ボイスユーザー

お題

・驚き

・ドレッドノート

・有害

・ヘロイン

・無限の猿定理

・知名度

・おかし

・考古学

・逆上がり

・武器軟膏


――――

 ガササ、と小さな影が部屋の隅を横切り、白石はハッとした。彼は慌てて周囲を見渡す。視界に映るのは、古めかしい染みの浮かぶコンクリートの壁と、木製のテーブルが一つ。テーブルの上には、これまた古びたランプが乗せられており、静かに蝋燭が辺りを照らしている。

 どうやら光源はこれしかないらしい。白石は数度瞬きをしてから再び目を凝らした。薄明りでも、何とか室内の状態は見て取れた。

 つい先ほどまで誰かが食事をしていたのだろうか、テーブルの上にはシチュー皿が置かれている。中身は空っぽだ。丁寧に舐めとったのだろう、ほんの少しも食べ残しは無かった。

 皿の隣にはガラス製のピッチャーが置かれており、中を水が満たしているらしい。そういえば喉が渇いたな、と彼は手を伸ばした。

「うっ……」

 唐突に、彼の腹部を激痛が走る。鋭い痛みに思わず涙が浮かんだ。いったいどうしたことか、彼は恐る恐る自らの腹部にそっと手を触れた。

「なんだ、これは」

 白石の腹には、幾重にも包帯が巻き付けられていた。しかし、その包帯すら血でぐっしょりと濡れている。誰の血かは明白であろう。彼はうんと頭を捻った。

 どうして腹に穴が開いているのだろう。そもそもここはいったいどこだろう。それに、誰が傷の手当てをしてくれたのだろうと。

 そんな彼の疑問は、すぐに解消された。

「あら、目が覚めたのね」

 背後から声がしたのだ。

 白石は腹の痛みをこらえながら、ゆっくりと後ろを向く。そこに立っていたのは金髪の美女だった。健康的な肌に、スリムな体系。ロシア系だろうか、青色の瞳が蝋燭の光を反射して淡くきらめいている。

 彼女は困惑する白石に優しく微笑むと、彼の元まで歩み寄りつつ口を開いた。

「ごめんなさいね、こんな適当な治療しかできなくて」

「あ、いや。その」

「無理に喋らなくていいわ、白石博士」

 彼女は白石の前に腰掛けると、グラスに水を注いでそっと差し出す。喉が渇いていたことを思い出した男は、震える手でそれを受け取った。

「私の名前はドレッドノート。みんなからはドレッドって呼ばれているわ。まぁ、コードネームみたいなもので本名じゃないのだけれど、ほら、今は名前を隠しとかなきゃ危ないでしょう。少なくともあなたの味方だから、安心してね」

 白石は彼女の自己紹介を聞き流しつつ、音を立てて水を飲み干す。

「いい飲みっぷりね。元気そうで安心したわ」

 彼女は彼のグラスに再び水を注いでやると、口を開いた。

「まず、ここがどこなのかって顔しているから先に答えとくわ。ここは私たちの地下アジト。一応場所は旧大阪府難波駅地下御堂筋線のあたりよ。まぁ、今は人間に利活用されるような場所じゃないのだけれど」

 彼女の言葉に白石が首をかしげると、ドレッドは優し気に頷いた。

「博士からしたら、何のことか分からないわよね。でも、こうなった原因には博士にもあるの。だから、申し訳ないけど私の話を聞いてくれるかしら」

 彼女の言葉を訝しむ様子で白石は頷いた。

「ありがとう博士。あなたは今や有名人。知名度はアメリカ大統領よりあるもんだから、こうして匿うのも大変だったのよ。だから、これから先も協力的でいてくれると、私としても助かるわ」

 彼女は白石が口を付けたグラスに水を注ぐと、クイッと自らもそれを飲む。そしてグイっと顔を近づけた。

「まずどこから話したらいいのか悩むのだけれど、シンプルに博士の研究内容から振り返るとするわ」

 白石は頷く。少しずつ、彼の脳内に過去の記憶がよみがえってきた。

 彼は生粋の考古学者だった。時間と金さえあれば世界中を飛んで回り、古びた遺跡の調査をするのが日課だったのだ。もちろん、そんな金などめったに湧いてこない。だから普段は研究室に引きこもり、集めてきたサンプルを元に遥か過去の世界に思いを馳せるばかり。

 もちろん、特に大きな成果も出せていない無名考古学者だ。彼のことを知る人間など、海岸に漂着するエルメスの靴より少ないだろう。ところが、ドレッドノートは彼のことを有名人だと口にした。それはどういうことだろうか。

「博士が発見した、超極小古代文明の手掛かりは、あなたが研究室に籠っている間大きな進展を見せたの」

 彼女の言葉に、とある建造物を思い出す。それは、今から三十万年ほど前の地層から発見されたものだった。小指サイズの、携帯電話に似た形状の何かを発見したのだ。もちろん、最初にこれを発表したときは馬鹿にされた。フィギュア制作師とタッグを組んでエイプリルフールネタでも考えたのかと週刊誌で取りざたされたほどだ。

 彼は、それでも諦めきれなかった。もしかしたら小人族のようなおとぎ話とも思える存在を証明できるかもしれない。そう思えばこそ、必死で研究に没頭できた。

 そうだ、確か意識を失う前日も、サンプルの調査をしていた。発見された携帯電話型の何かにエックス線を当てて、中身を確認しようとしたんだ。それから彼は、突然意識を失った。

「実は、白石博士が発見した例の物質は、確立固定装置だったの」

「確立固定装置? なんだそれは」

 白石は首を捻る。聞いたことも無い。彼が提唱した理論にも、これまで読んだ論文にもそんなものは乗っていない。だが、言葉の意味合いから大体のことは察しが付く。

「博士、無限の猿理論はご存じですよね?」

「あぁ」

 無限の猿理論、それは、猿を閉じ込めて永遠にタイプライターを叩かせていれば、いずれ意味のある言葉を生み出すはずだという理論だ。理論上、ランダムに配置された言葉だとしても、偶然意味を持った言語が発言する可能性はある。

「それがどうしたんだい」

「実は例の確立固定装置は、無限の猿を実際に生み出す装置だったんです」

「はぁ?」

 何を言っているのか理解できない、と言いたげに驚きの声を上げた白石だったが、あまりに力み過ぎたのだろう。再び強烈な腹痛が彼を襲った。

「うぐっ」

「博士、大丈夫ですか?」

 ドレッドノートが慌てて駆け寄るも、博士の表情は苦痛に歪んだままである。

「博士、今はこれしかないんです、凌いでください」

 彼女はポケットから一枚のビスケットを取り出して、そっと白石の口に含ませた。

「な、なんだこれは。おかしじゃないか」

「中にヘロインが入っています。一時ですが、痛みを抑えられるかと」

 彼女の言葉と、現状を加味して白石は咀嚼する。きっと医療も崩壊しているのだろう。彼女の言葉から察するに、文明が現存しているのかすら怪しいものだ。

「ありがとう、少し良くなったよ」

 対症療法でしかないことは分かっている。痛み止めとして扱っていいのかすら怪しいものだ。ビスケットに混ぜ込まれた違法薬物、きっとこれまでは裏ルートで出回っていたものだろう。それが今では、薬の代わりとは。

「すまない、話を続けてくれ。無限の猿を実際に生み出すというのは、つまりどういうことなんだい」

 白石の疑問に、ドレッドノートは少しだけ悩んだ素振りを見せてから立ち上がった。

「そうですね。実際に見せた方がいいかもしれません」

「見せる?」

 白石が首を捻った途端だった。突然彼女の周りを無数のゴキブリが覆い始めたのだ。先ほど部屋の隅で何かが動いたように感じた。それはきっと、このゴキブリたちだ。

「な、なんだこの数は!」

 白石が驚くのも無理はない。一人の女性を真っ黒なゴキブリが覆いつくし、それでも足りず溢れた者が白石の脚を登ってくるのだ。

「こら、博士を困らせないの」

 ドレッドノートが優しく声をかけると、ゴキブリがピタリと動きを止める。

「な、なんだったんだ一体……」

 白石の恐怖に歪んだ表情を見て、なぜか彼女は少し嬉しそうに笑った。

「これが私のボイスです」

「ボイス?」

「えぇ」

 彼女が頷くと、ゴキブリたちも自分の役目が終わったと察したのだろう。一目散にどこかへと走り去っていった。

「私に与えられた言葉は、ゴキブリへの指揮命令権でした」

「それと、私の研究と、一体何の関係が?」

「実は、博士が見つけた例の装置は、かつて人類が文明を築く上で使われていたものなんです」

「あんな小さいものが?」

 人が作ったとは思えない。それこそ、大型のネズミとかが携帯を所持していたらあんな形だろうか。

「ええ、あんな小さいものが。です。恐らく作ったのは人間ではない何者かでしょう。とても小さく、とても狡猾で、とても高慢な何者かです。そして、そいつらがきっとその機械を用いて人類を発展させてきた」

「なんだその突拍子もない話は」

「博士も見たじゃないですか、私のボイスを。あんなこと、普通の人間ができると思いますか?」

 世界中の科学者が逆立ち、いや、逆上がりしたってできそうにない。生物の指揮命令なんて可能なら、戦争そのものが大きく変わってしまうだろう。それこそ本当の生物兵器だ。

 ん? 待てよ? と白石は言葉を詰まらせる。

「まさか文明崩壊って……」

 彼の言葉に、ドレッドノートは頷く。

「ご察しの通りです。今、この世界における人類の大半は何者かの指揮命令下に置かれています」

「それは、私の研究のせいなのか?」

「ええ、博士が例の装置を研究している際に発生したとされる有害な電波が、一部の生物にボイスを与えてしまったのです。ボイスを受け取った生物の言葉は、無限の猿定理に従って、ランダムな音声変換が自動的に発生。その音波をキャッチできる特定の生物に作用し、指揮命令権を会得する形となっています。まぁ、簡単に説明しますと、例の装置から発せられた電波を浴びた生物の一部が、他生物を操作する特殊能力を得た、ということですね。私のような能力者が、それこそ他にもいるわけです」

「そんな、私のせいで、この世界は崩壊したというのか」

 白石の顔に絶望の色が浮かぶ。それもそうだろう。彼が考古学者の道を選んだのは、人類発展のためでもあった。過去の人類がどのように発展してきたのかを知り、そして過去の人類がどのようにして滅んだのかを知る。その先に、より良い未来を見つけられると信じていたのだから。

「私は、私はどうしたらいいんだ」

「落ち着いてください博士」

 ドレッドノートは白石の肩を優しく叩いた。彼女の瞳には、決意の炎が灯されている。

「ボイスには必ず条件があります。私の場合は支配下に置いたゴキブリたちの食糧確保。そして、人類を支配した存在に課せられた条件は、個体識別名の記憶です。憶測にすぎませんが。恐らく、何者かによる指揮命令権を発動するのには、フルネームが必要です。私のように普段からコードネームで活動していた暗殺者やスパイは、今も正常な意識を保ったままなんです。私たちはその事実にたどり着き、状況を打破するために今もやり取りを続けています。世界中が一丸となって、人類を支配した何者かを抹消し、我々の自由を取り戻すため活動しているんです」

 それから彼女は優しく微笑みを浮かべる。

「それに、私たちは博士をついに見つけることができました。どうやら例の装置を起動したあなたが、例の装置を操作する権限を有しているようなのです。ボイスを持っている存在全てに、それぞれ固有の制限がかかっています。その制限を解除できるのは、どうやら装置稼働権限者だけみたいなんです」

「つまり、私が君たちの能力発動条件を解除できるということか」

「その通りです。結果として、今人類を支配しているボイスユーザーは、全人類を総動員して博士を探しています。博士を捕らえて、制限を解除してもらうつもりなんでしょう。いや、もしかしたらユーザー権限の移行をもくろんでいるのかもしれません」

「どうしてそんなことが分かるんだ」

 博士の疑問に、彼女はそっと携帯端末の画面を見せた。そこには、日本の総理大臣が大声を怒鳴り上げる姿が映し出されている。

「白石博士はどこだ! 白石を出せ! 白石が独占しているボイスユーザー権限を我々に譲渡しろ! これは力の独占であり、違法である!」

 国会中継で頼りなく俯いてばかりいた老人とは思えない迫力だった。

「今、世界中の人類がそれぞれの言語で同じ内容の言葉を喋っています。私たちは、彼らの発言と発見した資料を基に、博士を見つけ出すことに成功しました」

「それで、私を捕まえて君たちは何をしようというのだね」

 彼女は博士の肩をポンポンと叩いて笑う。

「そんなの決まってるじゃないですか。ユーザー権限を行使して、人類を操っている黒幕をぶっ倒すんですよ!」

 彼女のたくましい姿に、思わず苦笑いを浮かべる白石だったが、ひとつ疑問が浮かぶ。

「では、なぜ私は刺されているんだ? 今の話だと、君たちは私の声を使って人類を解放させたい。奴等は私の声を使って世界を支配したいのであろう? 命を狙われる筋合いはないじゃないか!」

 彼女はその言葉に、神妙な面持ちで頷く。

「ええ、恐らくですが、私たちの中に裏切り者が居ます。博士を殺して、この世界を混沌に導こうとしている者が。そいつが博士の命を狙っているんです」

 彼女は懐から軟膏を取り出して見せた。

「まず、私たちはこれから、その裏切り者を見つけ出しましょう」

「それは、懲らしめるため、なのか?」

「それもありますが、博士の怪我を治す目的も含まれています」

「怪我を治す?」

 彼女は軟膏の蓋を開けて中を見せた。紫色のスライム状をした物がぶるんと揺れる。

「これは、怪我に対するボイスを授かった人から譲り受けた、武器軟膏です。博士を刺した武器にこれを塗れば、博士の傷が治ります。だから、まず私たちの最初の目的は、博士の腹を刺した武器探し、ということになりますね」

 これから待ち受けているであろう戦いの匂いを感じ取ったのか、白石は大きなくしゃみを一つした。直後走った激痛にうずくまる。そんな彼の頼りない姿を目にして、ドレッドノートは声を上げて笑うのだった。

「気楽にいきましょうよ、博士。人類解放運動は、これからです」

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