4 翌日の朝


 いつの間にか眠っていたラットは、まだ身体があたたかいことに気づく。

 自分の目元のシーツだけが、雨が降ったようにずぶ濡れだ。ラットは頬を拭う。まだ涙の雫が垂れていた。

 徐々に意識が戻っていくにつれ、掌の感触も始まる。ラットはまさかと思い反対側を向いた。

 そこにはイェーゴーがいた。本当に、朝まで自分の隣にいた。

 見つめていると、イェーゴーの目が急に開いて、ラットは少しだけ驚く。

「ね」

 イェーゴーはふわりと微笑む。金木犀の甘い香りがした。

「夢じゃないでしょう」

 そして重なり合っていたラットの掌を、もう一度ぎゅっと握ったのだった。


 この人になら、いつか俺は打ち明けるかも知れない。

 ラットがそう思った瞬間だった。




 ーーーーーーーーー




 ラットは、立ち尽くしていた。

 先ほどの部屋から随分と長い廊下を渡って、いくつか角を曲がると扉があり、そこには脱衣所があったのだ。

 ラットは言われるままに、腰に巻いたタオルだけの格好になった。

 そして今、更に奥の扉に手をかけようとしている。風呂場がある所だ。

「さあ、行きましょうか」

 問題は一つだけだった。

「なんであんたまで入ろうとしてるんだよ!」

 ラットは振り向いて、後ろからついてきていたイェーゴーに叫んだ。

 イェーゴーはきょとんとして、腕捲りをする。彼はいつのまにか燕尾服から、濡れてもいい質素な服装に変わっていた。

「ラット様は立っていられるのもやっとでしょう。勝手ながら、私が」

 そして両手に持ったタオルを持ち上げにっこりした。

「あなたのお背中をお流します」

 ラットは押し黙った。呆れもあるし、少しの恐怖もある。今まで生きてきた環境を考慮すれば,ラットがイェーゴーをまだ完全に信頼できないのは仕方のないことなのかもしれない。

 ラットは息をついた。なんだかイェーゴーは嬉しそうにしているし、それに立っていられるのもやっとという彼の推理は当たっているのだ。

「…せめて様付けはやめて」

 と言ってラットは扉を開ける。その瞬間蒸気がぶわりとラットの身体に当たった。


 ラットが低い椅子に座り,イェーゴーがその後ろに膝を立てている。

 白い泡はイェーゴーの指で滑っていく。

 それはラットの肌を動いていき、つるつると照っている。

 ラットはイェーゴーに背中を撫でつけられながら、くすぐったい感覚を抑えている。

 それにしても。

 あまりにも大きな浴場だ。


 端の方に湯を汲む為の壺が10ほどあったり、身体を洗う為のスペースが8つある。浴場の半分ほどの面積に巨大なバスタブが設置されてあり、そこには檸檬色の泡がぷかぷか浮いている。

 ラットはまだバスタブにも入っていないのに、もう顔を真っ赤にしている。こういった熱い風呂に慣れていないので、他の人間より熱く感じるのかもしれない。


 イェーゴーはラットがくすぐったがっているのに気付きつつ、全身を洗っていく。

「ちょ、そこはやめろって」

 とうとうラットから文句が出た。

「申し訳ありません。すぐ終わりますので」

 イェーゴーは、ラットのうなじにそっと触れた。


 ラットの胸に違和感が生まれた。

 自分の鼓動が、大きい。

 ふと後ろを振り返り、ラットはびっくりする。

 イェーゴーが目を伏せてラットの背中を見ていた。泡の感触が背中をじわりとあたためた。

 いや、熱くした?

 イェーゴーの綺麗なまつ毛が下を向いていて、その丸くカールした姿は,どういうわけかラットの目に鮮明に焼き付いた。

 とくん、と心臓が跳ねたような気がした。

 それからと言うもの、ラットの心臓は急に暴れだす。背中を動く指の感覚に、どうにも感じいってしまう。

「・・・っ」

 ラットが小動物のようにふるふると身体を震わせる。

 イェーゴーの瞳が一瞬だけ揺らいだ。


 

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