誠実 二〇一九年 十二月十三日

    二〇一九年十二月十三日


 講義以外で長ったらしい話を聞きたくなくても、大学に在籍する以上参加しなくてはいけないガイダンスがある。入学ガイダンスや、ゼミに入るためのガイダンスがこれに当てはまり、そういう時には、二フロアをくり抜いた造りの第二校舎が使われる。

 一番はじめのガイダンスはよく覚えている。時間にうるさい元基が急かすから、十分前に大教室に入っても人が全然いないと思っていたけど、中には俺たちと同じ右も左もわからない新入生が大勢いた。男も女も関係なくみな一人が不安で、誰かが一緒にいることで自分の存在を証明できる気がしたのは、前の学校から変わらない。後ろから見下ろすと、誰がとりあえずの安息を手にし、誰が不安を抱え続けているのか一目でわかる。そのままぼーっと見ていると、前にいる男と目が合って妙にばつが悪くなったものだ。

 俺は第一校舎の階段を下り、地下一階の教室に入る。ここは奥行きが広く、講義があると前か後ろで人が固まっていて、プリントが回るのに時間がかかる。入口側の誰も座っていない三人用の席に座った。トイレが近いからとか、早く帰りたいからとかそんな理由ではなく、扉から見やすいからだ。とん、と肩を叩かれそちらを見上げると、寒そうに手を擦り合わせる真子が立っていた。

「健太郎ここ寒くない?奥行こうよ」

「あそこ空いてるから」と窓際の席を指差し、通れるように一歩下がると廊下から冷たい風が当たる。言われるがままにリュックを持って、別の席に座り直した。

「そういえば元基くんたちは、一緒じゃないの?」

 真子はブラウンのコートを脱いでバッグの上に置く。

「あいつらは強制のガイダンスじゃなきゃ来ないよ」

 一人でいることが嫌いで寮を選んだ俺は、大学に入ってから誰かと過ごすことが増えた。せっかく自由が手に入るのに、と裕太はもったいなさそうに零していたが、俺は軽そうに思える自由がかえって嫌だった。

「うん。だから、健太郎も参加しないと思ってた」

「真面目な奴が言うと、説得力あるな」

 ふっ、と教室の明りが消えた。前方では先ほどからスーツを着た男性がノートパソコンを操作している。おそらく、彼らは大学の事務員ではない。

「定刻になりましたので、始めさせて頂きます。みなさんこんにちは。私、株式会社ワークアップの高木と申します。本日は二年生向けの就職ガイダンスということで、皆さんの前でお話しさせて頂きます」

 彼らは大学から就活アドバイザーとして呼ばれ、俺たちはその話を聞くために来た。

 二年生向けの就職ガイダンスは強制じゃない。だから、拓実たちはここには来ないし、多分あることすら知らない。俺も拓実たちと同じで、お昼を食べている頃にはすっかり忘れている。普段なら今頃拓実たちと学食の席を探しているか、ラーメンでも食べに行っているだろう。

 と思っていると、入り口から明りが漏れ、ゆっくりと動く人物が見えると、俺はびっくりして机を蹴りそうに鳴った。

 大樹だ。俺には気づいていない大樹が、邪魔にならないように足音を消しながら前のほうに一人座る。二限の講義が終わって別れたところに大樹はいたから、まさか来るとは思ってもみなかった。

「三年生の四月になると、また全体に向けて改めてお話しするのですが、本日のガイダンスはその前準備として、先輩方の就職率などを参考にしながら皆様が就活に対して、どのように準備をすればよいかを話していきます」

 どうして一人でこっそり?と気になったが、高木の話に大樹は真っ直ぐ顔を向けていて、俺はそれ以上考えるのをやめた。高木の補佐をするガタイのいい男が、資料を配っていく。資料の左下や右下には『就活スケジュール』『自己成長』『インターンシップガイド』と太文字で書かれている。プロジェクターが切り替わると、そこにもでかでかと同じ文字が映し出される。「次の資料をご覧ください」という言葉とともにスライドが再び切り替わると、長い折れ線グラフが映し出された。

「皆様方のお父様やお母様などが学生の頃は、世の中がバブル景気で求人倍率も二・八倍を超えていました。このときは正しく売り手市場ですね」

 俺がまだ生まれていない頃、世の中はとても景気がよかった時期があることは歴史の教科書でも習った。親父がちょうど就活をするときは、バブル景気が頂点に膨れ上がっていたらしい。だが、段々グラフを追っていくと、線が急に下落していく。

「しかし、バブルが弾けると、企業も採用人数を絞るようになり、ひどいときには一倍を切る就職難でした。このとき優秀な学生も就職に苦労する買い手市場でした」

 売り手、買い手、就職難。

 膝下の毛がぴりぴりしてくる。ズボン越しに軽くさすると、真子がプリントを俺の方に動かした。端で丸に囲まれた文字には『寒い?』と書かれていて、俺は苦笑しながら小さく首を振った。 

「徐々に右肩上がりになった後、世界同時不況で再び下落しますが、安心してください。グラフの通り、最新の二十年卒では売り手市場になっています」

 一・八倍と書かれた数字は、真子がつけた丸で点が消され、十八倍と見間違えそうになった。

「よかったね。私たちの代では楽そうで」

「何もなければな」

 神経質だね、と真子は呟きながら顔を前に向ける。隣に座っていると常々思うのだが、彼女の横顔は俺の知っている中で一番綺麗だ。おそらく鼻と唇の曲線、それから顎のラインがドストライクだからだろう。初めて彼女を見たときも、可愛い子だなと思ったが、今の方が断然いい。

「ですが、視野を広げないと痛い目をみることがあります」

再びスライドが切り替わる。有名企業のロゴが左側に四つと、まったく知らない企業のロゴが右側に四つ。その下には大学の入試倍率が書いてあり、むらむらしていた気持ちが一瞬で締まった。

「これまでも皆様は大学受験を合格してきましたが、就職活動はその何倍もの競争率の中で内定を取らなければいけません。左側は皆さんも知っているような大手食品会社、鉄道会社、飲料会社です。どれも皆さんの生活に身近なBtoC企業ですが、本選考の倍率は――」

 企業ロゴの左から数字がぱっと浮かぶ。どれも三桁あった。

「百倍以上になります。一方右側の企業はと言いますと、一般的な知名度は高くありませんが、どれも国内シェアナンバーワンの優良企業です。これらの企業の倍率は比較的落ち着いています」

 一方、右側の企業の数字は十倍ちょっとで、中には一桁代もあった。

「なので、みなさんは自己理解を深めながら、自分の興味のある企業研究と様々な企業を見て、選考に臨みましょう」

 一つ話の終わりを予感して背中を軽く反らすと、空腹感も一緒になって縦に伸びた。

「って言っても、私たちが入りたいと思ってる企業なんて、みんなが知ってる企業に決まってるんだから、そりゃ人集まるよね」

 それはそうだ。小さい頃から名前を知っていれば、会社の説明会でも当然人は集まりやすいし、どんな仕事をしているか知っているから、働く姿も想像しやすい。

「滑り止め選んどけってことだろ」

「なんか、受験っぽいね?」

「どうだろ?」

 言葉一つ切り抜けば真子の言う通りかもしれないが、俺の就活における選考のイメージは大学の殺伐とした教室で行われた試験とは別物だった。テストは出るような問題が決まっていて、明確な答えがあり、点を取るだけで合格できるが、就活は点数ではなく自分を丸裸にして検分されるような得体の知れない怖さがあった。

――あと一分です。もう一度名前と受験番号を確認してください。

 嫌なものが蘇って、内心舌打ちする。

 模試、センター試験、私大入試、二次試験。来年度からは、センター試験は共通テストに変わる。

「ちなみに、今年皆様の四年生は五月の第一週、ゴールデンウィークあたりで平均一社の内定をもらっています。二十二年卒の皆様はもっと早まると思いますが、選考時期の参考にしてください」

 高木の声が耳を突き抜け、教室の白い壁に染み込んでいく。さっき真子に首を傾げた手前複雑ではあるが、高木が高校の学年主任と重なってしまったことに内心呆れていた。

 夏インターン、冬インターン、本選考、内々定。

 父の頃よりも就職活動の期間は、明らかに伸びた。

「あーあ、やだやだ。別に内定の数で競ってるわけじゃないのに。健太郎……すごい顔してるよ」

「真子もな」

 大学からすれば企業は買い手で、高校からすれば大学が買い手となる。それぞれの売り手に対して優秀な数字を出せるのは、名前を売るための一つの要因ではある。資料には太い縦線が境界のように引かれており、指でたどると五月第一週のところでとまる。俺は目の前にある消しゴムを握ろうとして、やめた。

 高木はベンチャーや外資は選考時期が早いから夏インターンの前から注意しておくようにと説明しているが、お昼前の頭の中は五月第一周、平均一社、内定と言った文字でどろどろに溶けそうだった。

 不安にさせるのは、数字やデータだけではない。これは当たって欲しくない予感だが、この場にいるやつといないやつを同数集めたとき、明らかに後者のやつらの方が就活はうまくいく気がする。なぜなら、早々に不安を抱えてここに来ている行動自体が、不安だからというたしかな事実だからだ。それに、本当に動いている奴は、もうどこかの長期インターンシップに参加していたりする。

「まあ、真子は留学が終わってから考えればいいよ。こんなガイダンスは保険の保険だろ?」

 まず心配しなければいけないのは我が身だ。柔らかいところを突かれると、暖房が効いていても体が動かなくなる。あの縦線で分けた人たちのどちらに俺はいるのか。たしかではないが、俺は高木が説明をしている資料に目を移すことができなかった。

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