第4話 運転免許持ってる?

「ああ、はいはい。ただいま」

 熱中症になったら大変だと、辰馬はもう世話係の如く素早く運転席に回り込んだ。そしてキーを差し込み、エアコンを掛ける。しかしすぐには涼しくならないので、窓を開けることも忘れなかった。

「ふう。車は何かと不便だよな」

「そうですか」

 毎日のように運転している辰馬にすれば、車がない方が不便だと思う。電車がなければ移動できないし、その電車は何が原因で止まるか解らない。バスだって同じだ。

「不便だよ。まあ、俺の主観だけどな。自動運転が実現すれば、車に乗ることも多くなるかもしれない。しかし、今は持つことのリスクばかりが気になって、自ら運転しようって気持ちにならないんだよね。金もないし」

「ううん。それを言われると、反論し難いんですけど」

 聖明の考え方も一理あると思うだけに、辰馬は思わず考え込んでしまった。しかし、車が好きだという気持ちが先にあり、そして自分で運転したいと思っていたのだから、そういうことは考えないようにしているのだ。

「私は維持費を考えるとちょっとって思います。お金が掛かるって思って、免許を取るのを止めましたもん。保険にガソリン代に車検に駐車場代に自動車税。掛かりすぎ」

 未来の意見はさらに現実的だった。

 たしかにと、これはまだ院生の辰馬でも納得できる。そもそも、大学の学費は高く、そしてバイトする暇がないのが理系だ。常にお金がない。そんな中で、車を持つというのは結構大変なのだ。辰馬は現在実家通いで、車も父親と折半して買ったものだ。

「将来的には、俺も運転しなくなるんでしょうかねえ」

「さあ。それは個人の問題じゃないですか。研究者の生活リズムはまちまちだから、電車のない時間に大学に来るのには便利だと思ってますし」

 未来がそう言ったところで、辰馬は車をスタートさせた。ハイブリット車なので、エンジン音はとても静かだ。車内も程よく冷えたので、窓を閉める。

「ううん。それにしても、なかなか理解できないものだな」

 そうすると、聖明が何かぶつぶつと言っているのが聞こえてきた。どうやらずっと読んでいる本のことらしい。

「先生。朝から何を読んでいるんですか?」

「何って。栗橋亜土の本だよ。情報工学といっても何か解らないからな。まずは本人が一般読者向けに書いた本を読むのが一番だろうと思ったんだが、これがなかなか難しい」

 聖明がこれだよと見せてくれるが、ちらっとバックミラーで見ただけでは解らなかった。

「たしか、人工知能ですよね」

「それは最近のテーマのようだね。昔は違うんだ。数理解析に関わるものだったんだよ。つまり、複雑系の計算をパソコンで行うみたいな。そういうやつだね。だから、出身はそもそも数学みたいだな。そこから情報に流れて行ったということらしい。まあ、栗橋さんが亡くなったのが一年前で七十三だったわけだから、研究を始めた当初はコンピュータそのものが珍しく、出来ることが少なかったんだろうな。だから徐々に人工知能へとシフトしたようだな」

 同じような分野なんだけど、どうにも理解しにくいんだよと、そこで聖明は肩を竦めた。数理物理をやっている聖明からすれば、数理解析は親戚のような分野だというのにと、困惑の表情である。

「当時から、コンピュータを使っての解析を念頭に置かれていたとか、ですか」

 そこに未来が興味を持って質問する。横に座っているので本を覗き込んだが、数式ばかりで一般向けとは思えなかった。しかし聖明が理解し難いとなると、一般の人だけでなく、研究者のほとんどが理解できない内容ではないか。

「そうだろうね。純粋数学に近いところから出発しているから、余計にそう感じるのかもしれない」

 色々な要素が絡み合っているんだと、聖明はそこで本を閉じた。どうやらすぐに理解するのは難しいと、車の中で読むのを諦めたらしい。

「研究スタイルも一風変わった人だったんでしょうか」

「そうかもね。ああ。栗橋君を乗せるんだったな。じゃあ、彼に聞けば解るだろうか」

 こういう自分に関わる情報は聞き逃さない聖明だ。そうだよなと、辰馬の肩を突っついて確認する。

「ええ。もうすぐ合流出来ます。あいつの家がT県方向なので、大学まで来てもらうより拾った方が早いと思っただけですから」

 高速に乗るまでに拾いますよという辰馬の言葉どおり、十分後には栗橋憲太が車の助手席に納まっていた。憲太は病弱な印象を抱かせる人物だった。実際呼吸器が弱く、運動は苦手だという。しかしそれを除けば、なかなかの好青年であった。

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