鋭い悲鳴があがる。

 発生源は自分の喉元だった。近づいてくる者に気を取られ過ぎた。飛び出そうとしたとき、暗がりの窪みに気付かず足を取られた。無論、地面は平らではなく、暗闇から伸びる突起に腹と腿を打ち付ける。

「よかった、やっと見つけた」

 橙色の明かりが倒れた体を照らす。女の声がこちらに声を掛けた。しなやかで瑞々しい、強い芯のある若竹のような声だった。

 倒れた姿勢のまま手斧を構えようとする。しかし、握り締めたのは樹木の根だった。倒れる際、咄嗟に受け身を取ろうとして斧を手放してしまったらしい。辺りに視線を走らせるが、藪の深い森のなか、一度手を離れてしまえば簡単には見つからない。

「ずいぶん遅いから、心配していたの。熊もでるらしいから、危ないでしょう」

 女は手に持った明りで足元を照らす。光源はカンテラだと思っていたけれど、火が燃えているわけではないらしい。光も直線的でずっと明るい。

「どうしたの? もしかして怪我して立てない? ずいぶん傷だらけだし。月明かりもないまま、よくひとりで樹海を歩いたね」

 女は手を差し伸べる。明りのほかに凶器などは持っていない。どうやら敵意はないようだ。口ぶりからしてこちらを知っているらしい。この女が何もかもを説明してくれるのだろうか。

「あんた誰だ、ここはどこだ。この体は、何者なんだ?」

 女の細い眉が吊り上がる。

「どういうこと?」

「なにもわからない。なにも、なにひとつ知らない」

「こんなことって……」

 女は天を仰いで、そのあと頭を抱えた。激しい頭痛にでも襲われたように、ぐったりと項垂れてこめかみを揉んでいる。

「とりあえず行きましょう。森のど真ん中にいるわけにはいかないし、熊に襲われたらかなわない」

 女は有無を言わせずこちらの手を取って、立ち上がらせる。

「待ってくれ。あんたについて行っていいのか? あんたはこっちを知っているのか? あんたは――」

「あんた、あんたって言わないで。もう、なんで覚えてないわけ? 私は……いえ、純よ。黒江純。そして、あなたの名前は松丸さとし。これでいい?」

 質問を繰り返す口を塞ぐように黒江と名乗る女が答えた。気が済んだか、と苛立ちを目線に込めて返される。

「まつまる、さとし。さとし、さとし……ぼくはさとし。松丸聖」

「なにか思い出した?」

「いいや、さっぱりだ」

 名前を聞いてもそれが自分のものであるようには思えない。黒江にしても同じだ、まったく耳馴染みがない。記憶の入った箪笥ごと、ごっそりと持ち去られた感覚がある。思い出せない、というより、記憶そのものが何処にもないかのようだ。頭の中には依然として大きな空白が横たわっている。

 ぼくの混乱をよそに、黒江は手を引いて歩き始める。あれほど彷徨った深い藪だというのに、彼女は数十歩と行かないうちにあっさり抜ける。鬱蒼として未開の森だと思われた場所は、明りに照らされると細い獣道があった。獣というより、踏み固められた小径にもみえる。人が通る道があるということだろう。彼女はどうやら、その道を辿ってきたらしい。

 御堂があったのだから、御堂に続く道があってもおかしくはない。それさえ失念していたぼくの混乱ぶりがうかがえるというものだ。

 そこで自分が何から逃げてきたのかを思い出す。今の所、唯一自分の記憶として確かなものは、この身に迫った危険だ。

「逃げないと。ぼくは逃げてきたんだ、血まみれの、血だらけの御堂からッ」

「あぁ、やっぱり熊がでたんだ。ここらにでる熊はひとの味を覚えているから、積極的に人間を襲うらしいわよ。早く戻らなくちゃね」

 彼女は他人事のように、熊の仕業という。あんなものが獣の仕業であるはずがない。ぼくの恐怖や焦りがなにひとつ伝わっていない。もどかしさと動揺で頭を掻きむしる。

「怖がらなくていい。戻ったら安全。猟銃を持った付き添いの猟師がいるから、なんの心配もいらない」

 握られた彼女の手から伝わってくる。彼女は微塵も恐れていない。深い樹海も、夜の闇も、彼女のいうところの人食い熊の存在も。そこにあるのは堅固な自信だった。

 ある考えが過る。彼女は仲間なのではないか? ぼくを騙して、凶器を構えた仲間の元へ連れていくつもりじゃないのか?

 空いた手に凶器が握られていないことを、これほど心細く思ったことはない。

「戻るって、ぼくをどこに連れていく気だ」

「本当になにもわかっていないのね……私たちは西城戸じょうと大学の研究チームで、調査に向かう途中だったわけ。文化人類学、田澤研究室のいつもの面々でね」

 呆れ気味に溜息を零した彼女は、道すがら説明をはじめる。

「私たちは生き仏がいるという噂の山村を探しに来た。猟師が偶然見つけた山中の集落で、伝承によってわずかに存在知られていた幻の村。地図にものってない場所で、整備された道路なんかあるはずもない。麓から奥羽山地を掻き分けて二日の道中だなんて、昭和の初期じゃあるまいし。平家の落人伝説だか、山人の隠れ里だかしらないけれど、立地も噂も何もかもが前時代的……山中の猟師小屋で二泊もするだなんて聞いてないし、樹海を分け入るだなんて。蛭もいる、蛇もでる、蜘蛛はでかい、熊は人食い。おまけに別ルートで合流するはずの人間は道に迷った挙句、見つけたと思ったら自分のこともわからない」

「もしかして、それがぼく?」

「他に誰がいるっての? こんな奥地に自然と迷い込む人間なんかいないでしょ」

 説明のはずが愚痴の羅列に変り始める。聞いてないと言う割に、彼女の服装は奥山に備えているように思える。靴底は分厚く、薄手に見える上着も夜の冷え込みを十分に防いでいるようだ。足元を照らす明りひとつだというのに、足取りに迷いがないことからも山を熟知していることがわかる。

「あなたたちが探しに来た生き仏ってなに?」

、が探す生き仏ね。詳細は会ってみなければわからない。仏といっているけれど、現人神的な性質が強いかもしれない。猟師の話では仏教寺院らしき建物があったという話だから、私たちは生き仏と呼んでいるだけ。田澤先生はチベット仏教におけるダライ・ラマのような仏の化身として、人の身を借りて現れるものだと考えているわ。ネパールのクマリのような神の生まれ変わりとも考えられるし、原始的な神の憑依を行うタイプの巫術者かもしれない。戦国時代につくられた人間を材料にした仏像だなんて眉唾物の伝承もあるぐらい……ねえ、本当になにもわからない?」

「いいや、さっぱりだよ」

 盛大な溜息が黒江から漏れる。

「どうすんの、これ……」

 奥歯ですり潰された呟きが苛立ちと共に漏れ出している。こちらも聞きなれない単語をならべられて混乱が増すばかり。

「私たちは松丸聖が目的地の村の人間との仲立ちができる人間。つまり現地ガイド、案内役だと思っていたわけ。無事に調査が済むよう、手引きをしてくれる存在だってね。蓋を開けてみれば、思い違いもいいところ。そもそも山の中で合流すること自体が無茶だったのよ」

「案内だなんて。自分の名前にも落ち着かないのに」

「もういいわ。先生たちと改めて考える。どのみち、こんな山奥じゃ簡単に戻ることもできない」

 信じてもいいのか逡巡しているうちに、木々の隙間から焚き火らしき揺れる明りがみえてくる。道は山肌にむき出しの岩棚に向かっている。猟師小屋と聞いたから、最低限建物だと勘違いしていた。向かう先にあったのは、洞窟状になった岩棚の亀裂、その周囲に棘の柵を巡らしただけの穴倉だった。

 入口で火を焚き、岩肌に熱と光を照り返させて暖を取っている。焚き火の周りにはふたつの人影。風向きのせいで煙がこもっているのか、うちひとりがしきりに咳込む声がこちらまで届いている。

 今さら逃げ出すこともできず、手首を掴まれたまま彼らの穴倉に連れていかれる。

「田澤先生、見つけてきましたけど……おそらく、役に立たないでしょう」

 黒江は咳込んでいた方――白髪の混じった初老の男に声をかける。

「どういうことでしょう。その方が松丸聖さん、ではないのですか?」

 田澤と呼ばれた男は柔和な声で問い返し、再び咳込んだ。いがらっぽい、いやな咳だ。襟から覗いた首筋の皮はたるみ、袖口の手首は痩せこけている。田澤の咳は煙が染みるせいだけでないのだろう。

「何かしらの手違いがあったのか、そもそも話が通じていないのか。現地ガイドの彼はなにひとつ事情がわからないようです。申し訳ありません」

 彼女はぼくが逃げないよう手首を握り締めたまま頭を下げた。

「こんな所まで来て、そんな馬鹿な話あるか。村まで行けません、なんてことはないだろうな」

 噛みついたのはもう一人の若い男。すらりと背が高く、神経質そうに眼鏡のつるをしきりに撫でる。細面からうかがえる骨格の細さに反して、肩幅や腕、腿の筋肉の発達が服越しにもうかがえる。病弱な田澤と対照的に、鍛え抜かれた若い全盛期の肉体だ。

「まさか、村側の――」

「国見先輩、それは有り得ません。どうやら彼は本当になにもわからない、記憶喪失のような状態ですから」

「馬鹿を言うなよ。まったく予定通りに進まないじゃないか。猟師の道案内はあやふやだし、人食い熊に、今度はガイドの記憶喪失? 伝承通り呪われるってわけだ」

「国見くん、その辺りで。不手際になってしまったのは私のせいですから、黒江さんを責めないでください。本来ならば、もっと事前準備してから行くべきところを急かしたばかりに」

「いいえ、弥敷やしき先生に時間がないのは仕方ないことですから」

 田澤に諌められ、国見という若い男は口を噤む。

「先生、あとのふたりはまだ戻っていないのですか? 私より先に出られたはずですが」

「ええ、まだなにも。圏外ですから携帯に連絡、というわけにもいきませんし。取り決めた緊急の合図もありません。国見くんと様子を見に行くべきか相談していたところです」

「そうですか。それは……心配ですね」

 黒江が暗闇に目を凝らすように光源を振り向けるが、鬱蒼とした樹海と藪の他にはなにも見当たらない。

「心配って、人を襲うとかいう熊が?」

 口を利いたせいで三人の視線を集めてしまう。ぼくが出会ったのは熊ではないが、血に飢えた獣が徘徊しているのは間違いない。危険地帯ならば一刻も早く立ち去りたい。

「猟銃を持って行ったのだし、熟練の猟師だもの。熊は心配じゃない」

「じゃあ、なにが?」

 押し黙った一同に、異様なものを感じる。焚き火の爆ぜる音が樹海に響き渡る。背筋に寒気を感じてあたりを見回す。森の夜陰は歪んで渦を巻いているように思えて、今にもなにかが飛び出してきそうな雰囲気がある。

 静寂を押し開いて、黒江が口を開く。

「呪いよ。この森は呪われている」

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