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 地区総体が終わってすぐということもあり、今日は部活がなかった。代わりに学級委員の仕事があった訳だけど、いつもよりは早めに学校を出られたと思う。

 独りで帰るのは久しぶりだ。信也と功一は待っていようか、と提案してくれたけれど、せっかくの早帰りなのに待たせるのは悪いような気がして、大丈夫、と返した。気の置けない間柄であるはずの二人に申し訳ないと思うようになったのは、中学に入ってからだ。

 早足で通学路を歩き、公民館の前で農道に入る。こんもりとした木立が見えると、知らず俺は駆け出していた。

 木立の前には、自転車が停まっている。宝井がいるのだ。それがひどく嬉しくて、俺の心が弾む。

 さすがに駆け込んだらびっくりさせると思ったので、ひとまず天神さんの前で息を整えた。二回、深呼吸してから、木立の中に足を踏み入れる。靴の裏で、砂利が擦れた。

 いつも通り、宝井は賽銭箱の隣に座っていた。その視線は下の方へ向けられている。その表情があまりにも柔らかくて、俺は息を飲んでしまう──宝井は、静かに微笑んでいた。

 彼女の見つめる先には、小さな鳥がいる。黒と白のモノクロで、尾羽が長い。細い脚でちょこちょこと歩いている。立ち止まると、尾羽が上下に揺れた。

 こんなに優しい顔をした宝井を見るのは初めてだ。俺には絶対に向けられないであろうその顔をもっと見たくて、足を踏み出す。また、砂利が擦れて音を立てた。

 その音に気付いたのか、小鳥がぱっと飛んでいく。ああっ、と宝井が残念そうに声を上げて──次に、俺の方を見た。


「……あ、磐根君」


 お疲れ、と挨拶した宝井の顔は、いつもの仏頂面に戻っている。惜しいことをしたなと内心で悔やみつつ、俺はなんでもない風を心掛けた。


「ここって鳥も来るんだな。いるのは虫くらいかと思ってた」

「そんなことないよ。磐根君のタイミングが悪いだけじゃない?」

「そうかなあ……。さっきの鳥もよく来るのか? どこかで見たことあるような気がするけど」

「ああ、あれね。セキレイだよ。よく駐車場とかトコトコ歩いてるの見ない?」


 残念ながら、俺は鳥に注意を払いながら日々を過ごしてはいない。……などとは口が裂けても言えないので、どうだろう、と曖昧に返しておいた。

 それよりも、宝井には伝えたいことがある。


「あのさ、宝井。試合、勝ったんだってな。おめでとう」


 一本を取りたいという宝井の目標は、無事に達成された。まずはそれを祝っておきたかった。

 宝井は一度目をぱちくりとさせ、すぐに斜め下を向いた。尖った唇がもごもごと動く。


「……ありがとう。でも、勝ったって言っても一回戦だけだよ。二回戦はあっさり負けちゃった」

「それでも、二本決めて勝ったことに変わりはないだろ。有言実行したんだよ、宝井は。誰にでも真似できることじゃないと思う」

「やけに詳しいね。古沢君に聞いた?」

「聞いたっていうか、見たというか……。昨日、功一の家に遊び行ってさ。あいつの試合撮ってたビデオに、宝井も映ってた」

「えっ、ちょ、やめてよ、恥ずかしい」


 まだ夕焼けまで少し時間があるものの、宝井の顔は一瞬で真っ赤になった。もともとの色が白いから、顔色の変化はすぐわかる。


「見たって何、磐根君と古沢君、揃って?」

「うん、信也もいた」

「里中君まで⁉️ うーわっ、最悪最悪最悪……! どうしてここまでの辱しめを……もう終わりだ、やるしかねえ……」

「待て待て、なんでそんなに険しい顔してるんだよ。別に皆で笑い者にしてた訳じゃないし、むしろ功一はなかなかやるって褒めてたよ。だからその、何をかは知らないけどやるのはやめような」


 頭を抱えたかと思いきや完全に据わった目でこちらを睨み付けてきた宝井を宥め、恥ずかしがることはないのに、と密かに思う。信也と功一は決して宝井を笑い者になんかしていないし、どちらかと言えば宝井を見直す方向にいった。それは宝井にとって利となることだろうに、あの二人が自分を褒めるとは考え付かないのだろうか。信也はともかく、功一は宝井のことをおおっぴらに笑うような奴じゃないのに。

 宝井を褒め称えるつもりが、逆に項垂うなだれさせてしまった。これ以上彼女にダメージを与えたくはないので、少しだけ話題を変えることにする。


「そういえば、功一が、宝井の技の決め方が真金埼? って人に似てるって言ってた。それってもしかして、前に言ってた合同練習の人?」

「うん。古沢君、知ってるんだね。大抵のことはどうでも良さそうなのに」


 剣道に関してはそんなことないのだが、宝井にとっての功一はどういう風に映っているんだろう。この調子だと、多分功一の方も、宝井がこんなに会話できる奴だと思っていないはずだ。

 すごい人だよ、と宝井が視線を上げる。その眼差しが向かう先は遠いと、部外者の俺でもわかった。


「どうしてあの人と地稽古できたのか、今でも信じられないんだ。私みたいな弱い選手のことなんて、無視すれば良かったのに。わざわざ相手してくれて、アドバイスまでくれた。だからびっくりしたんだ──本当に強い人って、私なんかにかかずらっても何ともないくらい余裕があるんだって。あまりにも規格外過ぎて、逆にほっとしちゃった。ああ、うちの剣道部の人たちは、良くも悪くも人間だって」


 貶してる訳じゃないよ、と宝井は訂正を入れた。彼女の言葉は時に素直に過ぎる。それは宝井自身も自覚するところなのだろう。


「地区総体で一回戦目に当たった人、三年生だったみたい。試合の最中は実際の背丈以上に大きく見えて、顔だってほとんど見えないから、正直怖いって気持ちが強かった。……でも、試合が終わって、次の試合までの待ち時間に、その人が泣いてるのを見かけたの。チームメイトに慰められながら、顔を覆って泣いてた。試合中はいっぱいいっぱいで、どうにか切り抜けなきゃってことばっかり考えてたけど……こうして見ると、怖かったあの人もごく普通の人間だってわかって、なんだか申し訳ない気持ちになった」

「申し訳ない……それは、その人の最後の地区総体を奪ってしまったから?」

「それもない訳じゃないよ。でもそれ以上に、自分の弱さが先んじて、勝手に怖いとか思ってしまったのが、すごく悪いことのように思えたの。何て言えば良いのかな……もう少し、対等な目線で試合することもできたのに、って。まあその後、瞬殺された訳だけど」


 だから私はまだまだ弱い。

 淡々とした口調で、宝井はそう自己評価する。弱い、というのは単に実力のことを言っているのではなく、内面も含めてのことだろう。

 河北に行った時、努力家じゃない、と口にした彼女のことを思い出す。本番を前に恐れず、緊張せず、これまでの努力を信じきることができなければ、努力家とは言えない。自分は、努力家と言うには努力が足りていないのだ──と。

 そんな人間、いるんだろうか。誰だって、ここ一番という時には多かれ少なかれ緊張感を覚えるものだと思う。フィクションの世界に生きる主人公たちは、そうした緊張さえも楽しんでしまえるのかもしれないけれど、俺にとっては背中にのし掛かる不安という名の重みにしかならない。

 宝井が目指す境地に至ってしまったら、多分俺は悲しい気持ちになる。これは俺のわがままかもしれないけれど、宝井には、弱くて脆い人間のままでいて欲しい。そんな彼女に、俺は惹かれたのだから。


「あ、そうだ。磐根君、鷲宮さんには何か声かけたりした?」


 こちらの思うところは幸いにも伝わっていなかったのか、宝井が平然と切り込む。さっきも似たような話をしたな、と思いながら、俺は首を横に振った。


「いや、特には。落ち込んでるのはわかったけど、そこまで仲良い訳じゃないし」

「じゃあ余計なことは言ってないんだね。良かった……」


 目に見えてほっとしている宝井は、俺のことをなんだと思っているのだろう。珍しく俺から抗議の視線を向けると、宝井はやや大袈裟に肩を竦めた。


「だって磐根君、鷲宮さんを怒らせるようなこと平気で言うから。こっちとしては心配になるんだよ。今はただでさえ県大会に進めなかったショックで感情的なんだから、当たられる側も気が気じゃないの」

「怒らせるつもりはないんだけどな……。総体が終わったら、部活に関しては落ち着くんじゃないか」

「まさか。私の見立てだと、二学期が始まるまでの辛抱だね」


 二学期が始まるまで──それは、席替えがあるまでということだろう。

 学期の始まりには、いつも席替えが行われる。今回は宝井が隣になったが、二回連続で同じクラスメートが隣に来ることはまずない。もしそうなったら、宝井とは余程の腐れ縁になってしまう。


「……鷲宮って、本当に俺のこと好きなのかな」


 いつも毅然として、凛とした佇まいの鷲宮。あいつが俺を思って感情的になるところは、なかなか想像できない。

 そんな思いを胸にぽつりと呟くと、宝井がうわっ、とこぼして口元を押さえた。ドン引きという言葉がここまで似合うリアクションを、俺は見たことがない。


「……磐根君が陸上部で良かったって、心の底から思う。何をどうしたらそんなこと私の前で言えるの……」


 信じられない、と宝井は疲れきった口振りでこぼす。鈍感とは言われ慣れているけれど、これ程までに幻滅されたのは宝井が初めてだ。無神経なことを口にした自覚はあるが、さすがに俺も反発を覚える。


「デリカシーのない発言だったことは謝るよ。けど、俺が陸上部なのとは無関係じゃないか?」

「いや、関係あるよ。磐根君、人の気持ちとかあまり考えない方でしょ。よく会話しているような、身近な相手には気を遣ってるのかもしれないけど、そうじゃない相手の心の機微には疎いよね。それって、チームプレーだと相当致命的だと思う」

「……そんなことないと思うけど」

「そりゃ、磐根君が運動神経いいのはわかるよ。お遊びの体育で、いっしょにやるのがよく見知ったクラスメートなら、許容範囲もかなり広がる。磐根君は私みたいに浮いてないし人当たりも良いから、目くじら立てる人もいないしね。でも、部活になったらそうもいかないじゃない。学年の違う、部活って括りがなかったら関わることもないかもしれない人たちと協力して、ゲームを作っていかなくちゃいけない。そういう時、人の気持ちを考えない人が中にいたら、どうなると思う? 少なくとも、チームが良い方向に進むことはないよね」


 学校の外で会う宝井は、口数が多い。教室でもこれくらい……いや、ここまで行かなくても良いから、もっと自分の意思を言葉にして良いのに。

 それはさておき、宝井の言うことには一理ある。たしかに、チームプレーが主軸になる競技に取り組むとなると、仲間との連携は必要不可欠だ。


「磐根君は磐根君なりに気を配ってるんだろうけど、よっぽど距離の近い相手じゃなきゃ壁を作るでしょ。この際はっきり言うけど、磐根君って他人に興味ないよね?」

「……あるよ。人並みには」


 反論してはみたが、図星だった。

 信也や功一のような幼馴染みなら、その内面を気にすることはある。でも、それ以外のクラスメートのことはそこまで深く考えない。あいつなら普段これこれこういう言動をしているから、きっとこういう風に思っているんだろうな、と憶測して終わる。幼馴染みと関わっていなかったら、首を突っ込むどころか、あれこれと思考を巡らせることさえないだろう。

 俺は視野が狭いのだろう。宝井のことだって、席が隣になって、天神さんで彼女を見かけるまでは、ただのクラスメートの一人でしかなかった。ノーメンちゃんと呼ばれていて、そのあだ名がものだとわかっても、その場で口にした幼馴染みを軽く注意するだけでおしまい。それ以上、宝井に思いを馳せることはない。一度でも興味を持つ出来事がなければ、そこから関係が発展することは二度とないのかもしれない。


「とにかく、今の鷲宮さんを刺激するようなことは言わないでね。あ、持ち直しても余計なことはしないでいてくれると助かる」

「今までも故意にはやってない」

「無意識っていうのが一番厄介なんだよ。磐根君は、自分の言動に無責任過ぎ。一言一句記憶しろとは言わないけど、せめて相手の気質とか性格とか、一度ちゃんと考えてから表に出した方が良いんじゃない」

「わかったよ。気を付ける」


 素直にうなずくと、宝井はよろしい、と溜飲を下げたようだった。相変わらず口は尖らせたままだけど、どことなく満足げで微笑ましい。


「色々ご教示いただいたけどさ、宝井は誰かを好きになったことってあるのか?」


 一方的に言い負かされるのもなんだかもやもやするので、冗談交じりで質問してみる。案の定、宝井は「はあ?」と顔をしかめた。


「本当に反省してる? さすがに二度目はないんですけど」

「だって、すげえそれらしいアドバイスしてくるから。経験者なのかなって」

「うるさいなあ、なんだっていいでしょ、バカ」


 ぷいっと顔を背けて、宝井が立ち上がる。そのまま自転車の方へ向かっていく背中を追いかけ、悪い、と謝罪したが、本気で怒っている訳ではないのだろう。

 初めの頃は、宝井を怒らせないかひやひやしてばかりいたのに、不思議なものだ。こういう風に感情を表に出してくれるなら、少しくらいは怒らせても良さそうだ──などと、口に出したらさらに怒らせそうなことを考えながら、俺は自転車に跨がった。

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