誠実 二〇二〇年 十月三十一日 ③

「食わないの?」

 目の前に盛られたパスタをフォークでくるくる巻いても、食欲と連動するかのように麺が解けていく。テーブルの真ん中には二人分のパスタが大皿に盛られ、目の前の紙皿では一口分のパスタが乾きかけていた。

 金本夏彦とは、大学のゼミで知り合った。二年からはじまるコミュニティには入学当初とは違う、互いに深く関わらなくてもいいような空気感があった。夏彦とはたまたま最初の席位置が隣で、俺が眠たそうにしていると隣からフリスクを差し出してくれた。ゼミのでは毎時間グループワークがあり、席を動かない方が少ない。なので、夏彦とはそれ以上の仲になったわけでもなく、他のゼミ生と比べても特段話があったわけでもない。だが、夏彦には他の学生よりもゼミへの関心が高く、また、実家が長野で旅館を経営していることから、俺たちでは思いつかないような発言をすることが度々あった。

 食欲はあまりなかったが、「それともこれか?」とポケットから出されたフリスクと比べれば、まだパスタを食べる気になれた。ペスカトーレと夏彦が言っていたパスタは、細々とした鮹やイカが麺の中に見え隠れしている。オリーブを絡めて口に入れた細麺は冷凍食品やスーパーで打っている乾麺をゆでたものとは違う、ニンニクとオリーブを染み込ませた旨味が弾けた。

「人が来るってわかってれば、もっと手を込んだものを作ったんだけどな。具材は全部特売で買った冷凍食品だけど、健太郎だったらこれでもいいだろ」

「だったら、ってひどいな。でもうまい」

 夏彦は外に出られなくなった分の時間を料理に充てていたらしく、Instagramから週に何日か投稿される料理も、日を重ねるごとに見栄えが良くなっていた。

 ニンニク、オリーブオイル、イカ、鮹、ニンニク、ニンニク。バイト先のまかないで出てくるペペロンチーノよりニンニクが強い。一度口をリセットしたくなったのを察したのか、「ビールでも飲む?」と銀色のビール缶を見せる。冷えを丸ごと包んだような金色の液体を胃の中へ流し込みたくなったが、俺は水を頼んだ。

「そうか。健太郎は酒弱かったな。ゼミ合宿の飲み会でも最後は吐いたっけ」

 嫌な思い出を突然ほじくられ、噎せ返りそうになった。大学に入って気づいたことだが、俺は致命的に酒が弱い。なのに、人と一緒にいると気づかないうちに限界までいってしまう時があった。「きたねー!」と夏彦がティッシュを目の前に置く。

「あれももう去年か……」

 大人になると時間の流れが早いとよく聞くが、今年は特にそう感じる。

 最初の授業でゼミ長の貧乏くじを引かされた俺の大きな仕事は、夏休みに広島で行われるゼミ合宿の幹事だった。思っていたのと違った、と「元」幹事が光の早さで抜けていった皺寄せが来た時は、だったら幹事引き受ける前にやめろよ!と逃げられる前に、眼前で叫んでやりたかった。「じゃ、よろしく」と教授の口から告げられた日の帰りは、リュックの肩紐がひどく食い込んだ。その時にたまたま夏彦が質問しに残っていなければ、さらには「だったら俺も手伝うよ」と積み荷をひょいとどけるような口調で力を貸してくれなければ、大変なことになっていた。それに俺一人では、空き家を活かした再生ゲストハウスも、自転車レンタルで観光地を巡ることも、合宿には組み込まれなかっただろう。

 だから――、

「どうしてあんなところで固まってたんだ?教授から仕事投げられたときみたいだったぞ」

 俺が言葉を紡ぐよりも早く、夏彦は問うた。

「最寄り駅なんだから、突っ立っててもいいだろ」

「もしかして留年?それとも彼女に振られたとか?」

 夏彦がぐいぐいくる。そのうち核心に辿り着く前に、自分から差し出すことにした。その方がきっとダメージは少ない。

「就活のことで、同室のやつとちょっと揉めて、殴り合いになる前に外に出ただけだ」

 なるべく何事もなかったかのように答える。せっかく飯まで食べさせてもらったのに、雰囲気を悪くするような話題を持ち込みたくはなかった。だが夏彦は「へえ~お前がね!」と驚きと面白さを混ぜたような予想外の反応をとるから、ほんの少しだけ苛ついた。

「そんな顔すんなって。俺は単純に、健太郎でも誰かと喧嘩するんだなと思っただけだよ」

「俺はロボットじゃないんだけど」

 俺は自分が優しいとか人当たりがいい性格だとは考えていない。そもそも特別付き合いが長いわけでもない夏彦から、そのように思われていたのは意外だった。

 プシュッ、と目の前で炭酸の抜ける音がした。夏彦がビールを開けたのだ。俺たちだけしかいない部屋は、泡が弾ける一粒まで聞こえる。

「なあ、ゼミプレ前にちょうどここで作業してたときのこと、憶えてる?」

 その粒を指で触れるように夏彦は尋ねる。

 前ここに来たときは、キーボードを打つ音だけが部屋に存在していないのが気に入らなくて、夏彦は今よりもずっと沢山ビールを空け、俺は半ば奪い取るようにフリスクをボリボリと囓っていた。

 返事を待つことなく、泡をぽつぽつを割っていく。

「あのときはテーマが中々決まらなかったよな。一度決まったテーマが先行研究とほとんど被ってたのがわかって、じゃあどうするかって話し合いが続いてさ」

 一度ざっと資料を揃えようとした時に夏彦がそれに気づいた当時の顔は、バスの中で腹を下したようなひどいものだった。

 一回決まったテーマを改めて変えることは、容易ではなかった。最初から候補にあった案を採用すると、俺が言ってしまえばよかったのかもしれない。全員の足並みを揃えようとする時、一度目よりも二度目の方が難しい。中には、もうやらなくていいんじゃないか、今から不参加にした方が傷は広がらないんじゃないか、という意見も後からちらほらと聞こえてきた。

「俺は多数決で決めるんじゃなくて、健太郎が決めた方がうまくいく気がしたんだよな。そうすれば、嫌々でもついてきたと思うんだ」

 人は自分で能動的にやるよりも、やれと言われる方が作業自体は進むと、この時知った。

「やっと決まっても何人かが作業さぼってさ、一週間前で発表資料が三割くらい残ってたんだよな。結局間に合ったけど、俺ここでお前に『まとめることと、放っておくのは違うし、ましてや仲良くやるわけでもない』って結構強めに言ったけどさ、お前なんも言い返さなかったもんなー」

「悪かったよ」

 つくづく自分にはリーダーシップというものが欠けていると痛感した。今だから思う。拓実だったら上手くやったんじゃないか。あいつだったら周りとうまく連携しながら、遅れてたりサボったりする奴に対しても、へらへら笑いながらまとめてしまうんじゃないか。俺は拓実のやり方を真似ようとして、上手くいかなかっただけではないのか。

 だから――、

「前から思ってたけど、どうして夏彦はゼミ長やらなかったんだよ。お前だったら誰も文句なかっただろうし、もっと上手くやれたろ」

「は?やだよ」

 夏彦は空気を払うようにぶんぶんと手を振った。

「今さらほじくり返してあれだけど、なんだかんだ健太郎でよかったと思うんだよ。ここで発表資料まとめてたときも俺とかは「ありえねー」って言いながらほとんど投げだしそうだったけど、お前は黙々とやってたからな。それもサボったやつの分を誰よりも。それ見せられたら、健太郎でいいなってなるじゃん」

 俺はただ時間に追われて必死に作業を進めていたことしか憶えていない。黙っていたのも、喋る暇があったら手を動かした方が嫌なことを考えなくて済むし、なんなら全部終わった後、真子や拓実たちに散々愚痴っていた。

 俺は懐かしさにどっぷり浸かった目で、改めて部屋を見渡す。

「つっても、少し前まで他人だった奴と同部屋なんて、ウマが合わないに決まってるよな。俺だって実家に帰れば親とたまに言い争いもするし」

「俺も、訊こうと思ってたんだ」

 妙に少ない私物。クローゼットから出されているボストンバック。積み重なった大学の教科書やプリント。ところどころ、動かす前の場所に埃が溜まっていた。

「どうして夏彦がこっちいるのかって。休学中は実家だろうから、こっち来たのは久しぶりなんじゃないのか」

 夏彦は今年度、休学申請を大学に出した。教授から聞かされたのは、今年度の学費が下がらないとわかった一週間後だった。

 うちの大学の授業料は、一年間でおよそ一一〇万円。その中には講義を受けるためのお金だけではなく、大学の食堂や図書館、その他の目に見えないサービスを利用するために支払われている。だから、授業料を下げられない理由が理解できるように、キャンパスに通えないため利用できないサービスがあるのにも関わらず、授業料が下がらないことに不満を持つことも当然だった。一人暮らしの場合は、追加で家賃、光熱費、水道費、食費等を、物価が地方よりも高い東京で支払わなければならない。俺の周りでも誰かはいるだろうと思っていたが、夏彦とゼミの授業に出れないことには、さすがに寂しさを覚えた。

 もう直接会うこともないだろうと思っていた夏彦は今、ぐるぐるとフォークに麺を絡みつけている。

「麺、取りすぎじゃね」

 大皿に三割ほど残っていたのをフォークにむしり取られ、台風から外れた具が散らばっていた。夏彦は自分の手元を見て、戒めるような顔に変わった。

「お前にやる。俺はもういいや」

 夏彦は自分で載せた皿を俺に押しつけ、缶ビールに手をつけた。心ここにあらず、というよりは、手を動かしていないと言葉が浮かんで来ないような素振りだった。埃のかかった教科書に視線をやりながら夏彦は言った。

「今まではずっと、大学の入試も就職活動も……、その先の結婚とかもずっと先にあって、俺の中で一番大切な選択をするのはもっと後だと思ってた」

 最初、俺は言っていることの全ては受け止めきれず、「はあ……」と漏らした。

「そんでその時には、年齢を重ねた俺だったら、ほとんど迷うことなく決められると信じてた」

 けれど、夏彦が無意識に姿勢を正したのを見て、俺は胃の中を整理するように身をよじりながら、背筋を伸ばした。

「休学を決める前の四月から、親の旅館で働いてたんだ。親が働いているのは見たことあったけど、自分で何もしたことなかったからこれが大変でさ。ほとんど休みなく――」

「ちょっと待て」

 俺は慌てて遮り確認する。

「親のところで働いてた?え?」

 今の口ぶりからすると、休学しているから実家に戻るというわけでも、ちょっと手伝っていたというわけでもない。来年もオンラインでやるかどうかもわからない大学で、また夏彦に会えるかが気がかりで訊いただけだったのだ。

 そう、と夏彦ははっきり返す。

「半年間、親の旅館で見習いとして実習してた。いつ正社員として働いてもいいように」

 休学中は何しているのだろうとは、訊きづらくて言葉にはできていなかった。春休みが伸びた間、オンライン授業を受けている間、夏休みの間、就活をしている間、夏彦は新しいことを必死で覚えようとしていた。

「今はあまり人を雇える状況じゃないのに、半年間側で見てると親父の体も、経営状況も、ガタがきてるってわかった。時間が思ったより残ってなかったんだ」

 それはまるで、休学じゃなくて――、

「辞めるのか」

 テーブルの影がぐっと縮まる。責めたつもりは全くなかったが、夏彦にはそう聞こえたようだ。

 せっかくなのにと、どうしてももったいなさを感じてしまう。大学入試だってそう簡単ではなかった。俺も滑り止めくらいに考えていたけれど、結局は合格ラインぎりぎりだった。決して侮っていたわけではなく、文科省の給付金のせいで、定員が縮小し、さらには推薦入試の割合が高まっているせいで、合格水準も年々上がっているのだ。それに、どうしても大卒という、ある意味『資格』は欲しいと思ってしまう。就活をする上で大卒と高卒では、現状応募資格でばっさりと切られてしまうことだってある。あと一年待ったって、遅くない可能性だって残っているはずなんだ。

 俺が今ぱっと考えただけでも、辞めない理由はいくつも挙がった。夏彦はもっと浮かんだ中で、悩んでいるのだ。

 たった一回の決断で、残りの人生全てが決まってしまうことだってある。

たった一度の間違いが、すごく怖い。

 もっと時間をかけて考えるべきだ。軽々しく口にしていいはずがないんだ。

影から顔を上げると、フリスクを出すときと同じ、薄笑いを浮かべていた。

「――っていうのを、考えながら昨日今日うろうろしてたんだけど、今決めた」

 右手からフリスクが投げられる。テーブルの上をくるくる転がり、俺の握り締めた指元に当たって止まった。

「大学を辞めて、働く」

 瞼がぶるぶる震えた。

 滑らかに動く喉仏。細かく震えている瞳。しんと響くほど明瞭だった声音。ヒューと高い音が漏れている唇。

 やめるな、と言いそうになった。

 こんな俺でも、夏彦の意志をねじ曲げてしまえる気がした。

「ここで決めていいのか?」

 俺は問うた。

「わからん。はっきりと言葉にしたのは、健太郎の前が初めてだ。親にはまだわからないとしか言ってなかったからな。でも、健太郎がここにいなかったら、決められなかったかもしれない」

「なんでだよ」

 わからなかった。夏彦がどうして俺の前で言ったのかも、今決めなくちゃいけなかったのかも。もっと余裕があれば、夏彦が考えていることとは反対に、もしかしたら時間が解決してくれるかもしれないじゃないか。

 大事なことなんだろ。今決めなくたって――、

「お前も多分、同じだからだよ。どうしたらいいのかわからない、ままならない顔をしてた。だから、考えられるだけ考えて、それでも甲乙つけがたかったら、今するべき方にしようと、駅前にいたお前の顔を思い出して決めたんだ」

 ああ、まただ。

 俺は目を細めた。

 夏彦の姿が、選択をした時に一瞬だけ光った。これが二人目。

「『いつか』は決めなくちゃいけなかったんだ。実家で働くこと、家業を継ぐこと。コロナでそのタイミングが、不透明な『いつか』じゃなくて、明確な『今』に変わったただけ。準備も大学に入る前からしてきた」

 一人目は一番大切な人が見せた、笑顔だった。

 修正が利かないかもしれない、一生を決めるかもしれない分岐点で、一度しかない人生の、一番重要な決断をすること。

 何かを諦める代わりに、何かを選び取る。今までずっと目標だった職業を諦める代わりに、違う業界の就職活動をする。大学を中退する代わりに、今、自分を育ててきた親の仕事を継ぐ準備をする。

 何回もあればよかったのに。そうすれば、全てを選べたかもしれない。失敗や成功を検証することもできたはずだ。

 だから――、

 俺は爪でフリスクを弾いた。

「そうか。頑張れよ」

 夏彦を心の底から尊敬する。

 けれど、夏彦が選んだものは、正しいとは限らない。

 一瞬だけの光は、その輝きを失った後、差した方向へ自分を動かしていかなければいけない。輝かせ続けるためには、長い年月をかけて自分に証明しなければいけない。これが、自分の選択だと。自分の選択は間違っていなかったのだと。選択を下した自分が、何を得ようとして、同時に何を捨てたのか。天秤にかけた時、どちらが重いかは関係ない。俺たちは一生選択していく。昔の選択が今の礎になり、今の選択が、一年後には社会人にする。それが一生の選択になることだってあるのだ。

 一瞬の輝きを、その一瞬だけで終わらせるのか、光らせ続けるのか。ぐっと前にかがみ、勝負手を考える棋士のような、その姿勢を誠実というのではないか。

 星のように。

 間違ったときは、また考える。とりかえしがつかなくなったとしても、その姿勢だけはずっと残り続けるのだから。

 俺は今までその姿勢をとれないまま、一瞬の選択をしたまま、ずっと今まで就活をしてきたんじゃないのか。だから拓実が言ったとおり、落ち続けてきたのではないのか。

「だから、今日でしばらく顔を見なくなる奴の心配より、毎日顔を突き合わせる奴と、きちんと話して仲直りしておいた方がいいよ。でも、今日健太郎と話せてよかったわ。そういう意味では、喧嘩してくれたことに感謝するけど」

「そうだな」

「ごちそうさま」と頭を下げ、俺は立ち上がる。もっと話したいこともあったが、今は早く帰りたいと思った。また会いたくなったら、俺が長野まで行ってやればいい。

寮に戻る前に、マスクを買ったコンビニで何か買って帰ろう。ドアノブへ手をかける前に、夏彦に告げた。

「また遊びに行くよ。就活が終わったら、今度はみんなを連れて」

「おう。お客様として、歓迎してやるよ」

 教室で軽口を交わし合うように、俺たちは別れを告げた。

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