誠実 二〇二一年 四月一日 ⑤

「いいわけ、ないよ」

 灼熱の刃が首を落としたのかと思って、手を当てる。脈を打つ感触が伝わってきて、俺は少し安心した。

「そんなやり方、いいわけないよ。おかしいよ」

 目の前で、当然のように流れを汲む人間がいて、当たり前のように自分の星座の形を他人に示すことのできる人間が、拓実の説明を聞いても尚、真っ向から否定する。

 俺たちが結びつくまでには、いくつかの偶然が必要だった。元基と真子が同じサークルである偶然。二人で寮に寄る用事があった偶然。休講のおかげで、あの時間に俺たちが帰る偶然。猫が事故に遭った偶然。なおかつ、生きていた偶然。そのおかげで、彼女と連絡先を交換する必要があった偶然。

 麻酔が効いたように体の感覚が曖昧で、その代わり体内温度はマグマのように熱かった。

「いいとか悪いとか、そういう問題?健太郎は正式な採用フローを、真っ当な面接官の選考の下、通過したんよ」

「だから、人を騙してるんでしょ」

「騙してる?面接官からすれば、騙されたなんて微塵も思ってへんし、どう感じるかは受け取り手次第でしょ。それに健太郎がした努力の価値は不変だよ」

 面接官に疑われることのない一貫した人物像を植え付け、通過させるためには通常よりも膨大な時間を要した。演じる人物の性格、キャリア観、歴史。一人だけでも骨が折れるのに、七人分の仮面が必要だったのは、業界、企業、面接官の評価基準が一定ではないから。ある企業の選考で通過しても、違う企業の場合、求めている人物像が異なる場合はよくあることだ。それを補完するために、拓実は七人分ものデータを用意した。

 目の前にいる学生は御社に入るための文脈をきっちり辿ったのだという軌跡を、限りなく滑らかに作りだすために。

 絶対に失敗しないために。

 重い瞼を上げ、険しい皺を寄せている真子を捉えた。後悔は、ない。

「テストでカンニングするための努力を、誇られた気分だよ」

 一度、拓実に訊かれたことがある。もし真子にばれたときはどうするかと。

 地元で就職活動をしなかったのは。周りよりも早くインターンに申し込んだのは。絶対に今年で決めたかったのは。拓実の提案を最終的に決めたのは――。

 言い訳をするつもりはない。だから、誰にも言わない。彼女には石を投げる権利がある。

「真子ちゃんって、整形する人とか認められんタイプでしょ。親の産んだ顔に~とかケチつけて。人の気持ちも……、健太郎の気持ちを知らずに」

「知らないだって?」

 真子が一歩踏み込むと風がビュッと吹きつき、長い髪が真子の表情を隠した。

「だったら、私の話も聞いてよ」

 拓実の手が促すと、前髪を直しながら真子は俺の方を向いた。

「去年の九月頃に京都行ったの、健太郎は覚えてる?」

「よく覚えてるよ。もしかしたら今までで一番楽しかった旅行だった」

 行き当たりばったりの真子と、Zoomを繋いで、ホテルを決めるところからたくさん時間を使って、行く場所を決めるのには限られた時間の中で、どこを回るか大分揉めたことも。真子の決断を見届けたことも。

「私もだよ。中々旅行に行けないから、その分できる限りの質を高めて、旅行そのものをもっと楽しもうと思ったの」

 予算を大幅にオーバーして夏休みのバイトが全額消えてしまっても、お金以上の思い出を作れた。

「拓実くんはさ、去年の十一月に公演が再開されたとき、嬉しかった?」

「それってこの話と関係ある?……まあ、あるんやろうな。嬉しくないわけないやん。みんな喜んどったわ。いつもより稽古にも熱が入って、お客さんの前で舞台観てもろうて、僕も含めて、やっぱり続けてきてよかったと心の底から思った。これでええの?」

「そうやって私たちは、上手く帳尻を合わせてきたんだよ」

――ただ、振り返ってみると、一つ一つの機会を大事にしていきたいと思うようになりました。

 桜の花弁が目の前を過ぎていく。あの時は青葉だった。

 青い空気が肺の中を循環していく。口の中は一気に乾いていった。

 ああ、そういうことか。開いた口から言葉が出せない。拓実は首を傾げるばかりで、まだ気づいていなかった。

「本当は去年の二月から留学する予定だったんだけど、コロナウイルスのせいで直前にストップがかかって……流れた。それだけならよかったんだけど、四月、五月って大学が止まっている間に、ほとんどの航空会社が新卒採用を見送る方針を出したんだ。私、客室乗務員になりたかったんだ。知ってる?うちの大学って、客室乗務員の数が関東の大学では一番多いんだよ。だけど、その目標がぐちゃぐちゃに潰された時、すごく悲しくて悔しかった。けど、なんかもう別にいいかなって。ずるずるずるずるして。それでいざゴールデンウィーク開けて大学がオンライン授業になったらさ、課題に忙殺されて寝る暇もなくて苛々するし友達にも会えないし。なのに、お父さんや、妹は普通に学校に行ってるし。なんで私だけが、家に閉じこもってパソコンの前で講義受けさせられなきゃいけないんだって。意味わかんないし八つ当たりしたこともあったんだ。だってムカつかなかった?『何やってるんだろう』ってこっちは頭おかしくなりそうなのに、曲がりなりにも、妹は学校に行けてるんだよ。まあ、妹は妹で色々大変だったんだけどさ。このままずるずる深いところにはまったまま動けなくても、どうせ外は何も変わらないんだからいいかなって。渋谷ではハチ公口の方でノーマスクやっている人たちはいるし、コロナウイルスを軽く見て罹ったりするし、ほんといい迷惑だよ。それでバイトに行ったら、ソーシャルディスタンスだから席減らさなきゃいけない、営業時間短縮、シフトは減る、こっちが馬鹿みたいに神経すり減らしてるのに、そのすぐ近くではそういうのお構いなしにやってる奴ら見ると、馬鹿らしくなってくるんだよ。そういう時どうすればいいのかは、今もずっとわかんない」

 真子の首がゆっくりと垂れる。重力に負けそうだった。

「せやったら――」

 でも――、

「でも、私だって、たまに友達に会いたくなって、遊んだりするんだよね。健太郎と旅行に行きたくて、行くんだよね。だから、だから、友達の姿を見た時、健太郎の顔を見た時、その時間が何物にも代えがたいほど、どんな合理的な選択にも打ち勝つほど、すごく愛おしく感じるんだよ。健太郎が頑張ってるの見て、少し休んだから私もそろそろ起きようかなって。『目指すために努力したことは無駄にはならない』って励ましてくれたから。じゃあ私もってなったんだ」

 真子は空を眩しそうに見つめる。空はとても青かった。

「健太郎」

 真子は静かな声で呼びかける。彼女はとても綺麗だった。

「あってないようなルールの中で、バランスを保つのは嫌だった?」

 右足に重心が傾いた。

 ぐらぐら、ひょい。

「自分ですら裏切ることのできるルールの中で、下手をすれば損をするかもしれないルールの中で、誠実でいるのは嫌だった?」

 来る。

 と、わかっていても、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

「今ってさ、綱渡りをしている状態なんだよ。私たちは。いつ落ちてもおかしくない状況で、みんなロープにしがみついたり、新しいロープに乗り移ったりして、なんとかしてバランスを保ってるんだよ」

 足の指と股関節で踏ん張った。

「あってないようなルールの中で、自分ですら裏切ることのできるルールの中で、下手をすれば損をするかもしれないルールの中で、倒れそうでも、バランスを取ろうとすることだけは、やめちゃいけないんじゃないの?それが今、私たちにできる一番誠実な姿勢なんじゃないの?そこから降りたらさ、一番大切なものを捨てることになるんだよ。そんな大人たちを、私たちはこの一年ちょっとで散々見てきたでしょ。嫌だったんじゃないの?」

 嫌だったとも。なりたくなかったとも。俺も綱の上を耐えながら歩いていたかった。

「全員がバランスを保てたら。全員が正面を向いて、顔を上げることができたら、誰も苦労せえへんって。バランスを取ろうとすることがどれだけ難しいかくらい、真子ちゃんだって頭回るやろ」

「そうかもしれないね。じゃあなんで健太郎ができないか、教えてあげようか」

 踏ん張っていた力が抜けると同時に、さっと血の気も引いた。

「やめろ……」

「健太郎は、自分から逃げたんだよ」

 胸が苦しくて、張り上げて遮ろうとした声は、二人に聞こえていなかった。倒れなかったのが不思議なくらいだった。

「健太郎が降りたのは、面接官に差し出した自分が、否定されるのに耐えきれなかったからだよ」

 ぐらぐら、ひょい。

 やめてくれ。

――でもな、反対に健太郎の悪いところもわかるんよ。がさつなとことか、『面接官の評価を真正面から受け止め過ぎて、潰れそうになるところ』とか。だから面接が怖くなってしもうて、ドツボにはまるんや。

 俺は俺が気持ち悪い滑らかに紡げない自分が気持ち悪い録画面接の録音が気持ち悪くて聞けないのが気持ち悪いそんな自分が否定されるのを恐れているのが気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――。

 最初から、知っていたさ。

 一貫した人物像を差し出せないのが苦しかった。見ず知らずの人からお前はダメだという烙印を押されるのが苦しかった。朝起きようとしても心がついてこないのが苦しかった。やらなきゃいけないことでも手につかなくて苦しかった。

 心の底から自分の機能を疑ったのは、これで二度目。あの時以上に苦しかった。

 やっと宙ぶらりんの状態から解放されたんだ。重荷は、俺にとっては、必要だった。

 人生が二回あれば――、

 途中まで考えて、俺はやめた。去年、何の謂われもなく理不尽に夢を奪い取られた彼女は、なるべくしてなるための文脈を剥ぎ取られた彼女は今、新しい物語を既に紡いでいた。

 過去と現在の文脈が、必ずしも誰しもが想像できる未来に進むとは限らない。

 けれど、過去と現在と未来の文脈を、完全に切り離すことは不可能だ。

「じゃあ、あれなん?今から健太郎に内々定辞退しろとでも言うんか?」

 再び灼熱の刃が首を落とすのかと、首を守る素振りをとった。

「最初はそうも思ったよ。もしかしたら、騙されたんじゃないかって。やり直しがきくんじゃないかって。でも、自分の意志でやったことなら、私は何もできない。だってもう大人になるんだよ。学生みたいに家族や先生や友達が、健太郎の選択を一緒に選んであげることはできないんだよ」

 あらゆる義務から解放され、学校や親から保護されてきた学生と、同じレベルで守られることはありえない。守る人も、叱る人も、責任を取る人も、誰もいない。

「それでも私はダメだって、一緒に背負って上げられる距離にいるつもりだった。健太郎と一緒に背負って上げられるのは、ただ一人しか認められてないから」

「真子……」

「でも、無理みたいだね」

 くしゃくしゃになった真子は泣きそうだった。どうして俺がいなくなったみたいな顔をするんだ。俺はここにいるのに。

 唐突に手を伸ばそうとした。彼女の手か体を掴まないと、永遠に離れてしまう気がした。

 と、同時に頭の内側で何かが鮮烈に走った。

 俺にもあった。俺がずっと欲しくてやまなかった、誰にも疑われることのない、相手に差し出せる星座が。これから自分の人生を尽くしてもいいと思えることが。

「だから、自分を律して、自分で責任を取る。それがこれから生きていく上で、最低限の誠実さだから」

 真子に、その軌跡を、見てほしい。

 今なら言える気がする。絶対に今じゃないとだめなんだ。

「健太郎、逃げないでよ」

 伸ばした手が、なぜかどんどん遠ざかっていく。傾いた重心が崩れたせいだ。もう少し、もう少しなんだ。真子がとっさに腕を掴むと、俺の体重で転びかけていた。ごめん、と声を出したくても、肺から喉にかけての気管が割れるように痛い。苦しい。少し前から体が詮で、留められているようだった。

「健太郎、健太郎!」

 冷たい手が額に当たる。

「何これ熱ッ!こんなんで面接行ってたんか⁉」

 自分でもいきなりのことで困惑していた。だから、あまり揺らすな。頭もぼーっとしてきた。

「タクシー呼ぶから!拓実くんは健太郎を寮の前に運んで!でも、中にいれたらまずいかもしれない!」

「わかっとる!」

 肩を担がれ拓実と立ち上がる。俺が真子の方に体を向けようとすると、それより強い力で引き戻された。

 どうしてだ、拓実ならこの喜びをわかってくれるはずだろう。

 よりにもよって嘘をついてもいい日に嘘をつけないなんて、こんな晴れている日に限って、出会いの日に限って、別れることなんて真っ平ごめんだ。

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