第五章 幕開けの魔女、その言葉を思い出せ

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 去年の衣替えは六月からだったが、今年はあまりにも気温が高すぎるということで五月から夏服が解禁となった。状況に合わせて調整するように、とのことだったけれど、きっとどう転んでもばたばたするのだろうと思う。悪いけど、うちの学校に手際の良さを求めるのは間違っている。

 二の腕を撫でる空気に未だ慣れないながら、俺は鉛筆の先で机上のプリントを軽くつつく。

 『地区総体に向けた意気込みを書きましょう』。その指示に対する答えはまだ見付からない。意気込みと言っても、単に何々を頑張ります、と書くだけでは不十分だ。眞瀬北中の伝統──というには少々お粗末だが、毎年大会に参加する生徒は座右の銘を書いて教室の後ろに貼り出すのが恒例となっている。

 大抵の生徒は、当たり障りのない四字熟語なんかを書いて終わりだ。俺もそうしようと思っている。だが、その当たり障りのない四字熟語というのがなかなか思い付かない。


「そんな真剣に悩むことないって。大地は相変わらず真面目だよなあ」


 昼休みにまでプリントとにらめっこしてるのはお前くらいだよ、と俺の机の前にいる信也は笑う。こいつは早々に提出し終わったらしく、いつになく余裕綽々だ。

 別に、〆切が差し迫っている訳じゃない。今月中に提出しさえすれば良いという話だから、信也が早すぎるとも言える。ただ、面倒事を先延ばしにしたくないから適当に書いて提出しただけなのだろう、信也は。

 ちなみに、功一は次の授業で当てられるかもしれないとのことで必死に予習をやっている。ちょうど出席番号が日付と被っているのだ。


「俺が真面目というより、信也が適当なだけだろ。何て書いたんだよ」

「切磋琢磨。バスケはチームプレーだし、それっぽくね?」

「誰かと被りそうだけどな」

「あー、たしかに。やべ」


 とは言いつつ、信也に修正の意思はないようだ。既に貼り出されているらしい背後を一度だけ振り返ってから、そーいえば、と薄笑いを浮かべた。


「ノーメンちゃん。あれ、やばくね?」


 信也が指差した方向には、机に突っ伏している宝井の姿があった。最近の彼女は大抵昼休みを昼寝に使っているようで、あの姿勢のままぴくりとも動かない。しかし授業の五分前には必ず起きるから、実は寝ていないのかもしれない。

 その宝井が何故話題に上がったのかというと、十中八九彼女の左腕だろう。

 夏服になってから、宝井の手首から肘にかけて広がる青あざは丸見えだ。見るからに痛々しいそれは、人によっては不気味にも映るものなのだろう。信也に関しては、揶揄の対象と見なしたようだった。


「もしかして虐待とかされてんのかな? にしては限定的だけど」

「やめろよ。お前の勝手な想像だろ、それは」

「いーじゃん、どうせ何も言ってこねえって。キモいのは事実だし」


 可哀想でも痛々しいでもなく、キモいなのか。

 信也の言葉に、俺は少なからず反発を覚える。たしかに見ていて気持ちの良いものではないかもしれないけど、勝手な想像で虐待なんて宣ったり、キモいなんて言ったりするのはどうかと思う。


「虐待なんてある訳ないでしょう。あれは部活で上手く受けられなかっただけよ」


 信也に何か言ってやりたかったが、その前に凛と通る声が後ろから聞こえてきた。振り返ると、案の定そこには呆れ顔の鷲宮がいる。


「もうすぐ地区総体だし、こっちも練習に気合い入れてるの。彼女、相変わらずだから……小手を受けるのが下手なのよ。それでああなってるってだけ」

「そうなのか……防具を着けてても、あざになるものなんだな」

「それは個人の技量によるわね。まあ、私はあそこまで酷くはならないけど」


 鷲宮の言い方は、正直言って刺々しい。以前宝井にも言葉遣いがきついと指摘したことがあったけれど、鷲宮も負けていないと思う。

 きっと、鷲宮は宝井のことが許せないんだろう。誰よりも根を詰めるタイプで、小さい頃から剣道を続けてきた鷲宮。彼女の目に、至らない宝井は忌々しい存在として映るのかもしれない。

 でも、それは仕方ない。だって、宝井は中学に入ってから剣道を始めた、いわばビギナーなのだから、鷲宮と比較するのは不公平だ。彼女とは費やしてきた年月が桁違いだし、十年近く続ける程の気力と中学生活の三年間で不本意ながら活動するのとでは、あまりにも差が激しすぎる。

 そういえば、来週から体育でバレーボールをするのだとふと気付く。宝井のあの腕では、レシーブするのも倍痛いんじゃないだろうか。

 そう思うと、何だか宝井を責めるのは理不尽な気がしてきた。信也や鷲宮が何か言う前に、俺は遮るようにして口を開いていた。


「宝井だって、あいつなりに頑張ってるんだからさ。あまり責めるようなこと言うなよ」


 自分でも驚く程、平坦な声が出た。もう少し、冗談めかして言った方が、変にからかわれずに済むのに。

 案の定、信也はひゅう、とわざとらしく口笛を吹いた。俺の発言に加えて冷やかしまで食らったからか、鷲宮の顔はみるみるうちに歪む。


「どうして磐根君から説教されなくちゃいけないのかしら。悪いのは弱いあの人でしょう」

「別に誰が悪いなんて言ってないだろ。総体に向けてやる気があるのは良いけど、鷲宮は気を張りすぎだよ。少し落ち着けって」

「……磐根君に言われなくたって、そんなことわかってるわよ」


 低く唸るように言い捨てて、鷲宮は不機嫌そうな空気を隠すことなく去っていく。自分が一番正しいと思っている彼女のことだから、俺の指摘は気に食わなかったのだろう。


「あーあ、行っちゃった。英里奈は相変わらずだよなー」


 そんな鷲宮の背中をしばらく眺めていた信也ではあったが、何やらろくでもないことに思い至ったのか、にやりと嫌らしく口角を上げる。


「それにしてもさ、大地。お前って、意外とノーメンちゃんのこと庇うよな。何、気ぃあんの?」

「お前って奴は、またしょうもない話に持ってく……」


 まさか放課後よく会うし、この前はいっしょに仙台を歩いて回ったとも言えない。教室における俺と宝井は、偶然席が隣になっただけのクラスメートに過ぎず、お互いに関わることもない──いわば、違う世界の人間なのだ。

 だから、そんな俺が宝井のことを気にかける素振りを少しでも見せようものなら、何も知らないクラスメートはすぐおもちゃにするだろう。大したもののない田舎の中学生は、娯楽の種に飢えている。他人を食い物にすることへの抵抗が薄いとも言える。


「クラスメートの様子がいつもと違ってたら、心配するのは当然だろ。怪我してるなら尚更だ」

「はいはい、模範解答をどうも。本当、大地は馬鹿みたいに真面目だよなあ」

「そっちが茶化しすぎなんだよ。お前は猫屋敷が青あざ作ってたら、心配にならないのか?」

「……あー、姫魅はなあ……」


 いちいち恋愛話に持ち込もうとしてくる幼馴染にうんざりして言い返してみたら、予想以上にテンションが下がってしまった。どうやら猫屋敷とはぎくしゃくしているようだ。誰とでも軽快に接する信也にしては珍しい。


「あいつはなー……なんつーか、軽々しくものを言えないんだよ。こっちにその気がなくても、あっちが傷付いたのならそれだけで悪者にされる、みたいなさ。すっげえ遠慮しないと、それだけで周りの女子に責められるんだ」

「それはそれで大変だな。今までのツケが返ってきたってことか」

「そんな言い方するなよう。あーあ、おかげで付き合ったってのにろくなことができねえよ。せっかく美人なのにさあ、もったいないったらありゃしない」


 いっそさ、と信也はなげやりに笑う。冗談めかして言ったのかもしれないけれど、俺には妙に重く感じられる言葉尻だった。


「姫魅みたいな女子はさあ、大地みたいな、奴と付き合う方が合ってるのかもしれないな」


 今まで功一も含めて、何のしがらみもなく仲良くやってきた俺たち。その中で、信也が俺を『キレーな』奴という枠組みに組み込んでいたことが、俺にとってはショックだった。

 俺のどこが、何がきれいだというのだろう。たしかに、信也のように彼女がいる訳じゃないし、ものの考え方だって違う。けれど、俺たちはそういう違いなんて気にせずに付き合える友達だと、少なくとも俺は思っていた。


「……付き合うとか、俺にはまだ早いよ。それに、猫屋敷はお前の彼女だろ」


 やっと平然を装ってそう絞り出せば、信也はいつものへらりとした笑顔でそうだな、と首肯した。そのまま、心なしか緩慢な足取りで自分の席へと戻っていく。


「……鈍感」


 隣から、蚊の鳴くような声が聞こえる。はっとして顔を動かすと、突っ伏した腕の間から一重まぶたが覗いていた。

 宝井は、これまでもよく見てきたじっとりとした視線を向けていた。呆れた、とでも言いたげな、冷めた眼差し。

 きっと宝井は、初めからずっと聞いていたのだ。俺と信也、そして鷲宮の会話を。

 気付けば、宝井は再び顔を伏せていた。昼休みの終わりまで、そうしているつもりなのだろう。何も聞こえないふり、気付かないふりをしながら、自由時間をじっと耐える。

 白い腕に浮かんだ青あざ。それが、先程以上に痛々しく感じられて、俺はそっと目を逸らした。

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