5

 まだ春に分類される時期なのだろうけれど、その日の最高気温は二十五度にも上った。

 脱ぎ着しやすいパーカーを着ていて良かった、と心から思いつつ、智水寺を目指す。途中、空き地で自転車を駐めて、家から持ってきた麦茶を飲んだ。部活に持って行く用の水筒は重かったし、その空き地には百円均一の自販機もあったけれど、出費は抑えたいので我慢する。毎月の小遣いは大事にやりくりしたい。

 智水寺は、この前に行った茜ヶ淵城跡よりも西側に位置しているようだった。事前に地図で確認したところ、城下町の外れ、もともと城があった地区からは結構離れたところにあった。茜ヶ淵氏の菩提寺と宝井は言っていたが、所在地を見る限り、何となく遠慮しているようなイメージがある。城主の菩提寺なら、もっと目立つ場所に建てても良さそうなものなのに。

 幸いなことに、途中で同級生とすれ違ったり鉢合わせたりすることはなかった。前みたいな思いを二度もしたくはなかったから、その点には一安心する。

 智水寺に到着すると、以前に宝井が見せてくれた立派な門がまず出迎えてくれた。駐車場を見てみたが、停まっている車は一台しかない。法事をやっている訳ではなさそうだ。

 駐車場の隅に自転車を置き、本堂まで足を進める。墓参りに行く時期でないのはわかるけど、それでもびっくりするくらい静かだ。

 自由拝観、という訳にはいかなそうなので、とりあえずぐるりと外観を見て回ることにしよう。そう思って本堂を見上げていると、急に左頬がかゆくなった。誰かから視線を向けられたのだと気付いた時には、既に相手が歩みを進めている。


「あれ、もしかして磐根君?」


 低い、安定した、大人の男の声。

 あっと思った時には遅かった。そいつはいつも通りに、にへらとした締まりのない笑みを浮かべている。


「あ──秋月、先生」


 そこにいたのは、副担任の秋月だった。動きやすそうな、紺色の作務衣さむえを身に付けている。普段学校で見る、よれたスーツと芋っぽいジャージとは違う服装だが、それ以外は俺の知る秋月と変わらない。

 俺は声が引っくり返りそうになるのをどうにか堪えて、一応の礼儀として会釈した。学校の外とはいえ、教師に対する態度が悪いのはどうかと思う。

 そんな俺の内心を見透かしているのかは知らないが、秋月は笑いを崩さないまま、どーも、と気の抜けそうな声色で言った。


「そんなに緊張しなくてもいいよ、評定とかに反映しないから。それよりも、何かご用? 磐根君、ここの檀家さんじゃないっぽいけど」


 よく見ると、秋月の顎周りにはうっすらとした無精髭がある。見た目に気を遣っていませんよ、みたいな顔をしておいて、勤務中は一応の身だしなみを整えているということか。失礼なことを考えている自覚はあるけれど、意外だと思った。

 しかし、どうして秋月がこんなところにいるのだろう。作務衣を着ているということは、智水寺の関係者なのだろうか。


「ここって、先生の実家か何かなんですか?」


 言葉を繕うのは苦手だ。若干の申し訳なさがありつつも、俺は単刀直入に尋ねた。


「ううん、親戚ん。今日は何も予定ないからって、大掃除してるんだよ。ちょうど独り身かつ使い勝手が良いってことで、休日に呼び出されちゃった訳」

「それは……お疲れ様です」


 目立つグループからは社畜先生、なんて陰で呼ばれている秋月だが、案外間違っていないのかもしれない。どことなく疲れた外見と相まって、何とも言えない物寂しさすら感じる。

 しかし、さすがに中学生から同情されたくはなかったのだろう。秋月は良いって、と苦笑いした。


「いーのいーの、こっちだって暇だったし。こまめに体動かしとかないと、すぐ鈍っちゃうからねえ。悲しいことだけど、若者とは違うんだよ」

「はあ……そうなんですか」

「そうそう。……で、磐根君の用事はなーに? 住職に用事なら呼んでくるけど、多分今は蔵にこもってるから出てくるまで時間かかると思うよ。可能な範囲なら、が代わりに対応するけど」


 学校じゃないからか、一人称が違う。やはり、先生、という一人称は生徒向けのものだったか。

 秋月とのエンカウントは予想外だったけど、当初の目的を断念する程の衝撃ではない。俺は口内を湿らせてから、言葉を選びつつ切り出す。


「……実は、茜ヶ淵城について調べていて。ここのお寺がその手の話題に詳しいって聞いたので、何か有益な情報がないか見に来たんです」


 不審に思われないよう慎重に、かつ明確に意図を伝えることを意識する。相手が見知った大人だから、これがなかなか難しい。

 秋月はふうん、と小さく唸って顎に手を遣った。銀縁眼鏡の奥で、よく見ると結構鋭い目元がすがめられる。ほんの少し怖い、と思ってしまったのはここだけの秘密だ。


「茜ヶ淵城に、ねえ。まあたしかにうちは茜ヶ淵氏の菩提寺だけど、正直言って面白いものなんてないよ? 全国的知名度の戦国武将みたいな活躍をイメージしてるなら、絶対にがっかりすると思うけど……その辺り、把握してる?」

「いえ、そういった期待を持って調べている訳じゃないんです。地元の歴史に興味があるというか……」

「郷土愛……って感じではなさそうだけどね、磐根君。でも、うちに目を付けたのは正解って言っても良いかな。茜ヶ淵氏関連の史料をまともに取り扱ってるところは限られてるからね。谷地やちのお寺ではちょこちょこ地元の偉人を盛り上げよう、みたいな試みをやってるみたいだけど、本拠地たる茜ヶ淵こっちじゃ全然だもんなあ。ほぼ高齢者の過疎地域だから、仕方ないのかもしれないけどね」


 やれやれ、とでも言いたげに肩を竦める秋月。決して聞き取れないという訳ではないし、言いたいことはわかるけれど、一度聞いただけで全てを把握する、というのは難しい。茜ヶ淵氏についてのあれこれなんて、素人の俺からすればクエスチョンマークだらけだ。

 どう返したら良いかわからないので、俺はとりあえず愛想笑いを浮かべておく。真顔よりは良いだろう。


「磐根君、相変わらずノリ悪いねえ。ま、茜ヶ淵氏に関する資料はあるから、今から持ってくるよ。ずっと立ちっぱなしっていうのも悪いし、付いてきて」


 そう言うと、秋月は傍らに置いていたプラスチック製のバケツを片手で持ち上げる。思っていたよりも太い腕に、うっすらと血管が浮く。

 どうやら渡り廊下で寺と繋がっている母屋へと戻るつもりのようだ。このままここで待っていることもできたが、付いてこいと言われたからには後を追うのが一番自然なのだろう。俺は玉砂利を踏みしめながら秋月に続く。

 俺とそう身長の変わらない秋月だけど、その背中は存外に大きい。一見頼りない風に見えるが、やっぱりこの男は大人なのだと実感させられる。

 宝井も、秋月のことは大人として頼りにしているのだろうか。援助交際エンコーみたい、という誰のものかもわからない揶揄を思い出す。

 たしかに、宝井はクラスメートを頼れない。……いや、絶対に無理、と断じるべきではないのだろうけれど、クラスで孤立している宝井を助けようとする奴なんて滅多にいないだろう。見た感じ宝井はすごく要領が良いタイプではなさそうだから、最終的に縋るとなると教師に行き着くのかもしれない。

 そうこうしているうちに、母屋の前まで辿り着いた。扉を開けた秋月は、門前で立ち止まっている俺にちょいちょいと手招きする。


「渡せるものは全部持ってくるから、上がりかまちにでも座って待っててね。すぐ戻ってくるからさー」


 スリッパによく似た形状のサンダルを脱いでから、秋月はひらりと手を振る。そのまま、バケツと共に廊下の向こうへと姿を消す。

 何となく手持ち無沙汰に思いつつ、俺は言われた通り上がり框に腰を下ろす。屋内で直射日光が当たらないからか、外よりも幾分か涼しい。

 特にすることもないので周囲をぐるりと見渡すと、玄関ホールの一番奥に木彫りの龍が鎮座していた。智水寺、という名前の寺院なのだから、やはり水に関係があるのだろうか。最上川の支流は近いけれど、洪水になったことはほとんどない。少なくとも、俺の記憶の中にある川はいつも穏やかで、水量が少ない訳ではないのだろうが大雨の日も氾濫には程遠い。この辺りは雪こそ降るが、それ以外の自然災害にはびっくりする程無縁だ。台風だって、ここらの人にとってはちょっと強い風雨、くらいのものだろう。だからこそ、酷い時は大騒ぎになるのだけれど。


「お待たせー。退屈してたでしょ」


──と、ここで唐突に頬がひやっとする。

 肩を震わせながら振り返れば、そこにはにやにやと笑う秋月がいる。その手を見てみれば缶ジュースが握られていたので、これを押し当てられたのだとわかった。今も頬がじんじんと痺れたような感覚を残している。

 びっくりした、と口にするのは癪だ。無駄な足掻きかもしれないけど、俺はひとつ咳払いをしてから秋月に向き直る。


「いえ、とんでもないです。そこまで待った感覚はありませんでした」

「あはは、それならちょっぴり安心かな。はい、これ、お詫びと言っては何だけど、うちで持て余してるみたいだからあげる。炭酸苦手だったら普通のジュースもあるから言ってね」

「大丈夫です、ありがとうございます」


 手渡されたのはパインサイダーで、何度か飲んだことのあるものだった。お中元か何かで送られてきたのだったか。今年も届いたら確定だろう。

 ちらっと秋月の方を見ると、俺に渡したサイダーとは違うデザインの缶を持っていた。柄を見るに、恐らくトマトジュースだろう。カシュ、と蓋を開ける小気味いい音が鳴る。そのまま秋月は缶を口に持っていき、ごくごくと飲み下す。俺たち中学生とは違い、喉仏がくっきりと浮いていた。


「磐根君もどーぞ。喉、渇いてるでしょ」


 促されたのを断る気にもなれず、俺はいただきます、と一言告げてからサイダーを口にする。よく冷えたそれは甘酸っぱくて、汗をかいて失った水分を心地よく補ってくれているような気がした。普段、炭酸飲料はあまり飲まないけど、こういう時は美味しく感じる。一気に半分まで飲んでしまった。


「こんな玄関先にしか上げられなくて悪いねえ。本当なら茶の間に通すところだけどさ、母屋の掃除もやってるからお客さんに見せられる状態じゃないんだよ」


 ふうと一息吐いていると、秋月が飄々とした物言いをしつつ隣に腰掛けてきた。立って歩いている時はそうでもなかったけど、座るとやはり猫背だ。


「いきなり押しかけた俺も俺です。気にしないでください」

「そお? それならお言葉に甘えるよ。──で、これ、パンフレットとかリーフレットとかチラシ、ひとまとめにしといたから。市報とかも入ってるから重いけど、そこは我慢してね。載ってる情報はどれも似たり寄ったりだから参考にはならないかもしれないけど、少しでもお勉強の役に立てたのなら嬉しいな」


 そう言いつつ秋月は紙袋を差し出す。本屋で包装されるような、中身の見えない茶封筒だ。別に見られて困るものではないけど、しっかりした紙袋なら普通にありがたい。今後の保存にも使えるかもしれない。

 ありがとうございます、と謝意を述べて、背負ってきたリュックサックに紙袋をしまう。残ったサイダーを飲もう……とする前に、いくつか質問をしておこうと思って顔を上げた。


「あの、先生」

「うん? なーに」

「先生はよくここのお手伝いに来られるんですか? なんか、生徒と鉢合わせしたのに手慣れてますよね」


 意図せず、詰問するような口調になってしまった。のらりくらりとした態度に思うところはあるけれど、秋月そのものを嫌っている訳ではないのに。

 しかし、内心どう思っているかはさておき、秋月は嫌な顔をしなかった。そうだねえ、と前置きして、笑顔から目元を細める。


「呼ばれたら行くけど、休日はいつも入り浸ってるって訳じゃないよ。僕の家は東根だから、こっちまで来るのは苦じゃないけどね」

「そうなんですか」

「特に就職してからは忙しくってねえ。大学生の頃は、お小遣い目当てによく手伝いとかしてたんだよ? 法事の時とかさ、大人はともかく子供は退屈しちゃうでしょ? そういう子たちの相手をすることはあったなあ。うちの住職、やたら話が長いからね」


 これは秘密ね、と後付けされる。俺は智水寺の檀家ではないし、他人に告げ口してもあまり盛り上がらないと思うのだが、突っ込むのは野暮な気がしたので黙っておいた。


「そういうところで子供と触れ合ったり、っていうのはあったし、何より教師だからね。手慣れてる、とまではいかないけど、それっぽい対応は一通りできるよ。じゃなきゃ教師なんてやってられないって」

「子供の面倒見るの、好きなんですか?」

「どっちかって言ったら好きかな。あ、変な意味とかなしに、純粋にね?」


 わざわざ言わなくても良いことだと思う。秋月のぱっとしない見た目でそういうことを言われると、妙にリアリティーがあるからやめて欲しい。

 缶に残ったサイダーを飲み干す。最後の方はほとんど炭酸が抜けていた。強すぎるのもどうかと思うけど、やっぱりしっかりと炭酸が効いていた方が美味しい。


「そろそろ帰ります。資料と飲み物、ありがとうございました」


 立ち上がり、再び秋月に頭を下げる。こういった仕草をすると、信也に堅苦しいとよく言われるが、礼を欠くのは何となくもやもやするので堅苦しいくらいがちょうどいいのかもしれない。

 同じく立ち上がった秋月は、へらりと笑いながらいいって、と相槌を打った。そして、今し方思い出した、とでも言いたげな風に切り出す。


「そういえばさ、さっき谷地の方で色々やってるって言ったけど、そっちに茜ヶ淵の関連史跡があるんだよねえ。史跡って言っても、小さい石碑があるだけだし、茜ヶ淵氏そのものに関わるものじゃないんだけど」

「どういったものなんですか?」

「呉井璃左衛門──っていう人がいてね。慶長出羽合戦の折、茜ヶ淵氏のもとで戦って戦死した人なんだけど、その人が河北町にルーツのある人物っぽくてさー。今まで呉井璃左衛門を分骨したっていう石碑周りなんてほとんど整備されてなかったんだけど、地域振興も兼ねてつい最近に整えたみたい。良かったら行ってみたら? 自転車で行けない距離でもないでしょ」

「呉井璃左衛門──ですか」


 声が上擦りそうになるのをどうにか堪える。

 宝井はこのことを知っているだろうか。もし知らないのなら、今すぐにでも教えてやりたい。決して不快ではない焦燥が、じんわりと俺の胸中に広がる。


「教えていただいてありがとうございます、先生。家に帰ったら調べてみます」

「多分ネットには載ってないと思うよ。さっきの紙袋の中に資料入れといたから、そっちの方があてになるんじゃないかな」


 俺の反応を見越していたのだろうか、秋月の準備の良さに俺は内心で舌を巻く。宝井には言いにくいけど、秋月を頼るのは良い手かもしれない。

 再度秋月に礼をしてから、俺は自転車のもとまで戻る。早く帰って、紙袋の中を見たくて仕方がなかった。

 去り際に振り返ると、秋月が本堂の前でひらひら手を振っていた。無視するのも申し訳ないような気がしたので、軽く会釈をしてから帰路についた。

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