誠実 二〇二〇年 八月二十二日 ②

 墓参りに行くぞ、という親父の一言で、俺は出たくもない外へと駆り出された。実家から歩いて十分の共同墓地周辺は、田んぼと住宅地に囲まれており五月の田植えの時期になると水面に泉ヶ岳がひっそりと映る。前に来たときは、剥き出しの土が霜に覆われていたのに、今は風に揺られて稲穂が擦れ合う音が耳の奥にじっと残る。

 五時を過ぎてもまだ高い太陽とミンミンゼミの鳴き声が、じうじうと肌を焼く。親父の後ろに並んで歩くと、前よりも背中が小さくなったことに気づく。ポロシャツに包まれた肩周りも細くて、幹のような柔らかさ、大きさは萎んでいた。

 親父は人を褒めるのが得意だった。「健太郎今日はご飯全部食べてたな」「裕太みんなの箸持ってきてくれたのか」「ミーコの散歩、母さんが行ってきてくれたのか。ありがとな」

 気持ちを言葉に出す行為を躊躇わない親父が、地銀の新卒採用になったのは、俺が小学二年生の時だった。お父さんと呼んでいたあの頃の俺は、親父の職種を天職だと思った。

 新卒採用課に配属されてからは、学生時代にラグビーで体を鍛えていた経験を活かし、正面から相手とぶつかっていったという。相手のトライを防ぐには、正面からタックルしないと止めることはできない。俺がラグビーを始めた時に、教えてくれたたった一つの教訓。親父が人を採用する指針のルーツでもあり、正面から相手にぶつかるという考え方は、ここから来ていたらしい。

 例年と変わらない墓参りをして一息つく。来た時にはてかてかと照らされていた道路が光を失っていた。

 これで帰ってきた目的は果たした。あとはクーラーの効いたリビングでどれだけごろごろしていようが、文句が聞こえてくることはない。

 時期をずらしてでも帰ってこいと言ったのは、お袋ではなく親父だった。お盆と正月には実家に顔を出すというのが、俺が東京の大学に行く時の約束事だった。

「どうだ。学校の方は?」

 用具を片づけていると親父が声をかけてきた。やっぱり、細くしゃがれている。

「どうって言われてもな……。講義もゼミもオンラインだし、サークルは入ってないから関係ないけど……。遊びにも行けないから寮とバイトの知り合い以外とは、ほとんど会わないよ」

 春学期が延びる最初の連絡を受けたのは、二月の後半だった。親父は「春休みが長くなってよかったな」と言っていたが、それから一カ月経たずして、二回目の延長とオンライン講義の連絡を報せた時は、口が酷く重たかった。

「誰もこうなるとは予想できなかったからな」

「え?オンラインでやるの?講義を?ぎりぎりまで寝てられるやん!」と拓実はげらげら笑っていたが、学校が始まってからはとにかく課題に忙殺された。

 テストが行えない代わりに、大半の講義は毎回の講義課題が成績評価となったが、書いたレポートの本数は対面授業を受けていた頃の四倍はあった。オンデマンド講義を受けて課題を提出するタイプは、リアルタイムでZoomの講義を受けるよりかは楽でも、以前の方がずっと精神的に安定していた。大樹の知り合いの医学生なんかは、実習の代わりに一日三万字のレポートで睡眠時間を削られるのだから笑えない。俺の大学はさすがにそこまで酷くはないが、レポートの書き方を知らない一年生がもろに影響を受けていそうだった。

 そういえば、親父のところもオンラインで説明会をしているのだろうか。俺が受けたところは全部そうだった。それとも感染者が東京よりも深刻でない仙台は、オフラインの説明会もあるのか。

「親父の仕事も大変そうじゃん」

 大学でもそうだが、講義を受ける側よりやる側が労力を消費する。いつもは、学生が寝てようが携帯をいじっていようが自分の喋りたいことを喋っている教員が(俺にはそう見えるだけだ)、資料を準備して動画を撮った後大学のサーバーにアップロード、なにか異変があれば撮り直して再びアップロードするのは大変だ。こんな面倒くさいのは今まで経験したことがないと、俺がいるゼミの松山教授も零していた。

 大学の授業ならいざ知らず、社員の業務、就活生への説明会、面接、インターンシップのプログラムを全てオンラインへ移行する業務は、考えただけで気が重い。

「この歳になっても、学ぶことが多いと感じさせられた半年だったぞ。うちでも一カ月は完全にテレワークだったからな。いい機会だと思って、こないだITパスポートを取った」

「まじか」

 銀行は早期退職が勧められており、本人も残り一桁となった定年を待たずして退職するかもしれないのに、やる気満々じゃないか。

 まだまだ現役だ、と言いながら親父が正面を向く。黒髪に混じっていた白髪が薄く輝く。皺やしみも随分増えた。きっとうまくいかないことも多いのだろう。俺は寝てしまえば疲れなんて残らないけれど、親父は違う。

 でも、人を褒める時の真っ直ぐな瞳はまだ衰えていなかった。

「就活始めたんだけどさ、親父は面接する時、どういう学生を通してるの?」

 俺は面接官の親父がどんな学生と話し、通過させるのか知りたかった。それは先日の松野の時だったり、他の面接官の前で話す時の役に立つかもしれないと思ったからだ。

「誠実な学生、だな」

 即答だった。

「誠実……」

 俺はそう言ってから、自分の足元を見つめた。

「銀行ってさ、今かなり業務が効率化されてて、人の手が必要な業務、必要じゃない業務がはっきりしているんだ」

「だからメガバンクとかは早期離職を勧めてるんだけど」と汗を拭いながら続ける。

「でも、人が介入する余地のある業務っていうのは、論理的思考能力も勿論必要なんだけど、人と人とのやり取りだから、人柄だったりとか、最近ではコミュ力って言うんだっけ?まあ、そのへんはやっぱり重視するし、受ける学生がどれだけ誠実であるかを一番見てる」

 ごー、と光を閉じ込める厚い雲が動き、徐々に地面を薄暗く塗り替えていく。サンダルからはみ出している指が、山を描いたまま固まった。

「誠実な学生は、どこ置いてもちゃんと働いてくれる。反対に大丈夫かな?って首傾げながら通した学生は、やっぱりすぐやめる」

 いくつか受けた説明会の中で、小さな窓の中にいる人事の口から似た言葉を聞かされた。

 求めている人物像。アグレッシブな学生。何事にも素直な学生。挑戦を続ける学生。一緒に働きたい学生。明るい色であしらわれた、都合次第でどうとでも解釈できそうな横文字や長々しい単語の中で、特に多かったのが『誠実』という二文字だった。

「誠実って……面接で嘘をつかないとか、相手の目を見て話すとか?」

「そういうのも入るな」

「親父は本当にその学生が誠実かどうか、見抜ける自信があるの?」

 顎に手を当てた親父が急に薄っぺらく見えた。説明会の時も同じことを思ったんだった。

 いくら口で言っても、俺は画面の向こう側にいる人たちに『じゃあ、あなた達が学生の頃は、どうだったんですか?』とか、『本当に人事の人は間違えないのか』とずっと考えていた。

「絶対はない」

 考えて出した言葉を、俺は目をいっぱい見開いて受け止めようとする。今まで俺が通過できなかったのは完全に自分の落ち度だった。面接官が悪かったわけじゃない。

「だから、真剣にやらなくちゃいけないんだ」

 それでも、心の隅に『絶対はない』という言葉を置いておきたかったのかもしれない。夏の空を映す親父の眼だけが、一番信じられるものだった。

「就活頑張れよ」

 小さく頷いた。

 住宅街へ続く道を歩きながら、帰ったらいくつか再びエントリーしようと決めた。 

――誠実な学生、だな。

 誠実、誠実。俺はその言葉の輪郭を捉えていない。一体、どういう行動が面接官に対して誠実に映るのか。面接で嘘をつかないことも相手の目を見て話すことも親父は肯定したが、同時に的の真ん中を射ない反応だった。

 じゃあ誠実ってなんだ?

 下唇を強く噛むと血の味がして、わからないもどかしさを痛みと熱さが掻き消していく。

 だったら――と発想を変える。俺が知る中で一番近い奴を見つければいい。知り合いの中で一番誠実な奴は、すぐに思い浮かぶ。

 真子と初めて会った時も、口の中で血の味がした。

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