かに見せるの?」

「ゼミの友達に自慢してやろうと思って!アイツらも絶対シャトーブリアンのこと必殺技って思ってそうなんで!」


涼真はカシャカシャと何度かシャッター音をさせた後、LINEを開いた。今ここで、ゼミの級友たちに送り付けるらしい。彼の行動を見守っていた瑞稀だが、ふとあることを思い出す。そういえば、会ったら聞こうと思っていたことがあったのだ。


「ねえ、原田くん」

「?はい!」

「こないだ、原田くんがLINEでメッセージくれたときに、鳥のイラスト?みたいなのを送ってくれたよね?」

「イラスト?あ、スタンプっすかね?」

「あ、そうそう。そのスタンプって、どうやったら送れるようになるの?」

「スタンプは色々ありますけど・・・大体はストアで課金したら使えるようになりますよ!」

「すとあ・・・」


聞きなれない単語を、思わず反芻する瑞稀。涼真は「あ、そっか!」と何かに納得したように頷いて、それから自分のスマートフォンを軽快に操作した。


「竜田さん、ほとんど使ったことないって言ってましたもんね。ちょっと待っててください!」

「え?う、うん」

「えーっと、オレのこれってどれだっけ・・・。あ、これか」


涼真が独り言を零してから、数十秒。瑞稀のスマートフォンが、初期設定の通知音を奏でた。


「あれ?今何か送ってくれた?」

「はい!スタンプって、LINE交換してる人にプレゼントしたりもできるんすよ!せっかくなんで、今プレゼントしました!」

「えっ、」


瑞稀は慌ててポケットからスマートフォンを取り出し、アプリを開く。すると、今までまったく触ったことのなかった「スタンプ」と書かれた欄に、見覚えのある鳥のイラストが現れていた。どうやら、これがプレゼントされたということらしい。


「と、鳥がいる・・・!」

「それかわいいっすよね!オレも友達が使ってるの見て買ったんすよ」


それ人気のイラストレーターが描いてて、という涼真の解説は、瑞稀の耳には流れていく。彼はスマートフォンの小さな画面に釘付けだった。どうやら、可愛らしい文鳥やインコのイラストに目を奪われているらしい。彼の横顔は、少年のようだった。


「もしかして、竜田さんって小鳥好きなんですか?」


彼の様子を見れば、至極当然に浮かぶ問いだろう。だが瑞稀は、恥ずかしそうに頬を染めた。


「・・・これで好きじゃないって言っても信じてもらえないよね・・・」

「や、まあ・・・。好きそうに見えるっすね・・・」

「だよね・・・。いい歳した男が何言ってんだって感じなのは分かってるんだけど・・・」

「え、別にいいじゃないっすか!好きなもんに歳とか性別とか関係ないっすよ!」

「・・・!」

「オレも犬のスタンプとかめっちゃ集めてるし!実家に犬いるから、ついつい似てるヤツ買っちゃうんすよ」


涼真は画面を見せて、ほらねと笑った。確かに彼の言うように、画面には10種類近くの犬のスタンプが並んでいた。包み隠さず話してくれる彼を前にすると、瑞稀の中の羞恥心がすうっと消えていく。本当に、不思議な青年だ。彼になら話してもいいかもしれない。気づけば、瑞稀は口を開いていた。


「僕、小鳥はもちろんなんだけど、鳥全般が好きで・・・。飛んでる姿を見るのが好きなんだ」

「へえ、そうなんすね!どの鳥が好きとかあるんすか?」


どこか底が知れなかった瑞稀の、初めて知った好み。涼真は嬉しくなって、まくし立てるようにたずねた。彼が話してくれるなら、すべて聞いてみたかったのだ。


「うーん、そこまで詳しくないから種類とかは分からないんだけど・・・。小さいのも大きいのも好きかな」

「おー、なるほど!インコとか飼ってたりしました?」

「いや、飼ったことはないんだ。両親が厳しくて。小さいころから好きなんだけど、触ったことはなくてね」

「そうなんすね・・・」


心なしか瑞稀の表情が沈んだものになった気がして、涼真の眉も下がる。好きなのに触ったことがないというのは、同じ動物好きとして何だかやるせない。涼真は少し考えて、そしていい案を思いついた。


「じゃあ、触りに行きましょーよ!」

「え?」

「植物園と鳥の動物園みたいなのが一緒になってる施設があって!オレ、昔行ったことあるんすよ!たぶん今もあるし、一緒に行きましょ!」

「・・・!」


瑞稀は、咄嗟に言葉を紡げなかった。社交辞令かもしれない。ここは大人として、軽く流すのが正解なのだろう。だが彼の笑顔を見ていると、そうではないと思いたくなってしまう。知り合ってまだ3週間と少し。それでも一緒にいることはきっと楽しいと、確信できてしまうような何かを彼は持っている。気づけば、瑞稀は頷いていた。


「ぜひ行ってみたいな」

「よっしゃ、行きましょ行きましょ!あ、でも竜田さん忙しいっすよね?大丈夫っすか?」

「大丈夫だよ。ちょっとくらいサボっても竜司に任せられるから」

「おーよかった!じゃあ予定合わせましょー!」


涼真は張り切って、カレンダーアプリを開いた。さっそく予定を立てるらしい。連絡先を交換した時もそうだったが、涼真は思いついたら即行動派のようだ。瑞稀は苦笑した。


「とりあえず、原田くんの予定を先に聞いておいてもいいかな?僕の方はすぐに分からないから」

「!あ、そうっすよね!すんません!えっと、オレは・・・試験も終わったし、バイトない日なら基本ヒマなんで!竜田さんが行けそうな日教えてくれたら合わせられます!」

「そっか。じゃあ確認してまた送るね」

「はーい!」



―――・・・・・。



「随分楽しかったようで」


焼肉屋に入って数時間後、瑞稀は涼真と共に竜司が運転する車に揺られていた。シャトーブリアンも平らげ、デザートにも舌鼓を打った涼真は、現在夢の中だ。瑞稀の肩に頭を預けてすやすやと寝息を立てている。焼肉屋に入ってからずっとはしゃぎっぱなしだったし、酒も入ったことから睡魔に勝てなかったらしい。竜司が迎えに来て車に乗り込んでからものの数分で、彼は舟をこぎ始めた。そして瑞稀が「寝てもいいよ」と優しく言うと、彼は曖昧に返事をしながら瑞稀に寄りかかってきたのだ。瑞稀はそんな彼の頭を退かそうとせず、好きにさせてやっていた。その様子をバックミラーから見ていた竜司が、少しからかうように言葉を投げる。すると瑞稀は眉を寄せて不機嫌そうな顔をした。余計なことを言うな、とでも言いたそうな表情だ。竜司は肩をすくめる。


「これは、失礼いたしました」


車内に静寂が満ちる。瑞稀は涼真を起こさないようにそっと足を組み変えながら、懐から煙草を取り出した。だがしかし、少し考えた後それを再び胸ポケットへ仕舞う。見るからに健康優良児の涼真の前で喫煙をするのは、さすがに気が引けたのだ。


「一服しないんですか?」

「後でいい」


別にそこまで気を遣わずともいいのだろうけれど、涼真の前では「良い大人」でありたいと思ってしまった。社長である瑞稀を手放しで「すごい」と褒めて、目をキラキラと輝かせて。そんな年下の彼のまなざしを、裏切りたくなかったのかもしれない。取り繕ったところで、自分が「裏側の世界」を生きている人間であることに、変わりはないのだけれど。


「んぅ・・・・・」


耳元から、涼真の穏やかな寝息が聞こえてくる。出会ったばかりの人間に体を預けて眠ることができるのは、彼が隣にいる誰かを何も疑わずに生きている証拠だ。陽の光を浴びて、当たり前の日常を当たり前に享受している証。それが羨ましくもあり、眩しくもあり、そして微笑ましくもある。瑞稀は無意識のうちに、少し跳ねている茶髪に手を伸ばした。ぽんぽん、と2回撫でてから何事もなかったかのように手を戻す。そしていつもと同じように、興味のなさそうな顔で流れていく夜景を見つめた。


「・・・そろそろ着きますが、起こせそうですか?」

「ああ、もう近いな。・・・原田くん、原田くん」


瑞稀は涼真の肩を軽くたたきながら、優しく声をかける。しばらくすると、涼真の目がぼんやりと開いた。


「たつ、たさん・・・?」

「うん、おはよう。そろそろ着くんだけど、起きれそう?」

「え・・・」


瞬きを3回。涼真はゆっくり繰り返した後、ピシャっと飛び起きた。


「す、すんません!オレ、ずっと寝て・・・!?」

「あはは、ぐっすりだったね」

「いや、えっ、オレもしかして竜田さんにずっともたれました!?」

「まあ、うん。そうだね」

「うわ~!?マジっすか!?ほんっとすんません・・・!焼肉ご馳走になった上に・・・!」

「いいよ。そんなに長い時間じゃなかったし」

「いやでもマジ、腹いっぱいになってすぐ寝るとか、ガキみてえ・・・」

「いやいや、若い証拠だよ。あ、これ忘れないうちに」

「?」


瑞稀は脇に置いてあった紙袋を、涼真に手渡した。涼真は何を渡されたのかが分からず、首をかしげる。


「何すか?」

「何って、借りた服だよ。今日返す約束だったでしょう?」

「・・・あ!そういやそうだった!」

「もしかして忘れてた?」

「やー、焼肉で頭いっぱいだったんで・・・。そっか、これ返してもらうって話でしたもんね。あざっす!」

「いやいや、こちらこそ本当にありがとう。助かったよ」


そこで、タイミング良く車がコンビニの前に停まる。下宿先のアパート前まで送ることを提案したのだが、それはさすがに悪いからと待ち合わせ場所だったコンビニ前を涼真が指定したのだ。


「ほんと、今日はありがとうございました!ほんとにうまかったっす!森さんも、運転あざっした!」

「いえいえ、僕の方こそありがとう。楽しかったよ」

「お気をつけてお帰りください」

「じゃあ、今度は竜田さんの予定待ってるんで!送ってくださいね!」

「あ、そうだったね。ちょっと待っててね」

「はい!じゃ、おやすみなさい!」


涼真はガバっと体育会系の90度お辞儀をしたあと、軽快にアパートの方へ駆けていった。その背が小さくなったのを見届けてから、竜司はアクセルを踏む。


「あの坊主のこと、えらく気に入ってるようで」

「は?」


龍櫻会の屋敷に戻る道中、しばらく続いた静寂を破ったのは竜司だった。先ほどと同じ、少しからかうような声色。瑞稀の眉間にしわが寄る。


「何が言いたいんだ」

「いえ、何も。食事の方も楽しまれたようで何よりです」

「・・・まあ、狸ジジイ共とする食事よりは、そりゃね」


そっけない返事とは裏腹に、瑞稀の表情はいつもより柔らかかった。恐らく本人も気づいていないだろう。竜司はそれ以上何も指摘せず、胸の内にしまっておいた。瑞稀が組長として生きる前から彼を支えている竜司にとって、瑞稀は尊敬する「頭」であり、社会からはみ出た自分を受け入れてくれた龍櫻会への恩義の象徴でもあった。昼は社長、夜は組長として生きる瑞稀に、心からの安寧の地など無いのかもしれない。だからこそ、彼の肩の力がふっと抜けるような瞬間ができたことは喜ばしかった。


「お前、今日はやけに静かだな」

「と、いうと?」

「いつもは「立場を自覚しろ」だの「ふらふら一人で出歩くな」だの、小言ばっかりのくせに。知り合ってすぐの大学生と食事に行ったことには何も言わないのか?」

「失礼ながら、あの坊主の身辺調査は先日一通り済ませましたので。怪しさのかけらも無い子供に警戒する必要はないでしょう」

「・・・そういうことか。3人姉弟らしいな」

「ええ、そのようで。近所でも評判の仲良し姉弟だそうですよ。祖父はすでに他界しているようですが、祖母と両親は健在だと。家族経営で代々農家をやっているようで、広い土地を所有し手広くやっているらしいですが・・・。それ以上には、特に探りを入れる必要もない家庭ですね」

「なら、それ以上触れるな。怪しまれても面倒だろう」

「はい、心得ています」


竜司との会話で、焼肉屋での涼真とのやり取りを思い出す瑞稀。

そういえば、優しくて穏やかだった祖父は中学生の頃に他界したと言っていた。もちろん悲しかったが、自分以上に姉が悲しんでいた。普段は勝ち気で男勝りな姉が、葬式が終わってもずっと泣いていたのを覚えていると。母親は口うるさいけれど料理上手で、時々送られてくる冷凍のおかず達が涼真の命綱になっているらしい。父親はいつもは寡黙で、しかし都会の大学に行きたいと言った涼真に「涼真のやりたいことをやりなさい」と言って、一番最初に味方になってくれたのだとか。1人暮らしを始める涼真を最後まで心配していたのが祖母。週に1回ビデオ通話で、元気な顔を見せていることも話していた。涼真が家を出ていったことで姉と兄がいなくなってしまった彼の弟は寂しく感じているようだが、思春期真っただ中の弟は素直に言ってくれなくて、と笑っていたことも思い出す。彼が子供のころから飼っている愛犬・ふくおの話もたくさん聞いた。


「・・・大事にされて育ったんだろうな」


ぽつり、瑞稀が呟く。家族の話をする涼真は、それはそれは楽しそうで。誰が聞いても、

彼が家族を大切にしていて、且つ家族に大切に想われていることが分かるだろう。瑞稀が生きてきた環境とは、つくづく違う。涼真ではなくて自分の方が特殊であることは自覚しているが、それでも羨ましくないといえば嘘になる。人間とは、いつでも無いものねだりをする生き物なのだ。


「そういえば、次も会う約束をされたようですが?」

「何の話だ」

「先ほど、そういった会話をされていたかと」

「・・・そういうのは聞き流せ」

「立場上、そういうわけにはいきませんので」

「彼を警戒する必要はないんだろう。なら、お前には関係ない」

「・・・承知致しました」


まさか「涼真と鳥を見に行く」だなんて言えるわけがないし、言いたくはなかった。瑞稀としては、彼との秘密にしておきたかったのだ。身辺調査も済ませて涼真の素性を知っている以上、竜司は深入りしてこないはず。瑞稀の予想通り、彼はそれ以上何も言ってこなかった。後は適当な理由をつけて休みの調整をすれば、付き合いの長い彼は何かを察することだろう。社長兼組長という立場のため自由に動けない瑞稀だが、時々屋敷を抜け出す瑞稀を竜司がわざと見て見ぬふりをして、組長に自由を満喫させようとしていることも瑞稀は知っているのだ。


「(・・・サボっていい日はいつかな)」


涼真との約束に、人知れず浮かれる瑞稀。月光に映し出される彼の横顔は、珍しく口角を上げていた。

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