誠実 二〇二〇年 十月五日 ①

    二〇二〇年十月五日

    東京都感染者数六十五人


 昼飯を買いに行こうと、寮の階段を下りながら重くなった肩を回す。秋学期が始まれば現実が何か変わる気もしたが、これといった変化もなく、課題を淡々とこなす日が続いていた。慣れてしまえば課題は案外楽で、むしろZoomを使った対面の方が心身を削いでいった。

 さっきの講義はまさにそうだった。講義の内容をもとにグループで意見をまとめ、講義終了後、五百文字程度にまとめて提出したものが評価対象になった。春学期も体験したが、ほぼ初対面の相手と顔を隠して声だけのやり取りは、精神的なリソースががりがりと削がれるし、雰囲気を繋ぐ難易度が尋常でないほど高い。しかも、こういう時に限って題材が小難しいから、ミュートにしてなければ「はあ⁉ふざけんなよ!」という声が漏れ、単位を落としていただろう。

 いや、いっそそれでもよかったのでは、と今になっては思う。ブレイクアウトルームで別れた話し合いで、声を出したのは四人中二人でうち一人が俺だった。一人は参加する気がないのかずっとミュートを解除しなかったし、もう一人はミュートを外していたが一言も喋らずに終わった。結局、俺ともう一人のたどたどしい声をした女の子でどうにか形にはしようとまとめたが、お通夜よりも重っ苦しい雰囲気でいつもの倍疲れた。グループワーク終了後、のほほんとした口調で話す講師を見て、可能ならば大学生だった頃の彼を画面の前まで引っ張ってきて、さっきの話し合いに参加させたかった。

 にゃー、と玄関の方から可愛らしい声が聞こえてきた。廊下に出ると黒猫が玄関に立ち尽くして、俺に『開けろ』といった目で訴えている。

「だーめだよー。ボスは前に轢かれてるんだから」

 俺はボスの脇を抱えて自分の胸に黒猫を抱き寄せる。真子と知り合うきっかけとなったあの事故の被害者『ボス』は、「目つきがどことなく悪いから」と引き取った寮長が名付けた。事故に遭ったボスは真子の迅速な判断で病院に連れて行かれ、数週間後には歩けるようになった。だが、左後ろ足の半分が潰れてしまった影響で、ボスは実質三本の足で移動している。そのせいか、前はモデルのようにほっそりとしていた体がぶくぶくと成長し、名前の貫禄にますます近づいていった。元々人を嫌わない性格だったためか、たまに寮長がボスを連れてくると、こうして誰かに触れられている。

「お前は誰かと遊んでるだけだからいいよなー」

 ボスを触っていると、たまに真子の顔が浮かぶ。ずっと後に聞いたことがあった。

――どうしてあの時、すぐに動けたの?

 真子は特別動物に詳しいわけじゃない。何なら、一度ボスにチョコレートをあげようとして、止められたくらいだ。だから、俺はすごいなと思いながら尋ねた。

――簡単だよ。ずっと後悔してるから。

 真子は後悔を微塵も感じさせないような口調で言ったから逆に鉛が、ずし、と足元に乗っかったように重かった。

――まあ、それでボスも助かってるんだから、いいことじゃん。

 だからって、やっぱり俺の中で何かが変わるわけではないけど、真子がずっと嫌だと何かを責め続けたものは、俺の中にも燻っているような気がした。

「おー健太郎!ちょうどいいとこにいた!」

 大樹が俺を見つけて安堵したように笑う。『ちょうどいいとこに』と大樹が使うとき、大概いいことではない。俺はボスを盾にして逃げようかと思ったが、それはあまりにも可哀想すぎて諦めた。

「どしたの?」

「グルディス手伝って!」

 ほらな。



 ぐるぐる同じところを回っている円は、「ロード中だから切らないで」と言っているようにも見える。それが何秒も続くとどうしても、「早くしろ、馬鹿がよ」と誰に向かってでもなく思ってしまう。

 一度暗くなった後、綺麗に区分された画面が映し出され、見慣れた顔が映る。

「おー、みんな聞こえる?聞こえたら返事してほしいんだけど」

 左上で反応を求めるポーズをとっているのは雅也さんだ。小学校に同じようなポーズをとっていた先生は、とてもうざかった。

「聞こえてますよー。お久しぶりです」

 その隣の枠では、拓実が元気そうに手を振っている。

「ほら、健太郎もここにいますし」

 拓実が画面から消えると、後ろの方には俺の背中が映る。パソコンの画面に向かって睨むと、拓実は余計に面白がっていた。残り二つの画面から大樹と元基が、それぞれ「おっけーでーす」、「大丈夫です」と反応する。

「そっかそっか。バイト先に来てくれたことあったから、俺の顔は見たことあるのか」

 いつもより前髪が乱れている雅也さんは新鮮だった。

「じゃあ、改めて自己紹介するわ。健太郎のゼミの先輩で江住雅也って言います。今日はグループディスカッションの試験管役やらしてもらいます。よろしく!」

 この人が持つ、その場の雰囲気を円滑に何の問題もなく進められる能力は相変わらずだ。

 大樹から「グルディス手伝って!」と言われた時、真っ先に頭に浮かんだのは雅也さんの顔だった。提示された題材についてグループで話し合いまとめて、最後に代表一名が発表する特性上、グループディスカッションは一人での練習が難しい。大樹も一体どうしたらいいのかわからなくて、とにかく声をかけたのだろう。どうしたらいいのかわからない者同士、あれこれ言ってても始まらないと早々に気づいた結果、雅也さんに連絡すると、『じゃあ練習しよっか』とすぐさま返信が来た。『とりあえず四人くらい集めて』という命令が追加で来たので、俺と大樹は同室の拓実と元基をパソコンの前に座らせて、『集めました!』と送った。

「僕も近いうちにグルディスあったんで、ちょうどよかったです」

 皺を隆起させて笑う拓実は、早くも雅也さんとの雰囲気を掴んでいた。

「健太郎に言われてZoom開くまで色々考えたんだけど」

 雅也さんはこちらを動揺させてしまうようなことを言う前、こうしてクッションを敷く。たしか、バイト先の伸行さんも、同じような前振りを挟むことが多い。

「今回はお互い知り合いの状態じゃなくて、初対面の体でやってもらう」

 椅子が一度ギシッと鳴る。尻に大きく力が入った。

「大樹、驚いてるのが顔に出てるぞ」

 元基が面白い者を見つけて笑った。俺のことかと思ったが、それ以上に素直な奴がいた。

「だってさ、緊張するじゃん」

「そのための練習だから、失敗しても大丈夫だって」

 画面の向こう側にいる大樹と自分に、保護シートを貼り付けた。

「健太郎たち見てる内に段々思い出してきたんだけど、グルディスで一番面倒だったのが、題材の難しさよりも、オンラインで距離感が上手く掴めなくて、その後の話し合いに影響して落ちるパターンなんだよな」

 雅也さんが点々と見える顎髭に手を当てながら、懐かしむように呟く。けれど、その口元には、苦そうな思い出が見て取れた。

「物理的距離が近かった時はさ、話しやすい雰囲気を作るのがそれほど難しくなかったんだよ」

 各々思い当たる節あるようで、大なり小なり相槌を打った。近ければそれだけ直に空気に接することになるから、嫌でも話さなくちゃという気にさせてしまう。自分を晒すことが評価の前提条件である就活の場合、特に顕著だと思う。

「だけどさ、オンラインになってからは、初めてです~、自己紹介します~、五分アイスブレイクの時間貰います~、だけじゃ足らないんだよね。顔が見えてても、どうしても受け取れる空気とか伝えようとするものに対して、厚いフィルターがかかるんだ」

 俺を含め、五人全員が臭いものを前にしたように顔を顰めた。今日の講義でも似たようなことがあったから、俺の眉間の皺が一番深かった気がする。

「まあ、そういうのも含めて、面接官は見てる節あるからね。『今の時代、オンラインで商談をする顧客も対応できる、柔軟なコミュニケーション能力が求められていますよ~』みたいな?」

「ははっ、言いそう」

 雅也さんの言い方に、俺たちは少し笑ってしまった。

「前振りはここまでにして、そろそろ始めますか」

 雅也さんの一言で、四人は一斉に口を閉じた。

「さっき言ったとおり、四人は名前も顔も今ここで知りました、っていう設定で、五分間のアイスブレイクを設けます。その間に、なんでもいいから次の二十分間のグルディスに向けて、話しやすい雰囲気を作ってください。俺は画面オフでミュートにしてるけど、みんなのことはちゃんと見てるから、そのつもりで」

「わかりました」

 面接官の顔になった雅也さんに頷く。「じゃあ、はじめ」と言って雅也さんの画面が暗くなる。突然テレビが消された時のように、耳朶には前の音の余韻が残っていた。

「とりあえず、自己紹介しようか」

 俺は三人に確認する。前後の文脈が存在しない場合、何かしらのとっかかりがないと雰囲気を作ることは難しい。いくらなんでも、ゼロからは無理だ。まずは俺から、と言おうと思ったのだが、先に「僕からでいい?」と拓実が手を上げた。

「ああ、全然いいよ」

「三年の渡部拓実です。サークルは入ってないんですが、メイクが好きで色んなところの手伝いをしてます。十月の下旬に下北沢で『ちいさな仮面』っていう劇団が公演をするのですが、そこのメイクを担当します。最近は外に出れないから、サブスクで映画ばっか見てて、……ほら、ニュースでも紹介されているアイドルプロジェクトがあって、それにめっちゃはまってます。よろしくお願いします!」

「よろしくー」と三人の声が一つのスピーカーに混じると、たちまち雑音に変わる。   

 拓実が最初にやると言ったのは、おそらくフォーマットを作りにいったのだろう。サークル、趣味あたりは好みがわかりやすいし、部屋にいる時間が増えてはまったことも後々話を広げやすい。それに何を話せばいいのか規定しておけば、後から話す者は大分楽になる。

「じゃあ、次は俺いくよ」

 話していくうちに、ペリペリと皮を破る音が頭の中でする。クラス替えをした時も、人の視線を浴びながら、自分の断面図の一部を相手に見せていた。大樹や元基が自己紹介を終えてあと三分残っていたが、オンラインのせいか雅也さんの『設定』は意外と残っている。お互いの表情はまだ固い。

「えっ、こん中でアイドルの『シキサイプロジェクト』見てる人おらんの?」

 大樹や元基は「名前だけなら……」「俺は観たことないな」と答える。「まじか!」と拓実が後ろで大袈裟に仰け反るが、画面では意外とそうは見えなかった。薄々感じてはいたが、向こうとこちらでは受け取る情報に差がある。

「途中からだけど見てたよ」と俺は手を上げた。同室の拓実が「観て観て観て!」と騒ぐから仕方なく見たら思いの外はまってしまった。真子にこれを話したら、サンタからプレゼントを貰った子供を見守る親の目で「よかったね」と言われた。

「お!いいね!誰が好き?俺はやっぱり名プロデューサーだな。あの人が毎回着てくるパーカーが個性ありすぎて、必ずチェックしたくなるわ」

「それグループ関係ねえじゃん」

「まあまあ。二人はサブスクかYouTubeで最近面白いのあった?」

 拓実が話し出すと、段々空気がくだけていく。拓実は自分の役割をわかっている気がした。ああ、と大樹が返す。

「みんな知ってそうなのだと、『終末の拳』のアニメ観始めたよ」

「それなら俺も観たわ。ゾンビが滅茶苦茶に強くてびっくりした」

「ええやん。僕もみんな観てるから、とりあえず観てみようってなったわ!ゾンビを途中からばったばった殴り倒していく主人公が、僕は怖かったけどな」

「俺の同室の奴も最初、『これホラー映画やろ。嫌や、絶対観いひん』って頑なに観ようとしなかったけど、後でとどはまりしてたからな」

「誰のことやろなー?」

 パソコンに向かっている俺の方を向くので、「さあー?」と踏ん反り返した。

「あ、でもな。去年の学祭で僕、メイクのヘルプに入ったんだけど。びっくりしたのが、なんと、学祭に終末の拳で主人公を担当してる声優さんがおったんよ。みんなで声枯れるほど騒いだわ」

「えー!そんなことあるんだ!」

「休みとって来たってこと?」

「いいや。仕事で学祭のイベントに出てたらしいんやけど、ちょっと見たかったわ~」

「それな~」

 俺の声が消える前に、アラームが聞こえた。

「はい。五分経ちました」

 画面から映し出された雅也さんは、面白いものを見るように笑っていた。

「みんな楽しそうだったな。『シキサイプロジェクト』と『終末の拳』はどっちも観てないから、これ終わったら視てみるよ」

 ぜひ!とお願いするようにつむじを見せる拓実に、深いえくぼを見せる。

「どう?五分喋るだけでも大分雰囲気変わったでしょ。実際のグルディスでもこれくらいくだけた感じだと、話し合いも活発になって、いいアイデアが出るんじゃないかな?」

 頷いたり、雅也さんの言葉を噛みしめたりして俺たちは反応する。今なら多少難しい題材がきても、なんとかなる気がする。実際は無理かもしれないけど。

「じゃあ、本番やろうか」

 雅也さんが一つ低い声を出すと、場がピリリと引き締まる。

「みんなグルディスについて、全く知らないわけじゃないよね?」

 一応、流れだけは、と俺たちは歯切れの悪い言葉を並べる。

「そんな硬くならなくても大丈夫だって。ほら、スマイルスマイル。みんな知っているみたいだから、俺からの説明は省くね。テーマは『社会人の幸せとは』にします。時間は二十分。これを四人で話し合ってまとめてください。二十分経過後、代表者一名が一分くらいで発表してもらうから、時間内に誰が発表するのか決めといてね~」

 これは水を飲む暇がない気がする。俺は雅也さんが口を動かす前に、ペットボトルの中身を飲み干した。

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