1-⑤

 日が暮れかかっていることに気づいたのは、鴉の鳴き声につられて空を見上げたときだった。空は橙色に染まりきっていて、木々の隙間から僅かに見える夕陽が赤々と社を照らしていた。


 石畳を覆っていた雑草はほぼ抜き終わったし、苔むしていた鳥居や狛犬はそれなりに白さを取り戻してくれたように見える。水もなく、掃除道具は打掛を破いて作った雑巾と、いつの間にか山犬が集めていた細くやわらかい木の枝を稲わらで束ねて作ったほうきだけ。それでも、やれることはやっただろうと思う。


 満足感に浸りつつ、手作りのほうきで濡れ縁を掃いていると、社の扉を開けて鬼が現れた。


 鬼は私の姿を見つけると、黄金色の瞳を見開いて凝視してくる。信じられないといわんばかりに開かれた金眼は、夕陽を反射して場違いなほどにきらめていた。相変わらず美しい鬼だなと私は素直に見惚れることにする。


「何をしている?」


 怪訝そうに鬼が問いかける。低い声は存外静かな音で鼓膜を揺らした。


「お掃除です。水がないので十分とは言えませんが。少しはきれいになったでしょうか?」

「……おれは失せろと言ったはずだが」

「はい。しかし、私は生贄としてこちらに参りました」


 私は一瞬だけ目を伏せ、すぐに夕陽にきらめく金色を見つめる。


「私は村のために死ねと言われた身です。生きて村へ帰るわけにはいきません」

「だから? それがどうして社を掃除する理由になる」


 濡れ縁を囲む柵に腰掛けて、鬼はその長い足を見せつけるように組んだ。彼女は組んだ足の上に頬杖をついて、私の顔を覗き込む。


「いずれ私は、飢えて死ぬでしょう。何もせずに野垂れ死ぬよりも、こうしてお社を手入れして死ぬ方がいいと思ったのです。それに、お掃除をしている間は、無心になれますから」


 赤い爪の彩る指が桜色に染まる角を撫でる。鬼は何も言わない。


「ですから、どうか私をここにいさせてはいただけないでしょうか。決してお邪魔になるようなことはいたしません」


 沈みかけた夕陽は紫色の空に橙色を滲ませていた。もうすぐ日が暮れる。まだ社の中を掃除していないのに。名残惜しむ気持ちがあまりにも場違いで、私はこっそりと苦笑する。


「無心、か」


 ぽつりと呟くと、鬼は背中を反らして社の周りを見た。露になった白い喉が夕陽の色に染まりながら静かに震える。


「明日は日の出と共に留守にする。おれがいない間に社の中を手入れしろ」

「……え」

「おれがいるときは社に入るな。……まあ、屋根の下で寝ることくらいは許す」


 背中を弓なりに反らしたまま鬼が言う。そのまま彼女は体を戻す反動で柵から降り、こちらに背を向けてしまった。


「は、はい!」


 言われたことを理解できたのは、鬼が社の扉に手をかけたあたりだった。私は扉に向かって慌てて返事をする。


 気づけば、濡れ縁の下では山犬がわらを咥えて待ち構えていた。どうやら今日の寝床を作ろうとしてくれているらしい。


「お許しが出たわ。……あなたもおいで」


 手招きしてやれば、山犬はぴんと尻尾を立たせながら階段を上がってきた。


 その日は濡れ縁の上にわらを敷いて山犬と共に眠った。地面よりも硬い板で眠るせいか、山犬が持ってきていたものだけでは足りず、周辺の森を散策して見つけた若草や落ち葉を重ねた。散策中に山桃の実を見つけて、私と山犬はそれを分け合って食べることにした。その実はいままで食べたどんなものよりも、瑞々しくおいしかった。


  ◆


 明け方に目覚めた私は、鳥居の上に座る鬼の姿を見た。朝焼けに照らされてきらめく黄金がこちらを向いたかと思えば、鬼は立ち上がってどこかへ飛び去ってしまう。鬼が出かけると言っていたことを思い出し、私は視線だけで鬼を見送った。


 周囲はまだ薄暗い。腰のあたりを見れば、山犬はまだ眠っている。丸まっている背中を撫でてやれば、山犬は気持ちよさそうに鼻を鳴らした。山犬を起こさないようにゆっくりとわらから抜け出し、私は社の扉を開ける。扉が勝手に閉じないようになるまで開けると、やっと昇り始めた朝日を受けて社の中がぼんやりと照らし出された。


 社の中はがらんとしていた。最初に入ったときには暗くてわからなかったが、正面の奥は小上がりになっており、その上には小さな神棚が飾られている。小上がりには何枚にも重ねられたむしろがある。そこから甘い香と獣の体臭が混じったような匂いがした。あの鬼からしたにおいだ。どうやら鬼はここを寝床にしているらしい。小上がりを降りてすぐのところには空になった瓢箪がいくつも転がっていた。


 ぼんやりと社の中を見ていると、とんとふくらはぎの後ろを押されて足元を見る。こちらを見上げる山犬と目が合って、私は目を細めた。起こさないように抜け出してきたつもりだったが、山犬も目を覚ましたらしい。


 日の出と共に社の掃除を始める。小上がりに敷かれているむしろと転がっている瓢箪を外に出し、ほうきを持ち上げて天井のくもの巣を払う。天井の汚れをすべて落としきった後は、積もりに積もった埃を掃き出して、開け放った扉から新しい空気を入れた。


 薄暗く感じた社は、こうして空気を入れ替えていると少しだけ明るくなったように思う。天井の穴から差し込んでくる陽光も相まって、神秘的な空気が増したような気がした。


 社の換気をしている間、私は社から持ち出したむしろを濡れ縁にかけて干すことにした。干している間、森の中からいくつかの稲わらを持ってきって小上がりに積んていく。この上にむしろを敷けば、もっと柔らかい寝床になるだろう。むしろを戻し、私は濡れ縁に並べた瓢箪を見た。もしかしたら何かに使うことがあるのかもしれない。社の隅にまとめて並べておこうと瓢箪を持ち上げると、それからはわずかに酒の匂いがした。


 あの鬼は酒を飲むのだろうか。月夜の晩に一人で酒を楽しむ鬼の姿を想像する。


「……絵になるんだろうなあ」


 うつくしい鬼。あの鬼は、どうしてこの社にたった一人で過ごしているのだろう。


「寂しくは、ないのかしら」


 ぽつりと呟いた刹那、自分の膝から下がなくなったような感覚を覚えた。視界がぐるんと回転して、顔から床に倒れこんでしまう。じんと痛む頬よりも、抱えていた瓢箪が社の中に転がっていくことの方が切なかった。


 せっかくきれいにしたのにと思いながら立ち上がろうとして「あれ」と思わず声を上げる。腕に力が入らない。倒れたまま動かない私の元に山犬が駆け寄ってくる。山犬はくぅんと切なそうに鳴きながら頬を舐めてきた。


「ふふ、くすぐったい……」


 安心させるために頭を撫でてやりたかったが、腕を持ち上げるだけの力もないらしい。私は代わりに山犬の目を見つめる。吊り上がった目はどこか頼りなく潤んでいて、思わず眉を下げながら笑ってしまった。


 どうしようもないから気づかないふりをしていたけれど、出会った頃からこの山犬の体は痩せていた。私と出会う前からずっと、飲まず食わずで過ごしていたのだろう。どうしてこの山犬は自分についてきてくれたのだろうか。


「私が死んだら、あなたは私を食べて生きるのよ……」


 山犬の目を見つめながら囁く。村のために死ぬことが決まっている私とは違い、山犬がここで死んでいい理由はない。ならば、出会ったあの夜にそうしようとしたように、この山犬の臓腑をとおしてこの身を山の神の元へ届けてほしかった。


 山犬はぱたりと尻尾をひとつ振るだけで、返事をしない。


 ゆっくりと暗くなっていく視界。雨乞いという勤めを果たすことはできなかったけれど、これでやっと死ぬことができる。


 ああ、でも、倒れるなら社の外が良かったな。


「彼女は……怒るのかしら……」


 消え入りそうな声を他人事のように聞きながら、私は意識を手放した。

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