ノンストップ・チョップスティックス

@sunf

第1話 おい「地獄たまご」さ食べるんだで!

 「ごめんねお二人さん。そこの水槽の前でちょっと待ってて」


  青い暖簾をくぐると、奥の方からハスキーな女性の声が聞こえた。顔は確認できないが、その声質だけでなんとなく年齢が想像できる。狭い店内は人で溢れていて、一瞬たりとも話し声が途切れることがない。二人はその熱気に思わず後ずさりをしたが、言われるがままに水槽の前で待つことにした。


「ねぇ、こんな混んでるけど新幹線間に合うかな」


 モモエは心配そうに大きなナップザックから財布を取り出した。中に入れてある東京行き十五時発のチケットを忙しそうに左右に振っている。


「うーん。あと一時間はあるし大丈夫じゃん? もうすぐ座れそうだし」


「分かった、信じる」


 能天気に水槽の魚を指で先導しているサチの姿を見て、彼女はとりあえず安心したのか切符をしまった。サチの青と紫が混じった長い髪は、水槽に良く似合っている。


 中学時代の友達であるサチとモモエは、大学の夏休みを利用して避暑地に旅行に来ていた。楽しい時間はずんずんと過ぎていき、今はもう帰り道。

 二人は新幹線の乗り継ぎの空き時間を利用して昼食をとることにしたのだが、いくら新幹線が通る駅とは言えど田舎は田舎で、二人の空腹を満たせそうな店はそこまでなかった。

 そんな中モモエが「ここいいんじゃない?」とサチに提案したのが、ここ「タヌキ食堂」である。丁度スマホで同じ店を見つけていたサチは、すぐさまそれに合意した。そして二人は、駅から十分弱歩いた先にあったささくれが目立つ木造建築に入っていったのである。時刻は十三時半、旅を締めくくる昼食が始まる。


 二人が水槽に前で待っていると、目の前を小さな子どもが二人横切った。彼等が走ってきた方向には会計をしている男女がいる。


「あやちゃん、二十円ある?」


「あるあるちょっと待ってね」


と、女性の方が子どもに視線を送りつつ財布のチャックを開けていた。


 子どもはかろうじて店の外には出ておらず、暖簾の下で何やら楽しそうに話している。「もうむり、何も食べれないよぉ」「ねぇお腹見て、ぱんっぱん」弟らしき男の子が、生地の薄いTシャツをぺろりとめくると、たぬきのように膨らんだお腹が顔を出した。姉らしき女の子がそれを軽く叩くと、弟は大袈裟に痛そうなフリをした。


「お待ちの二名様~」


 店に響き渡るハスキーな声が聞こえたのは、それから間もなくのことだった。


 テーブル席から障子を一枚挟んだ向こう、お座敷席に案内された二人は靴を脱いで席についた。木製の机は、彼女らが両手を広げてもまだ余裕がある程の大きさである。


「あと丁度一時間位だね。間に合いそうで良かった」


「余裕じゃん。はぁお腹すいた。何食べよっかなぁ」


 サチが所々染みのあるメニュー表を手に取った。パラパラとめくると、麺類、丼もの、定食、一品……と、様々な料理名が並んでいた。むしろここにないものを見つける方が難しいほどである。


「ちょっとモモエ、ここ何でもあるよ」


 サチは嬉しそうにメニュー表を眺める。価格も八百円前後とリーズナブルで、時間に余裕さえあればずっと悩んでいられそうである。


「温泉たまごもあるよ。食べる?」


 メニューを捲りながら、サチが力強い黒い字で「温泉たまご」と書かれた場所を指差す。彼女がわざわざそれを指し、モモエに悪戯っぽい笑顔を見せたのにはきちんと訳がある。そしてモモエの方も、きちんとそれを分かっていた。


「いいって。もう」


 二人の頭の中には同じ映像が流れていた。彼女達から温泉たまごを食べる気を奪ったそれこそが「地獄たまご」である。


・・・・・・


 時間は旅行最終日、つまり今朝まで遡る。


 お土産をつめたナップザックを背負って宿を後にした二人は、数分歩いてすぐに立ち止まった。脳を麻痺させるほどの硫黄の匂いに包まれながらみているのは、神社で手を洗う「手水舎」によく似ている建築物。木枠の中には透明なお湯がたっぷり入っていて、湯気は色濃く空高くへと昇っている。


「ねぇ、これ見てよ」


 サチが看板を指差した。黒い小さな文字は消えかけてよく読めないが、赤いインクで書かれた「温泉たまご」の文字だけははっきりと読むことができる。


「そう言えば食べてなかったね」


 モモエが木枠の中を覗き込みながら言う。二人は二泊三日で温泉地に旅行に来ていたわけだが、アイスやらおまんじゅうやらばかりで醍醐味である温泉たまごは全く食べていなかった。温泉たまごを作るために、こうしてスペースが用意されているのは知っていたし実際何度かみていたが、立ち止まったのは今回が初めてだった。

 

「でも、温泉たまごって、自分達で作るんでしょ。それって観光客には難しそうじゃない?」


「せっかく温泉地に来たら食べたいじゃん!」


 映画を観るときはポップコーン、クリスマスにはチキン、海の近くに来たら海鮮丼を必ず食べるサチにとって、「温泉地に来たのに温泉たまごを食べない」というのは苦しい選択だった。モモエも長い付き合いなのでそれはよく分かっていたのだが、知らない土地で難しそうなことにチャレンジをする勇気はない。


「ちょっとググってみたけど、レシピありそうだよ」


「たまごを掬うおたまとか、食べ終わった殻を入れる袋とか買って、まずはこの温泉の温度を調べるところからやるってこと?」


 サチの口角は一気に下がり、また視線をスマホに戻す。


「モモエ、あんた理系なんだから温泉たまごぐらい……」


「ごめん、理工学部は温泉たまごの作り方習わないんだよね。芸術学部はどう?」


「すいません。芸術学部も習わないです」


「温泉たまごは芸術作品じゃないのか」


 深刻な雰囲気、とまではいかないが、二人は少し黙ってしまった。この旅で初めての思い通りにならないことと言っても過言ではない。お互いに温泉たまごを食べたいという目標は一致しているのだが、湯煙たちこめるこの中に卵を落として、それを救出できる気はしないのである。


「じゃあさ、もう出来てる温泉たまご買うってのは?」


 モモエが溜息交じりに言う。


「それしかなさそうだね」


 サチも湯煙を顔に浴びながら面倒くさそうに答えた。


「よし、じゃあ昨日行ったスーパーだかコンビニだか分からんところに行くか」


 二人はまた歩きだした。どこをあるいても、やはり硫黄の匂いはついてくる。


 五分も経たない内に、薄い緑の看板に「オザワマート」と書かれた建物についた。昨晩二人がお菓子やらお酒やらを買った場所である。カウンターには、昨日と同じくお婆さんが座っている。軽く手を挙げてたのは、「いらっしゃいませ」の代わりなのだろうか。


「あ、あるじゃん。三個入りでいい?」


「うん」


 サチのテンションは、明らかにいつも通りではなかった。ギリギリ手が届かなかった出来立ての温泉たまごに未練があるのだろう。

 

「じゃあ一人六十円ね。」


 モモエはそんなサチのことを分かっていたが、解決策も思いつかないのでどうにか気が紛れてくれるまで待つしかないと思った。


「これじゃないでしょ」


 思わぬところから声を掛けられ、二人はすぐに振り返る。声の主は、カウンターに座っていたはずのお婆さんだった。彼女は骨ばった細い腕で、生卵が入ったパックに手を伸ばした。


「すません、私達温泉たまごが食べたくて、」


 モモエが普段よりも少し高い声で慌てて説明する。


「出来てるものを食べてもつまらないでしょう。ほら、ここは温泉がたっぷり出るから作る場所も沢山あるのよ」


「でも、私たちやり方……」


「作れるんですか?」


 前のめりになったサチが聞く。お婆さんから見た彼女の目は、きっとキラキラして見えたことだろう。


「うん。おばあちゃんが教えてあげるからね」


こうして二人とお婆さんは生卵を持って店を出た。


 三人はお婆さんを先頭にして坂を上っていく。

がしがしと歩く彼女に対し、サチとモモエはこまめに足を止めていた。息をする度、背中のナップザックが上下する。


 ようやく坂の上に着くと、ささくれだらけの木造建築が並んだ先に手を振るお婆さんが見えた。近付くと、今度はむわっとした熱気が額を蒸らす。


「この場所いいでしょう。おし、ちゃっちゃと作っちゃいな」


 お婆さんは、サチに持ち手の長い竹籠を渡した。中には白とオレンジの卵が、底を隠すように入っている。


「これを温泉につけて七分ね。タイマーも入っているから、きっちり見といて。はい、やっといで」


 二人はお礼を言って、温泉の方へと向かった。それから卵を沈め、近くにあったベンチに座り、一緒にタイマーを見つめる。


「めっちゃ嬉しい。わくわくする」


 待ち遠しそうにつま先でパタパタと地面を叩くサチ。その様子を見ていて、モモエも思わず下唇を噛むほど高揚してきた。


「サチ良かったね。出来立ての食べれるじゃん」


「あのお婆さん最高すぎね」


 七分経つ頃には、二人は背中にびっしりと汗をかいていた。サチは長い髪を下ろしていたせいで、うなじの辺りはサウナのようになっている。

ラスト五秒を声に出して数えると、サチはすぐに竹籠を引き揚げました。見た目は何も変わっていないが、湯気がでているだけで立派な料理に見える。


「お、できたねぇ。じゃあおばあちゃんに貸してみ」


 お婆さんはまだ熱々の温泉たまごを手に取ると、見たことのない器具をエプロンのポケットから取り出した。黄色くて小さなそれは、まるでおもちゃの破片のように見える。彼女がそれをたまごにあてがうと、不思議とたまごの上部が蓋のようにぱかっと開いた。


「え、今何やったの?」


 モモエが聞くと、お婆さんは満足そうに答える。


「これ、温泉たまごを食べるための道具なの。ここいらの人は皆持ってるよ」


 それからモモエにたまごを渡して、


「さ、熱々の内に食べちゃいな」


と言い、にんまりと笑った。


 二人は指の先で熱々の温泉たまごを持ちながら、爪楊枝を中に刺してみた。すると朝日のように鮮やかなオレンジの黄身がぷつ、と溢れた。


「うわぁもうこれ、」


 サチはまだ喋り終わらない内に、爪楊枝の先を舐めた。ふんわりと硫黄の香りがした後、濃縮されたような濃い黄身の味が広がる。


 サチは何も言わず、目を見開いて一気に爪楊枝を動かす。何もいわなくとも、感想が伝わってくる。それを見ていたモモエは我慢できるはずもなく、後に続いた。「美味しい」と短い感想を述べるだけだったが、その表情からいかに美味しかったか伝わってくる。「そうでしょ、そうでしょう」とお婆さんは満足そうに笑っている。


「ほれ、もう一個」


 二人が食べ終わると、時間を空けずにまた温泉たまごが渡された。普段なら卵を一日に二個食べることに罪悪感を覚える二人だが、今回に至ってはただただ嬉しかった。


「ありがとうございます。いただき……」


 そこまで言ったところで、サチの手が止まった。たまごの中を除きこんで素っ頓狂な顔をしている。


「この赤いの、何ですか?」


 温泉たまごの美しい白と魅惑のオレンジの他にもう一つ、不審な赤が混ざっている。

「これね、キムチ。温泉たまごにキムチをいれると、『地獄たまご』になるんだよ。おばあちゃんの店特製だから、食べて」


 そう言うと、お婆さんはポッケに入っていたタッパーからキムチを取り出して、手でひょいとつまみ上げて食べた。細かく切られた人参、キュウリ、山芋が入ったキムチは。唐辛子の辛さよりも野菜の甘さが際立つ。それがクリーミーな温泉たまごの中に入ると、旨味の化け物へと変化するのだった。


 ただの卵を温泉に入れて、ちょっとキムチを入れるだけでこんなにも完成された料理になるのかと、二人は感動のあまりその後も無言のまま食べ薦めた。「いや、地獄たまごはもはや芸術だよ」モモエが思わず言った一言がその美味しさを物語っている。


・・・・・・



 「もうただの温泉たまごじゃ満足できないよ」


 サチは幸せそうに目を閉じて言った。濃厚でピリ辛で甘いあの芸術的な味は、頭の中で思い返すだけで美味しい。


「そりゃそうだよね」


 モモエも同じ味を思い返して、メニュー表に視線を戻した。結局彼女はチャーシュー麺、サチは唐揚げ定食を頼むことにした。「すいませーん」とモモエが少し大きめの声を出すと、すぐに「はーい」とハスキーな声が聞こえた。


 注文を終えその後も暫くメニュー表を眺めていると、隣の席に座っていた五十代ぐらいの男性が「すいません」と声を掛けてきた。突然のことに驚きながら「はい、何ですか」とモモエが聞く。

「一人一品頼まれていたようですが、大丈夫ですか?」


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