死んだ私とライラ

緑川蓮

第1話

#1




「ライラさん、おはよう。隣で寝ていたんだねえ」


 布団の中から差し出した手に、初春の冷気が当たる。

 私が寝ている間に布団へ這入り込んで来ていたらしいライラは、うるるん、と喉の奥を一度鳴らす。彼女は私と同じように首だけ掛け布団から出したまま、まだ寝ぼけているらしい。

 小さな額やあごをわやにされながら、それでも瞼は開けずにされるがままだ。


 私は良い気分になってしばらくライラを撫で回していたが、やがて彼女は身震いするように首を回す。いい加減しつこいぞ、と両耳でビンタされたみたいだ。

 それから大きな口の中をこちらへ見せつけて欠伸をする。ちゃむちゃむと口周りを舐める彼女は、もうすっかり真ん丸な目を開いていた。お月さまと同じ色をしたビー玉の様な瞳だ。


「起こしちゃったね、ごめんね」


 また頭を撫でると、ライラはこっちに構わず背中を丸めて毛づくろいし始めた。

 なので私もそろそろ布団から出る事にする。まだ眠っていたいと訴える身体を両手で起こせば、今度は全身に、部屋に沈む寒気が覆い被さる。


「さむい」


 湯たんぽが欲しいと思ったけれど、隣のライラはまだグルーミングで一心不乱らしく、抱き上げるのは我慢した。雑種でキジトラ模様の彼女が着込んでいる毛皮は、そりゃあもうこの世でひとつしかない最高級品だ。その綺麗な毛並みを保つ秘訣だからね。並々ならぬこだわりがあるらしい。

 ライラが毛づくろいしている間はちょっかいを掛けないのが、私達の暗黙のルールだ。

 一通り満足したらしいライラがまた口の周りを舐めるのを待って、私はベッドからおりて立つ。


「ライラさん、ごはん食べよっか」


 私もひとつ背伸びをしてから、寝間着から着替えて、寝室を出る。

 ドアノブはすっかり冷え切っていた。洗面所へ向かう足取りは重い。

 歯を磨いた後には、私の寝ぼけ眼もすっかり覚めていた。


 テレビを点けてから、冷蔵庫の隣に置いてある大きな瓶を取り出すと、カラカラという音が鳴るなりライラはリビングへすっ飛んできた。尻尾を真上に立てながら、私を見上げながら鳴いてうろうろする。


「はいはい、今あげるからね、おなか空いたね」


 猫用に底を高く上げたような皿を作った人は、本当に頭が良いと思う。いや、頭がいいだけじゃ出てこないアイデアだな。きっと思いやりがあって、気配りもできる人なんだろう。

 屈んで瓶をライラの皿へ近づけると、彼女はもう既に皿しか見ておらず、鼻息を鳴らしている。

 白いお皿に、かつお節とかにかま和え……という売り文句がついていたカリカリを流し込む。私が瓶を引っ込めるなり、ライラは勢いよくガリガリと音を立て始めた。

 カリカリを掻き込む姿に、まだ釘付けになっていたいけれど、私も仕事へ行く準備をしなければいけない。


 冷蔵庫からパックの納豆と、昨日のお惣菜の余りを取り出す。ほうれん草の胡麻和えと、半分ほど残った焼き鮭だ。

 戸棚から取り出した茶碗も冷たかったが、開けた炊飯器から立ち上る湯気は、指先を少し温めてくれた。


「どうしたの、ライラさん」


 納豆ご飯をもくもくと頬張っていると、カリカリを食べ終えたらしいライラは、やはり口の周りを満足気に舐めながらこっちをじっと凝視していた。いつの間にか、私の足下まで来て。

 ライラの座り方はたいてい綺麗だ。ちゃんと尻尾を前足に載せるようにくるんと巻いて、小さくまとまって座る。


「鮭はあげないよ、しょっぱいから。ライラさんは食べられないよ」


 そんな事を言いつつ、今夜はマグロの赤身でも買って帰ろうと考える。ちょっとだけライラにもあげよう。

 朝食を食べ終えた食器は、水が冷たいけれど、ちょっと我慢して頑張って洗っておいた。帰ってから夕食後に洗おうかとも思ったけれど、今日は時間に少し余裕があるのだ。


「ちょっと、危ないよ、ライラさん」


 食器を洗っている間中、ライラはなぜか私の足元を、身体の横を擦り付けながらちょろちょろ付きまとっていた。甘えたげな、構ってとでも言いたげな声でしきりに鳴いていた。

 だから洗い物が終わって手を拭いてから、前足の付け根を掴んで、持ち上げて、丸めてだっこして、頬ずりをした。ライラは打って変わって鬱陶しげにそっぽを向く。

 けれど尻尾の先で柔らかく私の胸を叩くライラは、多分まんざらでも無さそうにしている。


「それじゃあね、ライラさん。お仕事に行ってくるからね」


 しゃがみ込んでライラをゆっくりと床に下ろす。ライラはどこか拍子抜けたように真ん丸な目で、私の顔を見つめる。


「帰ってきたらマグロ食べようね、マグロ」


 じっと合わせてくる視線をなだめるようにして、ライラの頭を撫でる。私の手から頭をぐりんとずらしてきたので、今度はあごを撫でてやる。ライラは目を細めたまま真上に向いて、喉元を差し出す。ふわふわの首元をなぞってやると、穏やかに喉を鳴らす音が聞こえた。

 けれどあまりゆっくりはしていられないので、名残惜しくも私はゆっくりと立ち上がる。


「ライラさん、行ってきます」


 玄関の戸が閉まる瞬間も、いつものごとく、ライラは身じろぎもせずに私を見ていた。


 底冷えするほど青白い空に、うっすらと雲の膜が掛かっている。放射冷却のせいか、いつもより寒さが身に沁みる気がした。両手をすり合わせ、白い息をかけながら歩いてゆく。

 長い間使っていた手袋は穴が空いてしまったので、近々また新しいのを買わないといけない。

 駅までの道には、ふたつ交差点がある。まだ7時ちょうどくらいなので車の量は少ないが、そのぶんどれも速度を飛ばしてくる。

 だからいつも充分に気をつけて交差点を渡っているつもりだし、信号だって当然守っている。

 今日もそうだったのだけれど。

 黒いワゴン車が横合いから猛スピードで迫っている時、私には、何も出来る事が無かった。




「あ……」







 では次のニュースをお伝えします。

 今朝7時頃、東京都旗辺市の路上で、男性が倒れているのが発見されました。男性は近くに住む篠垣遼さんと見られ、すぐ病院へ搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。

 警視庁によりますと、篠垣さんにはタイヤで轢かれた痕跡が残っており、警察はひき逃げ事件として捜査を進めています──……。

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