潜水艦伊号375帰投せず

@me262

第1話

 生ぬるい海風が吹く深夜、人知れずその船は横須賀軍港を出航していった。日本海軍潜水艦伊375潜。昭和20年4月某日のことである。その任務は軍需物資の輸送、目的地は南東にあるトラック諸島だ。

 伊375潜の叶槻方嗣かなつきほうじ少佐は行く先に障害物のないことを確認しながら伝声管に向かって東京湾を出次第進路を東に取るように言った。やがて三浦半島を過ぎると艦は東に舵を切る。

 日本近海での制海権すら失ってしまった今では、ここから先はもう敵地も同然だ。この潜水艦には各種レーダーが装備されているものの決して優秀とは言えず、そのために甲板には見張りの兵を何人も立たせている。それでも敵の潜水艦や夜間哨戒機を事前に察知できるとは思えない。要するに気休めだが、やらないよりはましだ。

 アメリカとの戦争は3年半になろうとしている。日本が優勢だったのは始めの半年だけで、ミッドウェイ海戦で4隻の主力空母を失ってからは負け戦ばかりだった。

 ミッドウェイ以後のガダルカナル島攻防戦でも日本は何隻もの軍艦と輸送船を敵に沈められ、そのために前線への補給が上手くいかず、多大な犠牲を出した末にガダルカナル島を奪われてしまった。

 その失敗を元に造られたのが輸送用潜水艦だった。ガダルカナル戦でも苦肉の策として潜水艦による物資補給は行われていたが、元々そのような用途の艦ではないので運べる量はごくわずかだった。そこで魚雷の数を大幅に減らして、空いたスペースに貨物を内蔵できるようにしたのが輸送用潜水艦であり、伊375潜は15番目に造られた輸送用潜水艦だ。

 全長73.5メートル、基準排水量1440トンと潜水艦としては小振りだが、艦内に65トン、艦上に20トンの物資を積載できる。

 敵に知られることなく大量の補給物資を前線に送り届ける、艦政本部自慢の秘密兵器という訳だ。

 何が秘密兵器だ。叶槻は唇の端を歪めて自嘲した。これまで輸送任務を徹底的に軽視してきた末が、この奇妙な潜水艦の誕生だ。

 米軍は100隻を超える大輸送船団で大量の兵士や武器弾薬を運び、ガダルカナルを攻略した。無論充分な数の駆逐艦や爆撃機を載せた護衛空母をつけて。サイパンやフィリピンも同じやり方で攻略した。高々100トン弱の荷物しか運べない潜水艦が十数隻あったところで何になる。本気で反攻するつもりなら日本も同じことをするべきなのだ。

 だが、日本の陸海軍は補給部隊の重要性を理解しなかった。目に見える武器の数を増やすことに腐心して、戦い続けるために必要な物資補給をどうやって維持していくかをまるで考えなかった。丸腰で沈められた輸送船が続出しても、輸送船の護衛に消極的で、老朽化した軍艦を護衛任務につけるだけだ。米軍は新型の駆逐艦や護衛空母を使っているのに。

 その挙げ句、まともな輸送船は日本にはなくなってしまった。船もなく、それを動かす船員もいなくなってしまった。だから潜水艦にその役目をやらせるというのでは滅茶苦茶だ。潜水艦本来の役目は誰がやるのだ?

 叶槻が頭の中で軍上層部への批判をしているところへ、伝声管から連絡があった。

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