4-⑤
◆
商家の門扉の前で立ち止まる。父の背が道から外れて、視線の先にはこれから伴侶となる青年しか映らなくなった。
「澄子さん、こちらへ」
向けられた彼の手を前に目を伏せる。武骨な男性の手。私を抱きしめようとして、けれど私のためにそれを諦めてくれた手。何度も振りほどいたその大きなてのひらに、今度は私から手を重ねる。
「ええ、春嗣さん」
そんな手だからこそ、私は彼を選んだのだから。
触れた手がきゅっと握られる。隣を見上げれば、精悍な顔つきの中で真摯な色の黒目が揺れていた。
彼との婚約を受け入れると決めてから、今日の婚儀まではあっという間だった。諦めた素振りを見せつつも、相手方はいつでもそうなっていいようにと準備だけはしていたらしい。その手際の良さに、商人の家というのはこうも強かなのかと、父と妹は渋面を作っていた。
婚約を受け入れると伝えた日、彼はぽかんと口を開けて沈黙した。やっとやっという体で紡がれた言葉は、「俺も、今日あなたにもう一度婚約を申し入れようとしていたんだ……」というなんとも締まらないものだった。
それから彼は仕切り直すように私の手をとって、こちらの目を真っ直ぐに見つめた。
――俺があなたの心を癒してみせるとは言えない。その代わり、俺を愛してほしいとも言わない。だが、どうか俺に、あなたの傍に寄り添わせてもらえないだろうか。あなたの人生を美しく彩る手伝いをさせてほしいんだ。
彼は淡々と、しかし一筋だけ涙を流しながら言った。
その涙はあまりにも美しくて、私は彼の申し出にそっと頷くことしかできなかった。
「幸せにするよ。あなたの人生を、必ず美しいもので彩ろう」
「うれしいです、とても。でも、本当に春嗣さんはそれでいいのですか?」
婚儀の会場となる大座敷までの廊下を並んで歩く中、私は彼に意地悪く問いかけた。もう取り返しのつかないところまでお互い来ているということはわかっている。けれど、自分の心を押し殺して生きるのがどれだけ苦しいか、私はよく知っているから。その苦しみを、これからこの人に背負わせるということも知っているから。だからこそ、私は彼の心情を知りたかった。
私の伴侶となる青年は今後の人生を、自分以外を慕う女のために捧げるのだから。
「ははは。あなたがそれを尋ねるのかい?」
存外軽やかな口調で言うと、彼はため息のような吐息をつく。
「いいんだ。こうして、あなたを俺のものにできた。これほど幸せなことはないよ」
「……優しい人なんですね」
私の言葉に、彼はわずかにその目を見開く。数回だけ視線を泳がせ、気まずそうに頬をかいた。
「いいや。俺はひどい男だよ。だって、もうあなたを手放す気はないのだから。かの鬼があなたを迎えに来るまで、俺はあなたを決して手放さない。だって、これから俺とあなたは家族になるのだから」
「家族、ですか」
「そう。家族とは呪いにも似た縁だ。その呪縛を使って、俺はあなたを俺の元に縛りつけようとしている。あわよくば、鬼よりも俺たち家族をとってほしいとさえ思っているくらいに」
静かに大座敷へと続く障子を彼が開ける。そこには両家の家族が揃ってこちらを見ていて、私は少しだけその雰囲気に圧倒された。
「だがその代わりに、あなたが嫌だと思う暇がないほど、俺はあなたを幸せにしてみせる。そして、かの鬼が歯噛みするほど、あなたの営みを美しく彩ってみせるさ」
繋いだ手に力がこもる。こちらを向いた青年の微笑みには、爽やかでありながらどこか薄暗いものがまとわりついていた。一人の女を手に入れたという優越感と、わずかばかりの焦燥感が滲む笑み。ああ、これがこの男の恋情だったのか。私は思わずくすりと笑みを漏らす。
それをどう受け取ったのか、彼は再び目を見開いて「まいったな」と眉を下げる。
「俺は本気だぞ。惚れた女には幸せになってほしいが、やはり俺のことも愛してほしいとも思う」
「わかっています。私も同じでしたから」
ぱちりと彼が瞬きをする。それににこりと目を細めると、彼はこらえきれないというように肩を揺らした。笑っているのだ。
「どうか末永く、よろしくお願いいたしますね、春嗣さん」
「こちらこそ。澄子さん」
二人で微笑み合い、私たちはそれぞれの席についた。大座敷の雨戸は開け放たれていて、未だ雨を降らす空のようすが伺える。いつかの空とは違い、今日はじっとりとした曇天だ。それでも、人々にとっては豊穣の雨なのだ。
私たちの前に置かれた紅色の杯に祝い酒が注がれる。いよいよ婚礼の儀が始まろうとしていた。私の人生の、営みの幕がまた一つ上がっていくのだ。
厳かに差し出される杯を三度にわけて飲み下した。酒の味が喉を焼いていく。あの鬼はこの味を好んでいたのか。そこまで思って、こんなときまで彼女のことを考えている自分に自嘲した。私はきっと、彼ががんじがらめにこちらを縛ったとしても、あの美しい鬼を選んでしまうのだろう。
だからこそ、私は人として、彼の妻として懸命に生きねばならない。いつか彼女と再びまみえたとき、やはり人の営みは美しかったと微笑むために。
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