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「ねえ、シンって、最近どう?」


 各班対抗で行われた小テストの集計をしていた時、いっしょに作業をしていた大野からそう問いかけられた。

 シン、というのは信也のことだろう。俺にはよくわからない世界だが、ある時からクラスメート──とはいっても児備嶋の生徒の中でしか見られないが──は、お互いをあだ名で呼び合うことが増えた。多分、小学校高学年くらいからだったと思う。

 これはあくまでも俺の憶測だが、恐らく皆、恥ずかしくなったのだろう。あだ名を多用する連中は、それまで下の名前で呼ぶことが多かった。あの信也も、大野のことは春佳、と呼んでいた。女子の中には、俺をいっちゃんと呼ぶ奴もいる。

 保健体育の授業にいわく、その頃から俺たちは思春期に突入したのだという。その過程として、男子間に何となく隔たりというか、恥じらいのようなものが生まれたのかもしれない。恥じらいと言っても、面映ゆくなるようなものではない。女子はどうだか知らないが、賑やかな男子は正直耳を塞ぎたくなるような、下品な話題でぎゃはぎゃはと盛り上がることも少なくはなかった。その中に信也が混ざっているとわかるだけで、俺は人知れずげんなりした。功一が話題を好まないのが数少ない救いだった。

 そんな信也と付き合っているのが、この大野である。

 先日、信也は大野との関係が自然消滅するかもしれない、と口にしていた。表立って二人が喧嘩する場面に出くわしたことはないけれど、詰まるところ上手くいっていないのだろう。恐る恐るこちらを窺うような口振りは、少なくとも大野の中ではぎくしゃくしていると認識されていることがわかった。


「どう、って……別に普通じゃないか」


 たしかに信也は俺の幼馴染で、昔から身近なところにいる人間の一人だ。でも、あいつの交際関係にまで口出しできる立場ではないし、最近は登下校くらいでしか話さない。属するグループというか、派閥が違うのだ。

 信也のことなら、よくあいつとつるんでいる長内おさないとか、森谷もりやの方が知っていると思う。それに、大野だってあいつらとの方が距離も近い。長内たちは男子の中におけるリーダー格……というかよく目立つグループなので、猪上とつるむことも多い。ふたつのグループがいっしょになって騒いでいる場面も少なくはなく、当然大野もその中に混じっていた。

 知らない、と直接口にはしなかったが、大野にはそれが伝わったのだろう。大野は悲しみと反抗心を織り混ぜたような顔をして、そんなことないよ、と唇を尖らせた。


「いっちゃんにこんなこと言うのも何だけどさ……シン、最近おかしいんだよ。あたしが何か言ってもテキトーに返事するか、無視するかで、まともに話聞いてくれないし……。前は電話もメールも毎日してくれてたのに、今はあたしからかけても出てくれない日があるの。何て言えばいいのかな……前よりも、冷たくなったの、シンは」

「……前って、具体的にはいつだよ? 時期によっては、部活が忙しくなったとかもあると思うけど」

「ずっと前からだよ。一年の三学期あたりから、急に……。三学期なんて、一番部活が楽な時期だよ。女バスも男バスも、隣同士だったから大体同じ感じだってわかるもん」


 そういえば、大野は女子バスケ部だった、と今更ながら思い出す。信也ともよく自主練していたらしい。一年生の頃、猪上たちがそんな感じのことを話していた。二人はいつでも息ぴったりだ、と。


「いっちゃん、どうしよう。シン、あたしのこと嫌いになっちゃったのかな。それとも、あたしよりも好きな子ができたのかな」


 大野は今にも泣きそうな顔をしている。必死に堪えているようだが、盛り上がった涙は隠しきれていない。

 小学校の頃から、大野はよく泣いた。怪我をした時、嫌なことがあった時、感動した時……何かしらの行事があると、閉会式の時には必ずと言って良い程涙ぐんでいた。

 そんな大野の性質は優しいね、とか、団結力があるんだね、とか良い方向に受け取られることもあったが、時間が経つごとに鬱陶しがられるようにもなっていった。泣き虫、弱虫、ぶりっ子。本人のいないところで、彼女と仲の良い猪上や元木がそう言っていることもあった。あいつらの声はよく響くから、聞こうとしていなくても耳に入ってしまう。

 別に他人に迷惑をかけている訳ではないのだからそう手厳しく言うこともないとは思うのだが、周りは──とはいっても大多数、という訳ではなく大野と家が近所で関わる機会の多い功一いわく──もう中学生にもなるのにふとしたことで泣くのはみっともない、時と場所を考えろ、だそうだ。『大人』になりかけているクラスメートが大野の涙を白い目で見るのは、泣くという行為自体を子供っぽいと思っていることが関係しているのかもしれない。

 小学生の頃は、泣きそうな大野を慰める者も多かった。だが、今では呆れたり、蔑むような目で見たりする連中の方が増えた。だから、大野も我慢しているのだろう。批判しそうな相手の前では、涙はおろか相談すらしない。今大野が泣きそうなのは、涙を否定しない俺しかいないからだ。

 心の成長──と言えば聞こえは良いのかもしれないが、些か冷たいのではないか、と俺は思う。信也だけではなく、泣く大野を突き放し、あろうことか悪し様に言う奴らが。


「……大野、先に帰ってていいよ。結果なら、俺が出してくるから」


 でも、大野の悩みはあくまでも彼女と信也の間の問題だ。俺が関わっていいことじゃない。

 大野の手は、だいぶ前から止まっていた。集計の作業は、ほとんど俺がやっていたと言っても過言ではない。泣きそうな大野は決まって動けなくなってしまうから、予想外のことではない。鷲宮あたりは、感情ひとつで使い物にならなくなるなんて、と眉を潜めそうなものだが、俺にとっては然したる問題ではないので、何も言わずに一人で集計をまとめた。

 大野には、落ち着く時間が必要なのだ。このまま学校に留まっていては、悪い方向にばかり考えが向いてしまう。

 大野は目を赤くさせながら、ありがとう、とだけ言った。そして、鞄を背負うととぼとぼと教室を出ていった。

 今日は委員会活動の日なので、部活はない。委員会によって作業内容はまちまちなので、既に下校している生徒も少なくないだろう。

 学級委員の仕事は基本的に地味で、面倒なものが多い。委員長、などと信也は呼ぶが、クラス全体をまとめられている訳ではないし、リーダーとして引っ張るような仕事もない。例えるなら、学級委員とはクラスメートの尻拭いと手綱を握る役目を負った便利屋のようなものだ。そして大野が動けない今、その負担は俺一人が背負うことになっている。


「……大野は?」


 だから、職員室で俺から集計結果を受け取った学年主任の横尾よこおが顔をしかめたのも、当然と言えば当然のことなのだった。


「具合が悪かったみたいなので、先に帰ってもらいました。あとは提出だけだったので」


 提出だけ、とは言うが、その集計結果を導き出したのは十割俺だ。大野はうつむいて俺の向かいに座り、信也について聞いてきただけだった。

 最近どう、という質問の前にも、大野はあれこれと聞いてきた。遠回しだったが、全て信也に対する問いだった。最近になって彼が冷淡になったのは、新しい彼女候補ができたからではないかと疑っているようだ。

 大野がまともに学級委員の仕事をできる状態でなくなっていることは、教師たちも気付いているらしい。特に厳しい横尾などは、何度も大野を呼び出して咎めている。そして、説教が終わり戻ってくる大野はいつも泣いている。同じグループの猪上たちは、またか、みたいにうんざりした顔で出迎えていた。


「学級委員とは、二人いてこそ成り立つものです。磐根、お前はよかれと思って請け負っているのかもしれないけど、それは大野のためにはならないことなのですよ」

「はい。すみません」

「磐根に問題はないけれど、同じ学級委員なのですから、大野の問題はお前の問題でもあります。大野の振る舞いは、クラスを先導する学級委員に相応しいとは思えません。お前からも注意をしておくように」

「わかりました」


 本来大野に向けられるはずの注意も受けてから、俺は職員室を出た。荷物は持って来ていたから、あとはこのまま帰るだけだ。

 廊下はひどく静かだった。人の気配は感じられない。古めかしい木造の、いわゆる学校の怪談に語られるようなシチュエーションでもないのに、俺は二の腕が妙に寒くなった。

 早く帰ろう。部活もないのだし、これ以上学校に残っていてもやることはない。

 昇降口に近い方──西側の階段を目指して歩く。職員室は二階の中央にあるため、階段までは多少の距離がある。

 それが、いけなかったのかもしれない。


「──信也君っ!」


 軽やかで、楽しげな声だった。

 階段の側まで来ていた俺は、反射的に側にあった男子トイレに駆け込んでいた。死角となる壁に身を隠し、声が漏れないようにと両手で口を塞ぐ。

 がらり、と教室の扉を開く音がした。階段を挟んで西側にある、俺たちの──二年生の教室だろう。


「もう、忘れ物、あった?」


 怒っているようで、しょうがないな、と言いたげな声だった。児備嶋の女子のようにきゃあきゃあと甲高くはなく、耳障りではない。


「ああ、悪いな、付き合わせちまって。先に帰ってても良かったんだぜ?」

「ダメだよ、それじゃあわたし、ずっと一人で帰ることになっちゃうよ? 帰る方向が別々だから、せめて校門までいっしょに行こうって約束だったべ?」

「わかったわかった、そんな怒んなよ」


 訛りを含んだ女子の声。児備嶋の女子は田舎っぽくて嫌だ、などと言って無理に標準語で話す者も多い。少なくとも、大野や鷲宮にはない口調だ。

 そして、その声に返答を寄越しているのは、紛れもなく信也の声だった。聞き間違えるはずがない。声変わり終わりかけの、ざらざらとした声。話し方の癖も、信也のものに他ならない。

 俺は壁からそっと顔を出した。見たくない、という思いは決して弱くなかったはずなのに、自分の目で確かめずにはいられなかった。

 階段を降りていく、ふたつの後ろ姿。背が高いのは信也だろう。襟足に伸びた髪の毛は、あいつのものだとすぐにわかる。

 そして、そんな信也の腕にしがみつく、細くて華奢な背中。


「ったく、姫魅ひみは甘えん坊だな。そんなくっついたら危ないだろ」

「えへへ。だって寂しかったんだもん、仕方ねべ?」


 姫魅。

 すう、と頭が冷えた。指先から、温度が失われるような心地だった。

 猫屋敷姫魅。同じ班になった、茜ヶ淵出身の女子生徒。

 何故、彼女と信也がいっしょに。わかりきっているはずなのに、疑問を覚えずにはいられない。

 俺が見ているとも知らない二人は、階段を下っていく。その途中で、信也の手が隣にいる女子の頭を撫でた。いかにも愛おしげで、優しい手付きだった。

 シンって最近どう、と不安げに聞いてきた大野の顔が思い浮かぶ。俺の脳内でその顔は歪み、やがて涙をこぼし始める。

 何かが壊れていく。前は、小学生の頃は、そんなことなかったのに、積み上げてきた何かが、一気に壊れていく音が、止まらない。

 俺は思わずへたりこんでいた。両足に、力が入らない。

 視界が歪む。喉が痛い。鼻の奥が、つんとする。

 無性に、泣き出したかった。

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