誠実 二〇二一年 一月二十九日 ③

「ちょっと待ってよ」

 コックコートを脱いだ後、バックヤード裏から出ていく佳穂さんを二人で呼び止める。今、彼女から話を訊かないと、二度と会えない気がした。

「待つけど、あの話はもう終わりだよ」

「終わってないよ。さっきまで送別会の話してた奴がいきなり辞めますって言い出したら、そんなのおかしいじゃん」

 俺は眼を合わせづらいのを意志で抑えながら、「ごめんなさい」と謝る。

「ほんとは俺が行かなくちゃいけなかったのに、佳穂さんに行かせて。それで不快な思いをしたなら謝ります。だから、三月までいてください」

 俺たちは二か月後、他人になる。現在ですら、週数回の数時間を共有するだけの大学生に過ぎない。だが、俺の中にある道理が、彼女を引き留めた。

 俺のことを表情を変えずに眺めていた佳穂さんは、何かを取り払うように髪を揺らし、外に出ろと手を招く。

「歩きながら話そっか」

 店を出て、最寄り駅に続く道を俺たちは歩いて行く。普段なら俺と同じくらいの人で賑わう街も、今はテイクアウトの待ち列を除けば人がほとんど見られない。

 出ていく時に必要だと感じなかったコートも、夜になって人通りの少ない道で風に打たれると欲しくなる。ダサいからと、スーツの上に何も着てこなかったのを、寮に帰るまで後悔しそうだった。

「最初に言っておくと、客と一悶着あったのも、シフトを減らす話も、きっかけに過ぎないんだよ。つまり、辞めることへの意志は、積み重ねの末にあって、健太郎に非はないよ。職務怠慢を除いてね」

 さらりと注意されたことについては頭が上がらないが、小言に留まって安堵した。

「健太郎はさ、どうして伸行さんのところにバイト申し込んだの?」

「雅也さんの紹介ですよ」

「雅也は?」

「俺は求人サイトで適当に」

「そんなもんだよね」

 こつこつとヒールで地面を蹴る音が聞こえ、普段よりも視界がずっと暗い。街を照らす明りの元となるお店の正面には、シャッターが降りているからだ。ちょうど視界に入った居酒屋は、翌日に予定がない日のバイト終わりに、バイトに入っていた人たちで飲みに行っていた居酒屋だ。

「私が一番求めてた条件は上下関係が面倒臭くないところだった。一年の頃はネカフェでバイトしてたんだけど、あまりに暇なのと夜勤を増やしてくれって言いだしてさ。ちょうどその頃、下北沢に遊びに来て店に入ったんだよね。ホールをほとんど大学生で回してる店の求人見つけた時は、料理の味より覚えてるよ」

 今の環境に不満があって辞める人はとても少ない。大抵就職だったり、その他の外的要因で離れる人がほとんどだった。

「もちろんお金が稼げることに越したことはないんだけど、病院で働いてるお母さんが、患者さんよりも職場の人間関係で苦労してるのを知ってるから、今のバイト先は本当によかった。就職先が嫌になったら、もう一度戻りたいと思うくらいにはね」

 人間関係のトラブルという、最も蓋然性の高い離職リスクをクリアしている点で、今のバイト先は非常に良好だと俺たちは考えていた。

「でも、今は嫌なんだよ」

 テイクアウトの列を見ると、そのほとんどが俺たちより年上の、職場から帰宅する人たちがその日の夕食を求め、並んでいるのだと気づく。

「例えばさ、自分が商品の列に並んでて、勝手に割り込みされるとすごいむかつくじゃん。しかも目の前で売り切れて、本来買えるはずだった自分じゃなくて、割り込んだそいつが喜んでいる時には尚更」

 考えるまでもなく最悪だ。もしそんなことが現実に起きたら、三日ぐらいは割り込んだ奴の後ろ姿を忘れられず、背中を思い切り蹴っ飛ばす妄想をしながら寝込む。

「今年の箱根駅伝、弟の陸上部も出場したんだけど、弟はメンバーには選ばれなくてさ。毎年応援は行くんだけど、今年はちょっと状況的に厳しいから、自宅で待機するしかなかったんだよね」

 それは俺も中継を通して観ていた。例年とは違い、選手にとっては寂しい大会になったのは間違いないが、夏に開催されるはずだったオリンピックを筆頭とした他の学生大会のように、延期や中止にならなかったのがとにかく一番よかったと思っていた。

 テレビから見える宿舎から応援を飛ばす学生たちの姿。箱根の道を走る選手たち。

そして――、

「テレビ中継観たら、笑いたくても笑えなかったよ。部に所属している弟が家にいなくちゃいけないのに、どうしてテレビの向こうでは人が大勢いるんだろうね。どうしてなんて、あたしが言う権利はないんだろうけど、練習してる弟の気持ちを考えると、テレビぶっ壊したくなったよ」

 観客が応援に参加していることへの違和感はなくとも、どうして選手が応援に参加できないのかという不自然さを、俺も中継を通して感じた。その列の最前列に並んでいるはずの彼らが、どうしてそこにいないのか。

 部外者の俺にはそこまで覚えなかった違和感や不自然さも、当事者のことをよく知る佳穂さんならば、ぶつけようのない怒りを覚えて当然なのかもしれない。けれど、その拳はどこにも降ろすことはできない。

 自分たちの理解を超えて発生しているから、理不尽なのだ。

 佳穂さんの肩が下がると、俺は少し前の真子とその姿を重ね合わせてしまっていた。

「だから、きつかったなあ」

 何かを諦めるときの姿が、痛々しいほど似ていた。

「『きみたちみたいな大学生が何も考えずに街を遊び歩いているから、僕たちだって肩身の狭い思いをしてるんだよ。どうせ今日バイトしてるのだって、遊ぶ金に使うんだろ』」

 その言葉を聞いて、耐えがたいほどの怒りがネクタイの内側を締め付ける。雅也さんも表情を歪め、首を激しく横に振り吐き捨てる。

「ふざけんなよ。何も知らないくせに。一年間一度も大学に行けなくて、一人で課題をこなす奴もいるだろ。いきなり変わったオンライン面接で困惑するやつもいれば、内々定取り消された友達だっている。端から端まで見れば、客が言ったような奴もいるよ。けど、それを何も言われる筋合いがない人に、ぶつけていいものじゃないだろ」

 今回の厄災は、一定の理不尽を平等にまき散らした。客もおそらく、俺たちが想像し得ない何かしらの理不尽を被っている。

「弟は陸上部で頑張ってる。お母さんだって病院で働いてる。だから、迷惑をかけないようずっとずっと考えてたのに、ほんと嫌になるよ」

 少しでも快適に過ごしてもらうように、他の人に迷惑がかからないようにと必死になって考えている側にも、理解の手を差しのべてほしかった。

「色々なものをごちゃまぜにしちゃうんだよ。本来比べられないのかもしれないものまで切り取って比べちゃう。バイトの給料は客のお金から来ているから、客の利益ために働くのはサービスとして当たり前だよ。だけど、これは違うでしょ。お願いしていることはほんの些細なことなのに。まったく別の事象なのを、切り取ることにあたしは耐えられない。だったら何も見ない方がいいんじゃないのかって、思うんだよ」

 鋏の音が、また聞こえる。頭の内側がチリチリした。

 俺たちの知らないところで勝手にルールができて、自分たちの知っているルールはその機能を働かせていない。

 八時までって決めたのは誰?

 ワクチン反対の記事を書いていた新聞社が、日本でワクチンが進まない理由について記事を書いていたのは?

 一時期マスクが手に入らなかったのは誰のせい?

 コロナが存在しないってデモを起こしている人は、現実を生きているのか。

 今までもそういうものはあった。けれど、自分たちの手の届くところに入って来てしまったから、こんなにも悩まされるのかもしれない。

「あたしはしばらくはそっぽ向いていたいんだよ。切り取って、比べて、色々なものを嫌いにならないためにさ」

 見たくないものが増えすぎてしまった。定められたルールの外にいる人や、したくなくても勝手に切り取ってしまうことに、耐えられなくなってしまった。そんなことを考えると、同じ街が、人が、全く別物に見える。

 そこまで言われてしまったら、俺はもう無理に引き留めることはできなかった。突発的な行動ではなく、ずっとずっと、壊れないよう扱っていたコップにひびが入っていた。

「佳穂ちゃんが嫌だったら、シフトに入れなんてもう言わない。でも、送別会は来てよ。そんでもし、送別会がなくても、飯ぐらいは食べに行こうよ。そうでなきゃ、いきなりいなくなるなんて、寂しいに決まってるじゃんか」

 我慢に我慢を重ねた佳穂さんに、これ以上辛い思いをしてほしくなかった。

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