第31話 逃げなさい

「やめてあげて。その子に乱暴なことはしないで」

 会話の流れを遮って、クリスティーナが止めに入った。

「なぜそんなことを言うんだい? 被害者のはずの、君が……」

 アルバートが珍しく口ごもった。普段堂々と話す彼にしては珍しい。

「カーラじゃない」

 死んだ魚のような目をすることの多いクリスティーナが。珍しく目を吊り上げて怒りを露わにした。

「なぜそう言い切れるんだい?」

「私を嫌いな人間は、山ほど見てきたから。持ち物を隠したり、傷つけたり。私にこっそり魔法を放ったり。そんな人間かどうかは、顔を見ればわかる」

「でもカーラ君は、さっきあからさまに動揺していたじゃないか。信じたくないのはわかる。でもあれは心にやましいところがあるから、そう思わないか?」

「思わない」

 またもクリスティーナはアルバートの言葉をばっさりと否定した。

「あんな尋問するような聞き方をすれば、誰だって動揺する。立場を笠に着て上から目線で決めつけないで」

「……なぜそんなにもかばうんだい?」

 アルバートの声にいら立ちが混じり、切れ長の瞳の上の眉根がわずかに寄せられた。

「思い出すから。やってもいないことで犯人扱いされた、幼い頃を思い出すから」

 クリスティーナは貴族と平民の間に生まれた。

 人は成長すると言葉と論理で他人を貶めるが、子供はもっと直接的だ。あからさまに態度を変えたり、目に見える嫌がらせをする。

 今の状況が、昔のクリスティーナと重なる。

 僕はできる限りかばったけど、大勢の子供全てから彼女を守れるわけじゃない。僕の見ていないところで散々に傷ついてきたのだろう。

「それに」

 クリスティーナは、カーラに笑顔を向けた。

「美味しいものを食べさせてくれる人に、悪い人はいないから」

「なんですか、それ。こんな空気の時にまで、食べ物の話ですか? これだから妾の子は……」

 カーラは涙をにじませたままだったけど、柔らかい声には希望が混じっていた。

「クリスティーナ君、何をふざけたことを言っているんだ、君は」

 その一言にクリスティーナは色をなした。歯を噛み締め、拳を握りしめてアルバートを睨む。水色の瞳には、射殺すような鋭さがあった。

「あなたに、何がわかる。一日何も食べていない私に、油虫入りの食事を差し出す人間だっていた。そんな思いをしていないあなたに、何がわかる」

「―――っ、」

 アルバートの反論の言葉が遮られる。

 大地が揺れ、小石が斜面を転がる。

 だが直後、地面の下で龍が暴れまわっているのかと思うほどの揺れが来た。地面がまるでバウンドしているように上がり、また下がる。

 今度は杖を構えて立つことすらできず、僕は地面に転がってうつ伏せに張り付いた。他の人も仰向けだったり横向き立ったりはしているけれど、立っている人は一人もいない。

 やがて揺れが収まり、アデラ様の手を執事さんが引いて立たせる。慰霊に参列している人たちもお年寄りに手を貸している人がいて、他は倒れた机や散らばった食器を片付けていた。

 アデラ様がさっきと同じように山頂に目を向け、金の細工が彫られた杖を構える。

 今度は僕たちも落ち着いて見ていられた。

 また溶岩が噴き出しても、アデラ様が止めてくれるだろう。最上位魔法を二回続けて使うのはさすがにきついのか、執事さんが薬をアデラ様に差し出していた。

 薬包紙に包まれた白い粉を口に含み、胸ポケットから携帯式の平たい水筒を取り出してアデラ様に飲ませる。二回目だからか、今目の前のことよりも今後のことを考える余裕があった。

 王国より医学の発達した帝国から送られた薬。その薬のお陰で、アデラ様はこうして活躍していられる。

 明日は薬を手配してくれたアンジェリカの縁談の相手、ジョナサンとの顔合わせの日だ。

 最上位魔法の使い手と出会って、どういう反応をするんだろうか? 彼は魔法が使えないという話だが。

 でも僕たちは彼が変な考えを持った人間じゃないかどうか、判断しないといけない。僕がアデラ様と話せたのは、その約束と引き換えにだから。

 良い人間なら言いやすいんだけど、嫌な人間だったらどう言おうか? そもそも僕らの言葉を聞き入れるかどうか? そもそも僕らの見立てが間違っている可能性もある。

 帝国と王国は昔戦争をしていたから、変な色眼鏡で見てしまうかもしれない。

 そんなことを考えていると、

 びちゃびちゃ。

 アデラ様の足元に、大粒の雨のような鮮血が滴り落ちていた。ハンカチに滲んでいたそれとは、量も血の鮮やかさも比べ物にならない。

 薬を、飲んだはずなのに。

 執事さんの表情が刹那、凍り付いた。

「アデラ様! どうか! どうか、しっかり!」

 彼は上着を脱いで地面にアデラ様を横たわらせるが、アデラ様は虚ろな瞳で返事を返すこともない。

「叔母様!」

 アンジェリカと、言い争っていたアルバートも駆け寄るがアデラ様は胸をわずかに上下させるだけだ。

 突如倒れたアデラ様に、ざわめきが走る。

 蒼き山の山頂からは再び溶岩が噴き出ていた。アデラ様はもう杖を構えることはできない。 そして蒼き山の噴火は止まったわけでもない。

 僕たちが慰霊に参加した人たちがいるこの場所は、溶岩の通り道だ。それに気づくと、背中に氷が差し込まれたかと思うほどの恐怖を感じた。

 参加していた人たちからも悲鳴が上がり、右往左往する。老いも若きも、関係がなかった。

 クリスティーナは騒ぎ立てはしないものの、顔色を真っ青にしている。カーラは手を組み、祈りと救いの言葉を唱えていた。

 アルバートとアンジェリカは迫りくる溶岩と、横たわったアデラ様を交互に見つめてすがるように手を握っていた。

 アデラ様は咳き込みながらも、体を起こす。

「落ち着きなさい、若者は女性と子供を連れて山を降りなさい、必要ならアールディス家の馬を使っても構いません、魔法を使えるものは溶岩を食い止めて。使えないものは避難する人たちを守りなさい」

 アールディス家の執事さんは避難誘導に回り、カーラを連行しようとしていた護衛たちもそれに続いた。

 他の杖を持った貴族たちは、喪服のまま溶岩の通り道をふさぐようにして隊列を組んだ。

 アデラ様が再びせき込む。赤い鮮血が飛び散り、黒い喪服に染みを作る。

「もう喋らないでください!」

 アンジェリカは口の端から血を流すアデラ様の手を握り、腰から杖を抜いた。

 だがアルバートはその場を離れ、下ってきた道を再び駆け上がっていった。

 逃げるのか? でも道が逆……?

 いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 僕はクリスティーナの手を掴み、避難しようとする。本当ならアデラ様の言った通り、杖を構えてみんなを守らないといけないのに。

 避難しようと山を降りていく人、溶岩の流れ道から逃げようとする人達と一緒に逃げようとする。

 でも。蒼き山の切れ目から、麓の町が、数日の間だけど過ごしてきた場所が見えた。

 昨日泳いだローランド湖。旅人のための宿が目立つ街道。一晩を過ごしたアデラ様の屋敷と、そこに咲くオニユリの花。

 その行く先々で見てきた、多くの人たちを思い出す。虐げられていた、庭師の人を思い出す。

 きっと彼らは今何が起きているのかわからないのだろう。

 普段よりも大きい噴火、アデラ様の最上位魔法がいつもより遅いな。それくらいしか思っていないのだろう。

 そして溶岩が目の前に迫ってきた時にはもうなにもかも終わっている。

 せき止めるものがない溶岩の流れは、ふもとまで下りれば町中に広がる。そしてすべてを焼き尽くし、あとは冷えた溶岩が何もかもを覆いつくす。遺体を探すのですら困難を極める。

 逃げなきゃ、そんな風になりたくない、死にたくない、死にたくない。

「神よ、無力な我らをお守りください」

 カーラは逃げようともせず、地面にひざまずいて祈りをささげていた。長い修道女服の裾が風にあおられ、細いふくらはぎが露わになったり隠れたりする。

「何やってるの、こんな時に。祈れば死なないの?」

 僕のそんな物言いにも、カーラは気分を害した様子もなく微笑んだ。

「死ぬでしょうね。でも願いが叶うとか、神様が助けてくれるとかそんなことを思って祈りません。祈っても願いが叶わない、助けてくれない、そんなことはわかっています」

「でもそんな、自分に都合のいい存在が神様のはずありません。たとえ身を滅ぼすことになっても、慎んで祈りをささげる。ただそれだけです」

 口先だけじゃない。偉い人や本からの借り物の言葉じゃない。

 彼女の人生を踏まえた、実感と重みのある言葉だった。

「それに神様は私たちを苦しめるように見えても、それは試練をお与えになっただけのこと。それを乗り越えた先には、より大きな幸せが待っているのです」

「災厄に苦しめられてきたこの王国が、最上位魔法の使い手を得たことでさらなる繁栄を得たように。両親の不仲に苦しんでいた私が、教会という居場所を得たように」

「ひょっとしたらこの瞬間にも新しい使い手が現れるかもしれません」

 信仰のままに言葉を紡ぐ彼女は、ふだんよりずっと大人びて見えた。

 熱風混じりの風に、彼女の春風のような声が混じる。

 カーラは強いな。羨ましい。

「ひょっとしたら、使えるのは君かもね」

 神様をもう信じていない僕より、よほどふさわしいだろう。

 もしくは僕より魔法の才能に溢れるクリスティーナか。

「いえ、私は使えませんよ。今までも、これからも」

 でも僕の思いに反して、カーラはゆっくりと首を振った。頭の左右に垂れるらせん状の栗色の髪が、力なく揺れる。

「私は両親の不仲があって、一時期神様を疑い、心の中で呪いの言葉を吐いてさえいました。こんな醜い私に神様が最上位魔法を授けてくれるはずがありません」

 カーラは立ち上がり、修道女服の裾の下に手を入れた。一瞬だけ細い太腿が露わになった後、足に巻いたベルトに差していたサルスベリの杖を抜き去る。

 そのままゆっくりと杖を構えた。でもその手も、膝も震えている。目には涙が滲んでいた。

「逃げなさいな」

 カーラの震える手をそっと押さえ、銀笛のように澄んだ声でアンジェリカが言った。

 儚く笑う彼女は、震え一つない手で避難する人たちの方を指さす。

「わたくしたちはこの土地の貴族ですわ。領地と領民を守る義務がありますの。でもあなたたちは違う。逃げてください」

「でも……」

「逃げなさい!」

 アンジェリカはおののく声で言い放ち、隊列を組んで杖を構える人たちの下へ向かった。


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