1-⑩

 答えたときの鬼の金眼は、まるで水面に映った月のようだった。ゆらゆら揺れていて、形を留めていない。その金色がこちらを睨んだかと思えば、彼女は下がり気味の眉をくっと寄せて唇を噛む。鋭い牙が皮膚を裂いて、血が零れた。白い顎に、赤い血が伝って落ちていく。私は呆然とその様子を見つめていた。


「……くだらん」


 低い声で呟くと、鬼は私の手を振り払って目を逸らす。


「雨ではないが水はもたらした。これで、お前の役目も果たされたのだろう? お前はこのまま村に帰れ」


 ついと白い指が村の方を指した。鬼の指し示す方――父の消えた先を見る。


 あの道を少し行った先に、私を育ててくれた家がある。優しい両親と、たった一人の妹。四人で過ごした日々。私が自ら手放した日常。


 私はそっと鬼を振り返る。彼女はすでに立ち上がり、山へ戻ろうとしているところだった。


「いいえ。私はあなたと共に社へ戻ります」


 その袖を掴み、私はきっぱりとそう言った。


「……なんだと?」


 乱れたざんばら髪が翻り、見開かれた金眼がこちらを鋭く射抜く。


「女よ。もう一度言ってみろ」

「あなたと共に社へ戻ります。井戸ができたとしても、私は雨乞いの生贄ですから」


 鬼はしばらくの間、こちらの内心を伺うように私を見つめていた。訝し気なようすを隠そうともしない視線に私が笑ってしまったところで、彼女も角を撫でながら「ははあ」と笑う。


「お前、おれが善意で村を救ったとでも思っているのだろうが、それは間違いだぞ。これは単なる気まぐれ、暇つぶしにすぎん。結果として村をひとつ救ったことにはなろうが、おれが残虐非道な鬼であることに変わりはない」

「あなたがそうおっしゃるのならばそうなのでしょう。けれど、私にとっても、あなたが村と私を救ってくれたことに変わりはないのです」


 袖を掴む手に力を込める。緋色が美しい単衣は、きっと上等なものなのだろう。それをこんなに泥だらけにして、彼女は村に井戸を掘ってくれた。死にかけている私に、水を持ってきてくれた。そんな鬼が、本当に残虐非道な鬼なのだろうか。


 本当は、村に戻りたくないのは、妹への後ろめたさだけが理由ではない。私は鬼の金眼をじっと見つめる。こんな小娘の視線を受けてたじろいでしまう鬼が、残虐非道な鬼だなんて。私は、彼女のことをもっと知りたいのだ。


「……おれが、恐ろしいとは思わんのか。それとも、それすらわからぬ愚か者なのか、お前は」

「恐ろしいですよ。あの夜の痛みや恐怖は忘れられません」

「ならば、なぜ」

「先ほども言ったじゃありませんか。私が雨乞いの生贄で、まだお役目を果たしていないからです。それに……お社のお手入れがまだ途中ですし」


 言いながら、私は鬼のようすを伺った。苛立ちを湛えながらも、どこか不安そうに揺れる瞳。その奥に潜む心根が知りたい。だから、どうか。


「雨が降るまでは、おそばに置いてください」


 鬼は片方だけ眉を上げると、少し考え込むように目を伏せた。長いまつ毛が金眼をけぶらせる。私は祈るような気持ちで鬼を見つめ続けた。


「……勝手にしろ」


 低く、囁くような声に、息をのむ。


「ありがとうございます!」


 飛び上がりたい気持ちを抑えつつ、私は鬼の手を掴む。彼女は首を傾げるようにしてこちらを見た。


「改めまして、私は澄子と申します。あなたのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」


 いつまで共にいられるのかはわからない。それでも、互いの名前くらいは知っておきたいと思った。


 しかし、鬼はフンと鼻を鳴らして首を振る。


「鬼に名などない。他の鬼や妖からは名嘉山なきやまの鬼と呼ばれている。それで十分だ」


 名嘉山の鬼。私は口の中でもごもごと呟く。呼ぶには長いし、そもそもそれは鬼の言うように名前ではない。


「では、その……ナキ様と、お呼びしても?」


 山の名前からとっただけの安直なそれに、彼女は呆れたようにため息をついた。少しだけ恥ずかしい。


「――好きにしろ」


 言った直後、鬼の手を掴んでいた手が握り返された。そのまま強い力で引き寄せられて、私はその胸に体を預ける。


「山に戻るぞ」


 ぶっきらぼうに告げる声とは裏腹に、私を抱き上げる腕はひどく優しい。恐ろしかったあの夜の鬼の姿が嘘のようだ。いや、きっと嘘ではないのだろう。あの苛烈さも、この穏やかさも、彼女の本当の姿なのだろう。


 鬼が静かに木の枝を蹴る。ヒュンと風を切る音が聞こえて、私は目を閉じた。


 本当に私が邪魔なのならば、今この場で落としてしまえばいいのに。わざわざ私を生きて村に返す必要など、この鬼にはないのだから。


「ナキ様」


 囁くような声で鬼を呼ぶ。彼女は一度だけこちらを見たけれど、何も言わなかった。


 少しずつ遠ざかっていく故郷を、私はじっと見つめる。村に降り注ぐ日差しはすでに真夏のものになっていた。両親らと共に山に登ったのは、まだ初夏の頃だったはずなのに。ふと、父が初夏の短さは我が子のかわいい盛りのようだと言っていたのを思い出した。ちょうど、涼子が父に反抗するようになったあたりだった。


 過ぎた日の思い出に浸りながら、私は自嘲する。この日常は、いましがた捨てたのに。


 夏はいま、盛りを迎えようとしていた。

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