第13話 螺旋と待ち人


 夢の中にいるように虚ろで、不確かで歪んだ思考が酷く心地良い。

 アステリアスは廊下の隅でしゃがみ込み、いつの間にか眠っていた自身を思い出して、ゆっくりと瞼を開いた。

 眼を開けて、暗闇だった事に心底安心する。

 白い世界であったなら、其処はもう、地獄に違いないのだから。

 アステリアスは、静かに瞬きを繰り返し、廊下の奥を見た。

 先を歩いていた白銀の髪の少女の姿は、もう其処にはない。


「……、大丈夫。貴方が望むなら、何でもするよ」


 誰ともなく呟いて、アステリアスが顔を上げると、かつりかつりと高い音を立てて、歩いてくる人影があった。

 警戒して身構えるけれど、薄暗い廊下の先から近づいてくる気配に気づくと、アステリアスはゆっくりと身体から力が抜けてくるのを感じていた。

 向こう側からゆっくりと歩いてくるのは、午後三時にしか現れない筈の、メイシアだ。

 ふんだんにフリルを使った黒いボンネットを被り、レースとリボンで飾り立てられたミニドレスを身に纏った彼女は、屋敷の中だというのに、赤と黒のストライプの傘をさしている。


「そんな所に居たら病気になるわよ。人間は、些細な事で風邪とかいうものに罹るのでしょう?」


 平坦な声でそう言った彼女は、アステリアスを見下ろしたままそう言うと、窓の向こうを見つめている。

 窓は厳重に閉じられているのに、こもったような深い緑の香りがする気がして、アステリアスは顔を歪め、前髪を掴んで項垂れた。

 一体、どうして何もかもを忘れられずに、思い出してしまうのだろう。

 この身体に残るものは、いつだって苦しくて辛い記憶ばかりだ。

 やさしくあたたかな記憶だって、たくさんあった筈なのに。

 いっそ全てを忘れてしまえたなら、こんなにも追い詰められているような気持ちにはならなかった。

 顔を上げ、見つめた廊下の先にある扉は、未だ開かれる事はない。


「なあ、」

「何よ」

「逃れられない生き方なんて、なんであるんだろうな」


 唐突な言葉に、メイシアは一瞬顔を歪めると、瞬きの合間には息を吐き出し、視線を俯かせる。


「……、産まれてきたから、かしら」

「産まれてこなければ良かった、って?」


 アステリアスが皮肉げに唇を歪めると、彼女は静かに首を振り、いいえ、と答えた。


「いいえ、違うわ。だって、生きることは戦うこと。そうでしょう?」


 その言葉に、アステリアスは瞬きを繰り返し、言葉を返す事はなかった。

 それはまるで、逃げずに戦わなければ今まで生きてこれなかった、と彼女は言っているかのようだったから。

 魔物でありながら彼女がフィーネを守ってきたのは、そんな自身と重ねて見てしまったから、なのだろうか。

 考えて、見つめたメイシアは感情を全て抜け落としたような、無機質な横顔をしている。


「その短剣は、あの子の光が込められている。だから貴方があの子から離れていても、正気を保っていられるのよ。忘れないで」

「……、知ってる。わかってる」


 アステリアスの手にしている短剣は、フィーネが手にしていた時のように眩い光を纏ってはいない。

 ただ、手のひらには確かにあたたかなひだまりにも似た温度があり、清浄な力を否応なく感じている。

 それが何なのかを、アステリアスは良く知っていた。

 誰よりも、誰よりも。


「可哀想ね、貴方」

「お前もな」


 その言葉に、メイシアは僅かに眉を寄せ、何かを言い出そうとしていたが、緩やかに頭を振って口を噤んでしまう。

 微かに震える指先を誤魔化すように、その手はしっかりと傘の持ち手を握り絞めている。


「そうね」


 言いながら、メイシアは頰に指先を押し付け、涙の跡をなぞるように滑らして呟いた。

 頭を振り乱して、声を荒げて、小さく蹲って、みっともなく泣き出してしまいたいのに、涙ひとつだって、落ちやしないんだもの。

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