十五 朱夏 1993年 3月
「あの先生、お前ばっかり見てるけど、知り合いか?」
日直室の窓際に座った
朱夏と目が合った。僕が小さく頭を下げると、朱夏は笑顔で挨拶を返してくれた。
名古屋市郊外の中学校を春休みの間借りて、テレビドラマの撮影をした。大学二年生の頃から助監督のアルバイトを続けていた僕は、卒業した一年後には、その番組のチーフ助監督になっていた。
「僕にあんな美人の知り合いがいるわけないじゃないですか」
「彼女、お前に気があるのかもしれねえぜ。丁度いいや。お前、彼女に相談して明日の店を手配しろ」
ロケ地の関係者とは親しくなっておく必要がある。いろいろと無理をきいてもらうためだ。ロケ先が学校なら校長や教頭を招待して一席設ける。名の通った役者がロケに参加していれば、宴席に顔を出してもらう。
朝、接待用に翌日の予約を入れていた店から断りの連絡があった。ボヤを出したのだという。
「先生、好い店を御存じないですか。明日の晩、学校関係者をお招きしたいんです」
「明日の晩ですか? 急なお話ですね」
朱夏は中学の教師だった。学校からロケの立ち合いを命じられ現場に張り付いていたのだ。
「融通の利く店が近くにありますけど」
美味しい
校長も教頭も教育長も地元の人間は皆、店に入ると奥の
「校長先生たち、この店の常連みたいですね」
「ええ、皆さんウチの常連様です」
「ウチ?」
この店は自分の実家なのだと朱夏は答えた。
中学で数学を教えている。教師になってまだ一年しか経っていない。朱夏はそう自己紹介をした。
「助監督さんはN大の卒業生でしょ? 芸術学部の」
そうです、と僕は答えた。
「どうしてわかったんですか?」
映画や放送の世界にはN大芸術学部の出身者が多いから。それに、
「どこかで、会っているような気がしたので」
自分もN大の理工学部出身だと言い、朱夏は探るような顔で僕を見た。
同じN大でも芸術学部と理工学部のキャンパスは随分と離れたところに在って、それぞれの学部生が顔を合わせることはほとんどない。でも、僕もどこかで朱夏と会ったことがある。そんな気がした。
宴会が終わり招かれた客やロケ隊のスタッフは幹事役の僕を残してそれぞれの
「台湾ラーメンを食べていきませんか。お腹、空いているでしょ?」
清算を終えて帰ろうとした僕を朱夏が呼び止めた。僕は幹事の僕自身を席数から省いていたから、ほとんど何も食べていない。カウンターには既にラーメン鉢が置いてあった。
「台湾ラーメンって台湾にはないんですよ。名古屋の料理なんです」
カウンターに座った僕は、朱夏の祖父が作ってくれた台湾ラーメンを食べながら彼女の話を聴いた。
店の名は「
「台湾語ではカウフン、
カミさんが死んでからは九份には一度も行っていないと、朱夏の祖父は言った。
「台湾の北部にある町よ。祖母が戦前、住んでいたの」
両親も二十年前から
「九份って『
「よく知ってるな。映画観たのかい?」
『悲情城市』は戦後台湾の混乱を九份を舞台にして描いた台湾映画だ。日本公開のひと月前、僕は、大学の指導教授に連れて行ってもらった配給会社の試写室で日本語字幕版を観た。日本統治時代に金鉱町として栄え金鉱閉鎖後衰退していた九份が観光地として再興する切っ掛けとなった映画である。
「私は観てないけど『悲情城市』っていうんだから悲しい映画なんでしょうね。泣けてきちゃうような」
僕は、どこかで朱夏と会っている。正面から僕を見て「泣けてきちゃうような」と思わせぶりに言った朱夏の顔に覚えがあった。
「理工学部で何を専攻していたの?」
「航空工学よ」
「航空工学?」
「祖父が陸軍のパイロットだったの。それで」
朱夏の祖父が店の壁に飾ってある写真を眼で指した。戦闘機を背にして立つ飛行帽の若者には彼の面影がある。
「父も大学で航空力学を専攻していたわ」
うちは航空一家なのだと、朱夏は言った。
「小さい頃から飛行機の話ばっかり聞かされて育ったの。戦闘機のパイロットになるのが夢だった。男の子みたいでしょ」
僕ははっきりと思いだした。
「あの時は涙を拭いてくれてありがとう」
「思いだすのが遅いわ。カメラマンさん」
朱夏は僕に顔を近づけ小さく笑った。涙を拭いてくれた時と同じ笑顔だった。
「飛行機の縁だな」
事情を聞いた美子の祖父が店の壁に貼ってある戦闘機の写真を見ながら言った。
その写真を見て「ヨンサンですね」と言った僕に、
「あんた、詳しいな」
朱夏の祖父はカウンターに手をついて、少し身を乗り出した。
「キ四三」は陸軍の
僕の卒論のテーマは「航空映画」だった。航空映画に登場する飛行機の仕様についてはヘタなパイロットより知っている。特に旧日本軍の戦闘機には詳しい。ゼロ戦と並ぶ名戦闘機「隼」を描いた『翼の
共通の話題で盛り上がった三人は日付が変わる時刻まで話し込んだ。
「ヨンサンは俺の
……俺は一生、貴様以外の飛行機は操縦しない。
「仲間には自衛隊に入ってパイロットを続けた奴もいたが、俺は料理人になった」
往年の戦闘機乗りは目を潤ませ、「戦争はもう御免だ」と続けた。
「陽が落ちたらどうせ暇だろう。カメラ写らねえだろうから」
名古屋にいる間は毎晩、店に来い、と朱夏の祖父は命令
夕食時の混み合った店内で話すのは気が引けるので、朱夏と僕は
「こんな感じだったかな」
朱夏は皿を持つ手を右から左上へと滑らせるように動かした。
「あんなに感動したのは生まれて初めてだったわ。誰かさんみたいに泣きはしなかったけどね」
僕は小さく咳払いした。
「美人の彼女ができてよかったな。俺のおかげだぞ」
名古屋から帰るロケバスの中で監督は笑った。
朱夏と僕の遠距離恋愛が始まった。
携帯電話が普及する数年前だった。メールなどもちろんない。朱夏も僕も
二週に一度くらいの
朱夏は愛車のカローラをバス停近くに駐めて待っていてくれた。
「愛知の人はトヨタ車にしか乗らないのかい?」
「そうよ。私もトヨタに乗っている人としか付き合わないわ」
「それは好かった。僕はトヨタしか運転したことがない。
嘘ではない。
新潟に帰省した際、僕が運転する車は父のクラウンだった。
父は会社を立ち上げた時に最初のクラウンを買っている。以来、八回も新車に買い替えたが、うち七台はクラウンだった。ベンツに乗り換えたことが一度だけある。ただ、父はそのドイツ車を三か月もしないうちに売り払い、またクラウンの新車を買った。
「機屋が乗る車は、やっぱりトヨタだ。
トヨタ自動車株式会社の母体は
慣れ親しんだ車種への思い入れを捨て切れなかったのだろうが、百数十万という
実家の車だけではない。自動車学校の教習車も、プロダクションの社用車も、僕が運転する車は何故かみなトヨタ車だった。
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