2-⑧

「澄子、僕のそばに来るんだ!」


 焦った声で少年が叫ぶ。小さな手に引かれて、私はよろけたまま濡れ縁に膝をついた。細い腕が肩を抱く。私は少年の腕の中に納まりながら、彼の着物をぎゅっと握った。


 先ほど聞いた冷たい狐の声。それには、言葉どおりの敵意と殺意が込められていた。


「おやおや、優秀な守り神だこと」

「――ッ!」


 耳元で響く艶めいた声に、私と少年は同時に息をのむ。


 振り返った先、抱き合う私たちの背後に狐が立っていた。太陽を背にしているせいで、その表情は影になっている。それでも、なんとなく、にんまりと唇を吊り上げているのだろうとわかった。


「怯えるなと言っただろう? そう邪険にしないでおくれよ。それに、お前が鬼の害にならぬとわかれば何もしないさ」


 ゆったりとした声が呪詛を吐くように囁く。私はふるふると力なく首を振った。


「わ、私、ナキ様の害になんて、なりません……」


 震える声でなんとか言葉を紡ぐ。てのひらは汗だくで、喉はひりひりと痛んだ。私の肩をぐっと掴んでくれている少年の手だけが支えだった。


「――ナキ様?」


 狐の声が一段と低くなる。周辺の空気がのしかかってくるような重さを含み始めた。


 ナキ様。私が勝手につけた、あの鬼の名前。この狐は、それが気に入らないのだろう。ハッと息を吐くように彼女が笑う。


「人間よ。ナキ様とは、よもやこの山の鬼のことではあるまいな?」

「……いいえ、この山の鬼のことを、私はナキ様と呼んでおります」

「……ふぅん」


 私の答えに低く返すと、狐はくるりと踵を返した。そのまま濡れ縁を歩いたり、社やその周辺を眺めたりしている。最後に鳥居を見つめてから、空色の瞳がやっとこちらに向けられた。先ほどとは打って変わり、それは存外穏やかな色をしていた。まるで、冬の空のように凪いだ、寂しい色だった。


「まあ、いいだろう。名前に意味などない」


 狐の目がすっと細められる。同時に、のしかかってくるような圧から解放されて、私はやっと肩の力を抜いた。少年も同様に、私の肩を抱く手から力を抜いたようだった。


「娘、お前があの子のそばにいることを許そう。ただ、忘れるなよ」


 冬の空と同じ色をした瞳が私を射抜く。


「お前は人間であるというだけで、あの子の傷に触れているのだ。お前があの子の傷に塩を塗るようなまねをしたのならば、アタシはすぐにでもお前を引き裂いてやろう」


 どきりと心臓が大きく脈打つ。


 人間であるというだけでとは、どういう意味なのだろう。あの鬼の過去に関係しているのだろうか。立ち上がろうとした私の前に少年が立ち塞がる。


「要件は済んだかい? 人間をいじめて楽しむなんて、本当に嫌なやつだね、君って」

「手厳しいことを言うでないよ。これも鬼御前への愛ゆえさ」


 高らかに笑う狐に、少年は「気持ち悪いなあ」と肩をすくめた。


 狐はひとしきり笑うと、鬼がしていたように濡れ縁の柵に腰かける。流れるようなしぐさで白い足を組み、その上に肘を乗せて頬杖をついた。


「愛など、気持ちの悪いものだろう」


 優しく、けれど冷ややかな声で狐は言った。


「……まあ、それには同意してあげるよ」

「おや。気が合うんじゃないかい、アタシたち」

「冗談」

「つれないこと」


 くすくす笑い合う二人の獣に、私はこっそりとため息をつく。


 私に対する狐の殺意はもう感じられない。しかし、その視線からはまだ少しだけ敵意が感じられた。狐は当初の目的どおり鬼が帰ってくるまで居座るつもりのようだし、山犬も彼女を追い返すことは諦めてしまったようだ。なんとなく、この場に居づらい。


 狐と山犬のやりとりを聞きながら、私は鳥居を見上げた。いつもあの鬼は、出かける時この鳥居に飛び乗っている。帰ってくる時もそうだった。


 ――早く帰ってこないかしら。


 そんなことを思いながら鳥居を見つめていると、突然、後ろから耳元に熱い吐息が吹きかけられる。悲鳴も上げられないくらい驚いた私は、つんのめるように前方へ逃げた。


「な、なっ……!?」


 まだぞわぞわする耳を抑えながら振り返れば、袖で口元を隠した狐がにんまりとその目を細めていた。どうやら彼女の仕業らしい。いつの間に背後にまわったのだろう。


「アタシの話し相手になれと言ったのに、何を呆けているのか。人間のくせに生意気な娘よ」


 言葉こそこちらを咎めるようなものだが、その表情は明らかに面白がっている。なんて身勝手な。中途半端に開いている口を塞ぐことも忘れ、私はぽかんと狐を見つめていた。


 狐の後方から少年の姿をした山犬がこちらへ駆け寄ってくるのが見える。きゃんきゃんと響く声が何を言っているのかはよくわからなかったけれど、狐を咎めていることだけはわかった。狐は笑ってそれをいなしていた。


 本当に、早く帰ってこないかな。脳裏に鬼の背中を思い浮かべた時だった。


「それをあまりいじめてくれるな、葦姫あしひめよ」


 社に響く低い声。私がそちらを見るよりも先に、細いけれど力強い腕が私の腰を抱き寄せる。目の前に広がるざんばらな黒髪。獣のにおいと甘い香のまざった香りがふわりと鼻先を掠めた。


 鬼は私を狐から隠すように抱き込む。目の前に迫る白いうなじに、私はごくりと息をのんだ。上目遣いに見上げると、鬼はその金眼を呆れたように細めて狐を見ていた。


「遅かったな、鬼御前。随分と待たされたぞ」

「そんなこと知るものか。勝手に来たお前が悪い」


 忌々しそうに吐き捨てているけれど、鬼の声はどこか柔らかい。本気ではないのだ。それに対してからからと笑う狐も、先ほどよりも心なしか明るい声音になっている。この二人は、狐が言っていたとおり気の置けない仲なのだろう。


 なぜか急に心細くなってしまう。私は鬼の着物をきゅっと握った。彼女が帰ってきてくれてほっとしているはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうか。


 私を置き去りにして、狐と鬼の会話は続く。


「酒を持ってきたぞ。上等なものだ。ありがたく思えよ」

「お前はいつもそれしか持ってこないな」

「何を言う。愛しいお前を思ってのことではないか。美しい鬼御前」

「よく回る口も相変わらずだ」


 ため息まじりに呟いて、鬼は私を見つめる。心細い気持ちを隠して首を傾げると、彼女はふっとその表情を陰らせた。


 ――なぜ? なぜ、私を見て顔を曇らせたの?


 また狐の方を向いてしまった鬼を見上げて、私は手を握りしめる。じっとりと汗ばむてのひらがいやに冷たい。


「葦姫。お前、この娘におかしなことを吹き込んではいないだろうな?」


 ――どうして、そんなことを気にするの。


「何を言うか、アタシはお前のためになることしかしないよ」

「どうだか」


 ――私に、聞かれたくないことがあるの?


 胸がどきどきと早鐘を打つ。吐く息が震えている。


「信じておくれよ。アタシはいつだって、お前の味方じゃないか」


 わざとらしい口ぶりの狐に、ふっと鬼が赤い唇を歪めた。鬼は狐の言葉に微笑んでいた。


 ――私には聞かれたくないあなたのことを、そのひとは知っているの?


 嫌な汗が背中を伝って落ちていく。私はその感覚に身を震わせると、そっと鬼の胸に手をついて体を離した。


「どうした」

「い、いえ。私、森へ出かけてきますね。ナキ様は、お友達とごゆっくりなさっていてください」

「あの狐は別に――おい、!」


 鬼の言葉を聞きたくなくて、私は速足で森へ入っていった。私の名前を呼ぶ鬼の声に振り返ることなく走る。


 ああ、こんな失礼をして、もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。せっかく、少しだけ良い関係を築けたと思っていたのに。私は少しだけ後悔した。

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