第6話

 海流に捕まってから20時間が経過した。未だに伊375潜は浮上できないでいる。この海流がどこに向かっているのか、はっきりとはわからないが、コンパスでは大まかに東へと流れていることは確かだ。目的地であるトラック諸島は既に通りすぎているだろう。一体、いつになったら止まるのか……。

 乗組員たちは苛立ちと焦りを感じていた。薄暗い艦内の空気はかなり悪化しており、明らかに息苦しくなっている。これからどうなるのか、誰もがそのことを考えずにはいられなかった。

 また、この数時間で乗組員同士の喧嘩が起きるようになった。いびきがうるさい、足を踏んだ、目付きが気に食わない等、どれも些細なきっかけだ。その度に蘭堂や愛工が止めに入ったが、険悪なムードは消えることはなかった。

 やはりおかしい。

 叶槻はそう思った。

 こんなことで簡単に喧嘩になるなど普通ならあり得ない。彼らは生粋の潜水艦乗りなのだ。例え潜航中に撃沈されたとしても、黙って艦と運命を共にする覚悟を持った者たちなのだ。出撃前には1ヶ月の慣熟訓練をしており、乗組員同士の仲間意識もできていた。

 何か異常なことが、伊375潜に起きている。この海流も、乗組員たちの変調もその一部に過ぎない。叶槻にはそう思えてならない。

 もしかしたら、この海流の行き着く先に、その異常なことの大元が待ち受けているのかもしれない。

 叶槻は軍医の蘭堂だけには自分の考えを話そうと思った。愛工や引馬は信用できない。

「なるほど、少し気味の悪い話ですね」

 艦長室で叶槻の話を聞いた蘭堂はそう答えた。

「私の思い過ごしかもしれませんが」

「実は横須賀を出る前から気になっていることがあるんです」

 蘭堂の言葉に叶槻は興味を持った。

「出撃の何日か前から、悪夢を見るようになりまして」

 叶槻は驚いて大きな声を上げた。

「本当ですか!実は私も同じ頃に悪い夢を見ています」

「艦長も?それはどんな夢ですか?」

「遠いところから何かが呼んでいる声がするんです。夢の中の私はその声を異常に怖がっているのに、そこに行きたいという気持ちも持っていて、ゆっくりと前に進んでいく。前方には大きな闇が現れて、私は悲鳴を上げながらそちらに引き寄せられていく。そして目が覚めるんです」

「……私も同じ夢です」

 2人は深刻な面持ちで黙り込んだ。しばらくして蘭堂が口を開く。

「もしかしたら、この潜水艦に乗っている者は全員同じ夢を見ているのかもしれません。今、それを確認することは乗組員たちを余計に不安定にさせるから止めておきましょう。ですが、この海流から脱け出すことができたら日本に全力で逃げた方がいい」

「作戦を放棄して逃げるんですか?」

「何時間も前にトラック諸島は通過しているのでしょう?作戦は既に失敗しています。この航海はただ事ではない。理屈では説明できませんが、艦長もそう思っているはずです。ならば日本に戻って態勢を建て直すべきです」

「……考えておきます」

 叶槻がそう答えた時、艦の右側が何かにぶつかる音を立てて大きく揺れた。2人が艦長室から出ると、艦内は大騒ぎになっている。

「岩礁にぶつかったんだ!被害を確認しろ!」

 愛工が叫ぶが、部下たちはしきりに泣き叫ぶだけだ。

「もう嫌だ!ここから出してくれ!」

「また岩礁にぶつかるかもしれない!そうなったら今度こそ最後だ!」

「この艦にいると死んじまう!俺は降りる!」

 愛工は取り乱す兵たちを殴り飛ばした。その顔は怒りで真っ赤になっている。

「馬鹿野郎、醜態を晒すな!それでも帝国軍人か!被害を確認しろ!」

 鬼のような剣幕の副長に恐れをなして、各員が被害の確認を始める。幸いにもわずかに浸水しただけで、それはすぐに止めることができた。

 叶槻は内心安堵のため息をついた。そして自分の腕時計を見て愛工に伝えた。

「30時間過ぎた。魚雷を投棄する」

「やはり自分は反対です!あれは艦を守る最後の手段なんですよ!」

「このままでは窒息するだけだ、あれを棄てて軽くなれば浮上できるかもしれない」

「艦の重さが1440トンなのに、たった3トン減らしただけで何が変わるんですか?何も変わりませんよ!」

 執拗に食い下がる愛工に業を煮やした叶槻はついに大声で怒鳴った。

「艦長命令に逆らうのか!」

 指令所が緊張を伴った沈黙に包まれた。ただの乗組員同士の諍いではない。艦のナンバーワンとナンバーツーが対立しているのだ。蘭堂が不安げな顔で睨み会う2人を交互に見ている。

「深度計が!」

 航海担当の兵が唐突に叫んだ。

 その場の全員が反射的に深度計を見た。メーターの針がゆっくりだが確実に下がり始めている。

「浮上している。浮上しているぞ!」

 誰かが叫んだ。

 叶槻は艦の速度が急激に落ちているのを感じた。海流が収まったのだ

 指令所の全員が見守るなか、深度計は100メートルを切り、90を切っていく。

 浮上のニュースは瞬く間に艦内に伝わった。あちこちで喜びの声が聞こえてくる。

 やがて深度計は0になり、艦首が海面を突き破る衝撃が伝わった。伊375潜は遂に海上へ到達した。

「やった!」

 指令所の全員が叫んだ。

 叶槻が艦内放送のマイクに向かう。

「総員、甲板に出て天測と見張り、破損状況を確認せよ。総員で確認せよ!」

 艦内が歓声に包まれた。

 たとえ外に敵が待ち受けていても構わない。知ったことか!九死に一生を得た叶槻はそんな気分になっていた。

 そして愛工を視界の端に置いて話した。

「副長、さっきは冷静さを欠いていた。すまない」

「……自分もです。申し訳ありません」

 司令塔のハッチを開くと、新鮮な空気が艦内に入り込んできた。乗組員たちは笑いながら次々に外へ出ていく。甲板に出ると皆が深呼吸をした。生きていることを純粋に喜んだ。

 叶槻は全員が外に出たことを確認すると最後に司令塔内のタラップを昇っていった。光が差しているので昼間だとわかった。

 ハッチの外から歓声が聞こえてくる。しかし、タラップを昇る途中でそれらが次第に小さくなり、ざわめきに変わっていくことに気付いた。

 不思議に思いながら外に出る。

 全員がある方向を見つめていた。蘭堂が叶槻に向かって、その方向を見るように促した。

 叶槻がそちらに目をやると、そこには1つの島があった。頂上から黒煙を噴き出している、巨大な火山がそびえ立つ島が。

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