シークレットトラック

豊岡 和人

1章 出会いと始まりの音

出会いと始まりの音(1)

 玄関の戸を閉めて鞄からMP3プレーヤーを取り出す。


 コンパクトカセットに近い大きさの長方形。色は操作ボタンから背面に印字されたメーカーのロゴまで淡い黒で統一されている。


 その下面から伸びるイヤホンコードを両手の親指と人差し指で挟むように持ち、丁寧に指先を動かして絡まりを解いていく。絡まりが解ければハウジングに記されたRとLの文字を確認して両耳にイヤーピースを差し込む。そうすると、シリコンゴムの感触が耳に走り、世界の音がくぐもる。


 MP3プレーヤー側面のボタンを押して画面を立ち上げる。今日も最初に再生する曲は決まっていた。


『アーティスト』の項をタッチして一覧を開く。親指を画面の下端から上端まで数回滑らせると、Sの行に辿り着く。そうして表示された画面の中に、その名前はある。


『Sogna morto』


 タッチして表示されるのは四項目。三枚のシングルと一枚のアルバムだ。


 その中から僕は1stシングルを選ぶ。デビュー作であるこの一枚には表題曲とカップリングの二曲が収録されている。再生するのは表題曲である一トラック目の『朝、目が覚めて』。


 トン――と、その曲名に触れると同時に、僕の耳には何百、何千回と聴いたイントロが響き始めた。見ている景色はそのままで、別世界に入り込むような感覚に浸される。眼前にキラキラとした光の粒が舞い上がり、感情の全てが華やかな色彩に彩られていく、そんな世界に。


 オープンハイハットを四回叩いた後で、小気味よいシンコペーションを交えながら軽快なリズムを刻んでいくドラムス。微かに歪ませた音で爽快感に満ちたリフを奏でる二つのギター。ベースは唸るように弦を震わせてメロディに膨よかな厚みを加える。


 若々しさゆえの泥臭くも爽やかな雰囲気を滲ませて放たれるいくつもの音色たち。その一音一音が、陽光を映す海面のように燦然とした輝きを湛えている。それは僕の鼓膜を揺らし、脳の髄にまで駆け抜けていく。この旋律の中でならどんな願いでも叶いそうな、そんな幸福すら感じられるように心が躍る。全身に強い追い風が吹き渡ったような気がした。


『朝、目が覚めて思い出す 昨日のこと 夢のこと 君のこと 顔を洗う頃には 忘れてしまうけれど』


 疾走感溢れる旋律の上では、とても普遍的で、けれど強かな意志が込められた言葉が綴られる。


 曲名に違わず、朝の空気特有の瑞々しさを感じさせられる音の数々。寝起きの体に色濃く滲む気怠さが皮膚の内から追い出されていく。あとには得も言われぬ高揚感だけが体に残る。


 ここまでが僕の毎朝のルーティンだ。高校入学の際にこのMP3プレーヤーとイヤホンを買って以降、一年間は続けている。一曲目を変えたことは一度も無い。別に他の曲を選ぶことを拒んでいるわけではない。けれど、どうしても朝の一番目は自然とこの曲に辿り着いてしまう。


 一つひとつの音や歌詞、曲に漂う情調、聞いた時に胸へ去来する感情。そのどれもが僕の知っている全ての楽曲の中で、最も朝の空気に調和する。朝の到来を祝福するような、一日の始まりを告げるような、そんな輝きに満たされている一曲だ。


 この音色を聴くだけで、今から過ぎてゆく〝今日〟という時間が素晴らしいものになりそうだと、漠然とした期待が急速に膨らんでいく。きっと特別な何かに出会えるだろうと、訳も無くそう思える。


 そんな思いを抱きながら、今日も平凡な日常が始まる。

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