ひとよ かみよ うつくしきあなたよ

すが

初夏の章

1-①

 山中の獣道を、私は三人の村人と共に歩く。


 鉈で道を開きながら先導するのは父。横で私を支えてくれているのは母。後続するのが、父の古くからの友人だった。


 まだ日中だというのに獣道は薄暗く、時折木々の擦れ合う音がざわざわと響いていた。少し遠いが、獣の鳴き声のようなものも聞こえる。


 私は落ち着かない気持ちで父の背中を見た。三人とも生成の小袖を着ている中、私だけが真っ白な花嫁衣装を着ているのも落ち着かなくさせる要因だった。結局、私は俯いて足元を見つめる。白い裾はすでに砂で汚れ、雑草でどこかを切ったのか血も滲んでいた。せっかくの上等な生地なのにもったいないな、なんて今さら思った。


 ふと、膝から下の力が抜けて倒れそうになる。母が腕を掴んでくれたおかげで倒れずに済んだ。振り向いた父が「大丈夫か、澄子すみこ」と眉を下げる。


「スミちゃん、大丈夫? お水飲むかね」

「いいよ、お母さん。お母さんたちは帰りもあるんだから、とっておいて」


 差し出された竹筒をやんわりと断ると、母の顔が少しだけ歪んだ。それは一瞬のことで、すぐに「ありがとうねえ」と小さく笑う。


「少し、休もうか」


 後ろから提案したのは父の友人だった。彼の視線は、先ほどから小刻みに震えている私の足に向けられている。申し訳なく思いながらも、私はそれに小さく頷いた。


 近くにあった倒木に腰掛け、私は木々の隙間から切れ切れに覗く空を見上げた。早朝に、麓にある村から出発して、名嘉なきと呼ばれるこの山を登り始めてからどれくらい経っただろうか。密集した木々が初夏の陽光を遮るせいで、正確な時刻はよくわからない。


「お父さん、あとどれくらいで着くの?」

「もう少しだ。だから、休憩しよう」

「……うん。そうだね」


 隣に座った父の肩に頭を乗せる。父は寂しそうに笑って頭を撫でてくれた。大きなてのひらが髪をかき混ぜる。少し乱暴だけれど、優しい父の撫で方。目をつむって、私はその感触を受け止めていた。


 目的地である社は山の中腹にあるという。村人たちの間では、その社には古くから山の神が住むと伝えられていた。


 これから私は、山の神に生贄として捧げられる。


 私たちの村は、山から下りてくる水を使って作物を育てている農村だ。春は山菜、夏は野菜、秋には米。冷たく透きとおった山の水をたっぷりと使った作物の評判はよく、村はそれらを売って生計を立てていた。外の村に売り出しても有り余る作物で冬を越し、春になるとまた種をまく。村人たちはそうやって親から子へ、子からまたその子へと生きる術を伝えていった。質素な暮らしぶりではあったけれど、私はそれがとても幸福なことであると知っている。


 異変を感じたのは春の終わり頃だったと思う。


 ――最近はお天気が続くねえ。

 ――本当に。いいことだよ。洗濯物もよく乾くし、子どもも外で遊んでくれるし。


 連日村に降り注ぐ陽光を、洗濯物を干す女たちは素直に喜んでいた。男たちも畑仕事が捗っていいと笑い、子どもたちは連れ立って外へ遊びにでかけていた。


 さわさわとそよぐ風と流れる川。村には人々と自然が交互に奏でる音が響いていた。


 ――ねえ、川の水がなくなっちまったよ! 前に雨が降ったのはいつだったかねえ。

 ――いやだよ、これじゃあ畑が涸れちまうじゃないか。


 村人たちの声が畑を心配する声に変わって間もなく、山から流れる川は蛇のように細くなってしまっていた。


 山の水が涸れてしまえば作物は育たない。村人たちは冬を越すために備えていた食料を分け合って飢えをしのいだ。それでも雨は降らず、備蓄していた食料も少しずつ底が見え始めていた。


 村中に響いていた穏やかな自然の音は、いつの間にか死に絶えたように聞こえなくなっていた。それでも、初夏の陽光は容赦なく村を焼き続ける。何度か雨乞いの儀を催したけれど、効果は現れなかった。このままでは、夏の盛りを迎えた頃には、村人は全員死んでしまうだろう。痺れを切らした村の老人たちは、村で一番美しい娘を山の神に捧げて雨を乞うことを決めたのだった。


「そろそろ、行こうか」


 父の友人が腰を上げる。


 出発前、彼は、自分は村の老人たちから監視役を任されているのだと私たちに教えてくれていた。私が逃げ出さないように、両親が私を逃がさないように、と。彼は赤く腫れた目で私たちを見張っている。彼の母親はこの日照りで出た最初の死者だった。


「もう少し、休んだらいいんじゃないかしら。ね、スミちゃん?」

「……ううん、お母さん。私は大丈夫。行きましょう」


 なかなか腰を上げない母の手を引くようにして、私は立ち上がる。わずかばかりに抵抗を見せる母の手の頼りなさに、思わず目を見開いた。弾かれたように先導する父の背中を見る。今日まで自分を育ててくれた父の背中は、こんなにも小さかっただろうか。


 目的地に到着したのは、それから半刻ほど歩いた後だった。ここだとすぐに理解できたのは、社に着いた瞬間に視界がぱっと開けたからだろう。顔を上げれば、目が痛くなるほどの青空が見える。今まで天井を塞いでいた木々が、社の敷地と思われる範囲にだけ生えていないのだ。


 社はこぢんまりとしたもので、石造りの鳥居と一対の狛犬、それから山小屋のような社が建っているのみだ。よく見れば、苔と雑草に埋もれてしまってはいるけれど、鳥居の少し手前あたりから社に続くまでの道のりに石畳が敷かれていた。陽光を受けながら静かに佇むそれは、こんな時なのにどこか美しく見える。


 先導していた父が鳥居の前で立ち止まる。そっと石畳の道から外れて、父は真っ直ぐに私を見つめた。自分たちはここまでだと、ここから先はお前だけが進めるのだと言うように。


 ざわりと木々が騒めく。社の扉は私を待ち構えていたといわんばかりに開かれている。


 私は父を見つめ返して頷いた。


 その刹那、母がずっと握っていた手を更に強く握りしめる。その手はひどく冷たく、震えていた。小さく聞こえるのは嗚咽だろう。母の肩をそっと撫でて、私はゆっくりとその手を解いた。父を追い越し、鳥居をくぐる。


 ほんの十数歩で行けるような社までの道のりを、私はなるべくゆっくりと進んだ。社の扉へ続く木の階段は、それを責めるように大きく軋む。


 社の中に入ってから振り返り、ここまで一緒に来てくれた三人に微笑んだ。父の震える肩も、母の嗚咽も、父の友人の後悔に満ちた瞳も、すべてに気づかないふりをして。


「お父さん、お母さん、いままでお世話になりました。二人とも大好きよ。おじさん、ここまで一緒に来てくれてありがとう」


 そう言って社の扉に手をかける。この扉を閉めたら、きっともう二度と戻れない。最後に、父にもう一度だけ頭を撫でてもらえばよかった。


「三人とも、気をつけて帰ってね」


 最後の言葉を紡いだ声が震えていないようにと祈りながら、私は社の扉をゆっくりと閉じた。

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