第5話.欠点を積み上げて清算

 ジャージャーとシャワーの流れる音が響く。湯気が立ち込めて視界が悪くなったお風呂で、シャワーを交互に掛け合って、2人で「何してるんだろうね」って、「意味分かんないよね」って笑った。


「あったまってきた?」

「おー、けど結局服脱がないとすぐ冷えるわ」

「あはは、わかる〜!」

「脱ぐか」


 御影はニヤリと含みのある笑みを浮かべた。これは私が狼狽えることを期待している顔だ。残念だけど、御影の思惑通りにはならない。


「そうだね、脱ごっかな」


 そう言って、ニットの裾に手をかけた。狼狽えるのは御影の方なんだからね、と面白くなりそうな展開に思わずほくそ笑んでしまいそうだ。


「じゃあ、俺も脱ぐわ」


 御影はなんの躊躇いもなく、トップスを脱いだ。湯気が落ち着いたお風呂場は、私の目の前にいる半裸姿の御影がよく見える。


「ちょ、ちょっと、なに考えてんの?!」

「お前が言ったんでしょーが」


 あれれ〜?なんておちょくってきて、ほんとに腹立つ!


「ほら、お前も脱ぐんだろ?」

「……っ!分かったわよ、脱ぐわよ」


 女に二言はないんだから、と勢いよくニットを捲り上げて首から引っこ抜いた。色気のない脱ぎ方だ。肌に纏わりついていた湿ったニットの気持ち悪さが消えて、シャワーの熱を直接感じる。


「バッカ!お前馬鹿かよ!ほんとに脱ぐ奴があるか?!とんでもねー奴だな!」


 煽るだけ煽って、私がまさか本当に脱ぐとは思ってもみなかったのだろう。慌てふためいた御影は、さっき自分が脱いだトップスを私の胸元に押し当てた。


「ふん、御影が脱げって言ったんじゃん」

「言ってねーよ!あ、いや、言ったか?」


 御影が狼狽えている。愉しい。高校生に戻ったみたいにキャハハと笑えば、御影も観念したみたいに「ふっ」と表情を崩した。


「おっそろしー女」

「えー?そもそも御影が煽るから〜」

「にしても、普通は脱がないからね?」


 本当に恐ろしい女だよ、と御影はその言葉をもう一度呟いた。


 恐ろしい女だと、それは私も分かっている。そうでなければ、夫がいる身でいくら友達といえども異性の部屋に上がったりしない。誘うようにお風呂に入ったりしない。明らかなジョークを間に受けたフリをして服を脱いだりしない。

 御影、私は本当に愚かで恐ろしい女だ。だけどそんな女でもすんでの所で、御影に触れてしまいそうな衝動になんとか耐えているの。

 シャワーの音がうるさくて良かった。高鳴る胸の音を誤魔化してくれるから。御影が笑ってくれて良かった。全てのことを冗談にできるから。

 今日は大丈夫だった、なんとか耐えられた。御影と友達のまま別れられた。不倫をするような、だらしなく穢らわしい人にならなくてすんだ。あぁ、だけど。それは僅かな猶予を与えられたに過ぎない。私は確信している。既に地獄に足を踏み入れていること。この気持ちが溢れだすのは時間の問題だということ。多少の期間に差はあれど、その未来はもう決定しているのだ。




 スマホに届いた凌介からの『残業で帰るの遅くなる』というメッセージを読んで、安堵の息を吐く。晩ご飯もいらないらしいので、一人レトルトカレーを食べて、さっさとベッドに横になった。本当に良かった。なんにも無かったフリをして凌介の顔を見られる自信がなかった。

 こういった現実に直面すると、私は不倫には向いていないと思う。上手く隠し通せる気がしないからだ。そこまで考えてハッとした。なに一人で盛り上がってんの。私がどれだけ浮かれても、御影にはそんな気さらさらないでしょ。幸いなことに、不倫は一人では決してできないのだ。


 今日のことを思い返して眠れない。凌介が帰ってくる前にどうしても寝たいのに。ゴロゴロと何度か寝返りを打って、それでもやってこない睡魔に私は開き直った。


『どうした?』


 スマホ越しに聞こえる御影の声は驚くほどたおやかであった。


「寝られなくて、」

『子供みたいだな』


 夫がいないから電話をしていい?と聞いたからか、御影は私の言葉を"一人では寂しくて寝られない"と勘違いしたようだ。

 だけどそれでいい。今日のデートが楽しすぎて、それを思い返せば胸が苦しくて眠れないだなんて、それは愛の告白以外の何物でもないから。


「そうなの、あの頃と全然、何一つ変わってないよ」

『高校の頃とか?それなら俺もだ。なんならあの頃より拗らせてる』


 救いようがないよな、と自嘲した御影に、なんて返せばいいのか、私は分からなかった。茶化すのも真剣に励ますのも違う。高校生の私なら、自らを嘲る御影になんと答えたのだろう。

 私たちはもうあの頃みたいに、少し覗けば全てを把握できる狭い世界にはいないのだ。私は今の御影どころか、高校を卒業してからの御影のことを知らない。彼がどんなことに心を傾け、なにに喜び、なにを悲しいと思うのか。どんな人を愛し、得た愛をどのように失ったのか。

 お互いを「変わらないね」と言い合った事実が、これほど滑稽なこととは。不変なものなどないのだ。世の摂理を体現しているように、私と御影は変わった。それが寂しくて、だけどなぜか嬉しい。


「ねぇ、また会いに行ってもいい?」

『……あぁ、いつでも待ってる』


 御影の声が私の眠気を誘う。何も怖いことなどないよ、と、俺がついてるよ、と、頭を撫でられた心地になるのは、流石に私に都合が良すぎるだろうか。


『旦那、帰って来るんじゃないの?』

「……ほんとだ。付き合ってくれてありがと」

『じゃあ、またな』


 通話を切る瞬間はどうしても寂しさが勝ってしまう。もう少し声を聞いていたかった。他愛ない話で笑い合いたかった。そんな風に満ち足りない心が、また会いたいという気持ちを育てるのだろうか。


「いっせーのーで、で切ろうね」


 なんて、本当に高校生の頃にしたむず痒い、おままごとの延長線上にある恋愛ごっこではないか。

 結局2人とも終了ボタンを押せなくて、何度も失敗して、さらに後ろ髪を引かれて。「次は絶対同時に切ろうね」って『約束な』って笑い合って、そんな些細な時間が心に降り積もりって、そうかこれが幸せなのか、って納得した頃、玄関の扉が開いた。

 



 夫が帰ってきたことを残念に思う妻ってどうなの。

 御影との電話の最後は、「ごめん、夫が帰って来たから」という、情緒もへったくれもないものになった。


 洗面所で手を洗う水の音が聞こえる。それが止まってすぐ、寝室の扉がゆっくりと静かに開けられた。マンションで良かったと思う。一軒家なら帰って来た音に気づかなかったかも知れない。寝たふりを決め込んで布団に潜った私へ、凌介の控えめな「ただいま〜」という声が落とされた。

 その声に罪悪感がくすぐられる。仕事で疲れて帰って来ているのに、私を起こさまいと気を遣ってくれてるのだ。私、何に浮かれてたんだろう、と一瞬で正気に戻って、「おかえり」と起き上がった。今起きたばかりの演技をしてることにも馬鹿馬鹿しさが募る。ほんと、何やってんだろ。


「ごめん、起こしちゃった?」

「ううん、全然!ちょっとウトウトしてただけだから」

「そっか。ま、俺は杏ちゃんの顔見れて嬉しいよ〜」


 あれ、おかしい。少し前までならこの言葉、きっともっと嬉しかったはすだ。だけど、今はどうやって受け取ればいいのか悩んでる。


「あは、私も嬉しい」


 私、こんなに作り笑いが上手だったんだな。御影と関わって、御影に惹かれていくたび、こうやって知りたくなかった私を知っていくことになるんだろうか。


「はぁ、ほんとかわいい。仕事の疲れが吹っ飛んだ」

「……良かった、」

「あ、そういえば、映画どうだった?」


 ぎくりとした。私のことを疑うなんて考え一ミリだって持っていない、澄んだ凌介の瞳が見れない。だけどここで逸らせば、勘のいい凌介のことだ、不信感とまではいかないが、それでも違和感を抱かせてしまうかもしれない。

 世間一般では"夫は妻の不倫に気づかない"と言われているが、果たして本当にそうなのだろうか。他所のご主人のことは分からないが、凌介のことはよく分かる。彼は必ず気づく。気づいて、そして私をキツく叱責するだろう。問答無用で離婚を突きつけられるかもしれない。その時、私はどう思うだろう。後悔するのだろうか、それとも……。


「すっごい良かった!泣いちゃったよ」

「え〜、なら俺も一緒に行きたかったな」

「え〜?凌介、内容全然知らないじゃん」


 変なことを言うな、と、うふふと笑えば、凌介は「違うよ、泣いてる杏ちゃんを見たかったってこと」と、私より柔らかく微笑む。

 凌介はこういうところがあった。本当に稀にだが、こちらが理解できないことをサラリと言うのだ。結婚を躊躇ってしまうほどの違和感ではなかった。それほど頻繁ではなかったし、発言した後はけろりといつも通りの凌介に戻るから。謂わば性的興奮を感じる趣向だろうか、と思っていた。

 こういった性的嗜癖はかなりパーソナルなもので、凌介から打ち明けてこない限りは私から触れないでおこうと思った。そりゃ、こちらの命の危険を感じたり、嫌悪感を覚えたり、性行為が苦痛になるなら話は別だが、幸いなことに凌介のセックスはノーマル、なんなら淡白なので私もさして気にしていなかった。


「そうだ、土曜日楽しみだね」

「うん、ほんと楽しみ!凌介、ありがとね」


 ほらね、もういつもの凌介だ。土曜日、私がずっと行きたがっていたお寿司屋さんに、誕生日祝いを兼ねて行く約束をしていた。予約困難店なのだが、凌介が常連の友達に頼んで予約を取ってくれたのだ。

 

「俺、お風呂入ってくるね」

「うん、疲れ取っておいでね」

「ありがとう。杏ちゃんは、先に寝てていいからね」


 おやすみ、と頬に唇をあてて、凌介はお風呂へ向かった。優しい優しい夫。表では明るく、器用で、人懐っこく、それが能天気と取られることもある凌介だが、彼の本質はとても繊細で気遣いのできる人だ。私のことを第一に考えてくれている。彼に不満など少しもない。そんな凌介と結婚できたこと、それこそが最大の幸福であった。

 だからこそ不倫は許されない。彼を裏切ることなどあってはならない。


 夫のDV?度重なる不倫?姑問題?どんな理由があれば、世間は"それなら不倫も仕方ない"と同情してくれるのだろうか。不倫の罪と相殺できるのだろうか。そんなことを考えてしまう自分を恐ろしく思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。

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