出会い その5

 とてつもなく美味しそうな匂いで目が覚めたのは、秋人にとってこれが初めての体験だった。


「肉じゃがの、匂い?」


 しかもレトルトの肉じゃがではない。明らかに一から丁寧に作ったご家庭の肉じゃがだとすぐに気づいた。


「えっ」


 匂いにつられてリビングに行くと、そこには信じられない光景が広がっていた。

脱ぎ捨てた服や散らかった書類がきれいに片づけられ、ゴミは市が指定しているゴミ袋にまとめられていた。ホコリっぽかった部屋はチリ一つない清潔な空間へと様変わりしていた。


「俺いつの間に部屋片づけたっけ」


 あまりの変化に思わずありもしない記憶を思い起こす。


「起きたんだ。おはよう。迷惑かと思ったけど部屋片づけておいたよ。一応仕事の書類? みたいなやつは変にいじらず机の上にまとめて置いといたから」


 声が聞こえた先を見ると、そこには雪菜がいた。「確か寝る前に水川さんが話しかけてきたような……」とまだ寝ぼけていた頭でぼんやり思い出すと、雪菜が申し訳なさそうに謝ってきた。


「ごめん、人の家を勝手に掃除するなんてまずかったよね。見られたくないものだってあるだろうし。一応そういうところは触らないようにしたから」


「いやいやとんでもない。不健全な男子なので見られたくないものなんてありません」


 雪菜はクスリと笑う。


「不健全だから見られたくないって何。秋月君って冗談言うんだね」


「冗談が言えるくらいの人生の方が楽しいと思うよ。それよりこの匂いは、もしかして肉じゃが?」


「そうよ。台所の掃除をしていたらレトルト食品の空箱ばかり出てきたから、もしかしてあんまり料理していないのかと思って。人の家の食材勝手に使うのは気が引けたけど、迷惑だった?」


「とんでもない。美味しくいただきます。むしろ一昨日は自炊をしようと食材を買って冷蔵庫に保管していたんだけど、ここ最近忙しくて。危なく食材腐らせるところだったよ。ありがとう」


 食卓に並んだ料理を見る。肉じゃがだけじゃなく野菜のおひたしやみそ汁、それにご飯もちゃんとよそってある。一昨日買いだめをしていたとはいえ、よく冷蔵庫にあるものだけでこんなにきちんと一食作れるものだ。

「じゃあ、えっと、いただきます」


「召し上がれ」


 早速一口肉じゃがを食べる。


「おいひい」


 あまりの美味しさに秋人は正しく言語化できなかった。だがそれは無理もない事で、今も昔もレトルト食品や冷凍食品ばかり食べている秋人にとってこういった家庭の味はあこがれの対象で、味そのものよりも最初に感動が来ていた。下ごしらえをして塩分を控えめに作られた肉じゃがは、秋人にとって今までの常識を覆すぐらい美味しかった。みそ汁やおひたしも同じように丁寧な味がして、思わず涙がこぼれそうになる。


「ごちそうさまでした」


「お粗末様です」


 あっという間に全部食べ終わると、雪菜が神妙な面持ちで話しかけてきた。


「美味しそうな顔で食べてくれたのはうれしいんだけど……、そこまで感動されると逆に複雑な気分になるものなのね。というか意外なんだけど、学校での完璧優等生な秋月君と違って実は家事が苦手でお家は汚部屋なのね」


「おべっ……」


 学校にいる時、秋人は完璧という名のペルソナを被っている。他者には常に完璧だと思われたいし、自分自身も完璧でありたいと願っている。そんな彼にとって家事ができないという事実を知られるのは最悪の極みだった。


「いや、そうですね汚部屋ですね。実は家事全般が苦手でして、やらなきゃやらなきゃと思っていたら、先ほどまでの有様です」


「ここまで部屋を汚せるのはある種の才能があると思うわ、天才ね」


 放たれた皮肉が秋人の心にクリティカルヒットする。雪菜の中で完璧優等生という秋人のイメージはとっくに崩れ去っていた。


「水川さんも毒舌の才能があると思うよ。俺このわずかな会話で結構メンタルえぐられたよ」


「それは秋月君が豆腐メンタルすぎるだけよ。でもちょっと安心した。正直学校での秋月君は完璧すぎてちょっと怖かったから」


「怖い? 俺が?」


「そうね、なんというか、学校での秋月君は絵にかいたような秀才過ぎて人間味が無いというか、他の人はそう思わないんだろうけど私としては取っ付きにくかったわ」


 社交的にふるまっている秋人としては少し不服のある評価だった。少なくとも取っ付きにくいという印象を持たれているとは全く想像していなかった。


「取っ付きにくさで言えば水川さんの方が上だけどね。正直一人でいる方が好きな人か男の人が苦手なのかどっちかかと思っていたよ。今の水川さんはなんというか、毒舌だけど話しやすい」


 すると雪菜は驚いたような顔をした。


「毒舌の方は自分でもその通りだと思うけど話しやすいって言われたのは初めて。別に一人でいるのが好きってわけでも男の人が苦手ってわけでもないわ」


「じゃあなんで学校ではあんな他人を拒絶するような態度を取っているの?」


「それは……、その、「氷の女王」とか変なあだ名付けられているからもう知っていると思うけど、実は高校入ってから今まで何度か告白されたの。それを全部丁寧に断っていたらいつの間にか周りに避けられるようになっただけ」


 丁寧に、と言っているがこの毒舌からするに相当手ひどく振ったのだろう。何度「か」ではなく何度「も」なのは事前に知っている。


「中学の頃からそうなの。自分で言うのもなんだけど私って見た目は良いから。告白されたのを振ってたら男子が遠ざかって行って、女子からも「調子乗ってる」って疎まれる。他人を拒絶しているんじゃなくて他人が私を拒絶してくるの」


 最後の部分はともかく美人は美人なりに苦労しているのが垣間見えた。


「なるほど、悪循環というか、マッチポンプというか」


「私が原因を作っているわけじゃないからマッチポンプではないわ。それより、なんで高校生で一人暮らしなんかしているの?」


「あ~それは……」


 すると雪菜は余計なことを聞いてしまったと申し訳なさそうな顔をする。


「い、いや、そんな顔しないで。別に複雑な事情があるわけじゃないよ」


「ご両親が無くなって一人暮らしをしている高校生は一般的に複雑な事情がある部類に入ると思うわ」


「なんで知っているの?」


「眠る前に自分で言ってた。前に叔父さんと二人暮らししていたとも」


「あ~、言った……、かも」


 そういえば玄関で何か聞かれて答えた気がするが、眠気でフラフラしていたので正直横断歩道で助けてもらったあたりからあんまり記憶がなかった。


「(さて、どうしたものか)」


よくよく思い返してみれば雪菜には昨日英語を話しているところを見られているし、秋人自身の不注意で家庭事情という繊細な事柄まで知られてしまった。状況は既にごまかしようのない状態だ。ここは部分的にでも事情を話すしかないと判断した秋人は、かいつまんで説明することにした。


「実は俺って十二歳までイギリスに住んでいたんだよね。けど両親が二人とも死んじゃって」


「へぇ~、でもあれだけ話せればやっぱりそうだよね。つまり帰国子女だったんだ」


「そうそう、それで今は父方の叔父さんの下でお世話になっているんだけど、叔父さんの薦めで一人暮らしを始めることになって。叔父さんは翻訳の仕事をやっているんだけど、俺はその手伝いをやっているんだ。昨日も夜遅くまで翻訳を手伝っていて、寝不足のまま学校に行ったら案の定フラフラで、あとは水川さんが見た通りです」


ふーんと納得した様子を見せると、今度は仕事兼勉強机の上を指さした。


「あそこにある書類も、翻訳のお仕事関係? 結構難しい内容っぽかったけど」


 部屋に持ってきたのは今月中に頼まれていたまた別の書類だ。論文ではなく工業機器の説明書なので翻訳の手間はそんなにかからない。


「そうだよ、この部屋の家賃とか生活費は叔父さんが出してくれているんだけど、さすがに何もせずお金貰うのは忍びなくて。代わりに翻訳のお手伝いをしてるってわけ」


「ふーん、すごいね。生活費を貰う代わりに翻訳のお手伝いなんて。でもそれで部屋の掃除が疎かになるなんて本末転倒じゃない? 食事もレトルトばっかりみたいだし、体に悪いわ」


 言葉に詰まる。まったくもってその通り、ド正論だ。


「……そうだね、本当にそう思う。翻訳の手伝い自体はそこまで大変じゃないんだけど、家事全般が苦手で。やろうと思ってどんどん先延ばしにしていたら、ご覧の有様で……」


 こんな体たらくで秋人自身も情けないと感じていた。当然、雪菜も呆れたように秋人の顔を見ていると思ったがそんなことはなかった。何やら深く考え事をしている様子だ。


「とりあえず、掃除も料理も迷惑じゃなかったようで良かった」


 そう言いながら雪菜が空になった皿に目をやる。思いっきりがっついて食べたのを見られていた分、さすがに恥ずかしい。秋人は自分の顔が赤くなるのを感じた。

「迷惑じゃなかったです。掃除も料理も。ありがとうございました」


「気にしないで。昨日助けてもらったから、今日はお礼を言わなきゃ思っていたんだけど……。でも秋月君、何だか今日一日中ずっと体調悪そうだったし、帰りに話しかけようとしたらすぐ教室出ちゃうし、何だったら路上で急に倒れそうになるし、このままじゃまずいわよ。何とかした方がいいんじゃない?」


「そうだよね、どうしたもんか……」


 苦笑いしながら返答すると、雪菜は一呼吸置いてから意を決したように口を開いた。


「ねぇ、それなら私にいい案があるの」


「…なんでしょう?」


「私をお手伝いさんとして雇わない? 秋月君がお仕事に集中できるよう、私が家事をやってあげる」


「……?」


 何を言っているか分からず思考が停止する。冗談を言っている様子ではない。至極真面目な顔をしていた。


「秋月君?」


「あっ、ご、ごめん。急な提案にびっくりして。でも雇うって言っても俺さすがにそこまでお金の余裕ないよ」


「私が欲しいのはお金じゃないの。秋月君には私の労働の対価として英語を教えて欲しい」


「英語? それまたなんで?」


 秋人は自分で言っておいて思い出す。そういえば昨日雪菜は英会話教室のポスターを見ていた。あれはそういうことだったのか。


「実は私のお母さん、キャビンアテンダントとして働いていて、小さい頃から将来はお母さんみたいに航空会社でキャビンアテンダントとして働きたいと思っていたの」


「へぇ、水川のお母さんってキャビンアテンダントなんだ。それなら英語を勉強したいのにも納得だけど、それならお母さんに教わった方がいいんじゃない?」


 雪菜は首を横に振る。


「お母さん今国際線で働いているから忙しくて、なかなか家に帰ってこれないの。帰ってこれてもいつも夜遅いし」


 なるほど、それでは教わることは出来ないだろう。けど英語を教わるならちゃんとした英会話教室の方がいい。そう提案しようと思ったが、先に通えない理由を雪菜が説明した。


「それに、私の家も実はお父さんが亡くなっていて。大学にも行きたいと思っているんだけど、ひとり親だからさすがにこれ以上負担をかけたくなくて」


「あ~なるほど……。まぁ、そういうことなら別に家事してもらわなくても英語くらい教えるけど」


 秋人としては雪菜が今日知ってしまった秋人の家事情や部屋の有様について他の人に言いふらしたりしなければ、英語を教えるくらいしても良いと考えていた。


「それはダメ。私のモットーに反するから」


「モットー?」


「そう、私はね、人間関係は等価交換が基本だと思うの。なにかサービスを受けたら、対価を支払う。助けてもらったら、その分きっちり恩を返す。物を売り買いするときから人の善意まで、すべてそうやって出来ていると思うの」


秋人は何かの本で読んだ知識を思い出す。たしか返報性の原理というやつだ。


「だから、私は秋月君に家事というサービスを提供するから、秋月君は英語を提供して欲しい。どう?」


「ものすごく契約主義的だね。どうと言われても、家事をしてくれるのは嬉しいんだけど、う~ん、年頃の女の子に部屋を見られるのはちょっと恥ずかしいというか」


 秋人としては家事をしてくれるのはありがたかった。事実一人暮らしを始めてすでに五か月経過していたが、自分の生活能力のなさは嫌という程思い知らされていた。とは言え同級生の女の子に身の回りのお世話をされるのは思春期の男子として恥ずかしかった。


「もう汚部屋見られているのに今さら?」


「……確かに」


 雪菜の言う通り今さらなのだろう。しかし仮に家事をしてもらうとして、気になる点があった。


「二点、確認したいことがある。まず一つ、自分の家の家事は大丈夫なの? 自分の家の分と俺の分なんて、大変じゃない?」


「それは大丈夫。最近は弟がほとんどやってくれていて、今は私割と時間あるの」


 他に家事をしてくれる家族がいるのなら、家の家事は大丈夫なのだろう。


「そっか、ならもう一つ、仮にも俺は男な訳だけど、女の子一人で部屋に来て大丈夫?」


「そこは大丈夫。秋月君はモテるし、わざわざ私みたいな口の悪い女に手を出さなくても女の子と付き合えるでしょ。だから変なことをしてくると思わない。というかもしかして彼女いた? それなら異性が部屋に入るのは良くないわよね」


 確かに秋人も雪菜同様モテる方で、入学してからすでに何人かの女の子に告白されている。少なくとも付き合おうと思えば誰かしらと付き合えるわけで、異性関係に関して特に苦労していない。


「水川さん程じゃないけどね。彼女はいないよ」


「ならよかった。さすがに彼女がいたら家に来るのはちょっとね。それで提案の方、どうかしら?」


 じっくりと秋人は考える。ここまでの話を聞くと秋人にとってもメリットが多かった。特に最近は部屋が汚れすぎているせいで在宅の翻訳作業も能率が下がっていた。


このままでは翻訳どころか高校生活の方の方にも悪影響が出かねない。そうなっては叔父である潤にも迷惑や心配をかけてしまう。


「分かった、その話に乗るよ。さすがに俺もこの状況はどうにかしなきゃと思っていたし」


 諦めたように肩をすくめると雪菜は緊張が解けたのか少し微笑んだ。


「よかった。ここで断られたらバイトでもして英会話教室代を捻出しようと思っていたんだけど、それだと勉強時間も削れるし疲れて勉強できなくなるだろうから本末転倒になるところだった」


 自分でお金を稼いでまで英語を学ぼうとする姿勢に感心していると、雪菜が秋人の前に右手を出してきた。


「じゃあ、宜しくね、秋月君」


「こちらこそ」


 差し出された手を握り返す。こうして秋人と雪菜の間には、英語を教え家事を手伝うという、少し不思議な関係が出来上がった。

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