第七場 激情

 ――これで良かったのだろうか。

 そうは戸惑っていた。

 よく自分の中の天使と悪魔という言い回しがあるが、それに近い感覚がある。窓の中の一人は『うまくやれ』と言っていた。それがまわりのためであると言っていた。もう一人は『やりたいようにやれ』と言っていた。それが自分のためであると言っていた。

 窓は今日、自分はどちら側の人間なのかを知りに来たのだ。正直なところ、祝福の気持ちなんて微塵もないし、こんなパーティーは打ったことのないパチンコ屋のイベント程度の価値にしか感じていなかった。

 それでも自分を知りたかった。だから礼史を伴って馳せ参じたのだ。

 結果から言えば自分は前者だった。窓は『うまくやる』ことを選んだ。どこかスッキリとした気分があるのも嘘ではない。でも晴れ間が見えはしても雲は消えない。

 この雲はなんだろう。そんなことをずっと考えていた。

「窓、まだ食い足りないんだが、メシ取りに行かないか?」

 そんな窓の心中を知ってか知らずか、礼史れいじはあっけらかんと問いかける。窓にとって礼史の存在は救いだった。事情は誰よりも知っているはずなのに、敢えて突っ込んでこないバランス感覚はすごい。それでいてきっと困ったときは力になってくれるだろう。きっと今日ここに来られたのも礼史が一緒だったからだ。そう思った。

「……まったく、よく食べるね。いいよ。行こう」

 窓と礼史は立ち上がる。呂律の回らなくなった蒼人あおとが声を出す。

「ああ、ついれに、フルーツたのむゎ」

「もぅ南波なんばさん飲みすぎですよー」

 黄色い声。気付けば蒼人の周りは女子社員達が囲んでいる。爽やかで仕事の出来る蒼人のことだから人気があっても不思議ではないが、やはりと言うか囲まれているその光景は、夜の街の一コマのようだ。

「あ、世良せらさんも何かいりますか?」

 礼史が声をかける。女子社員達に押しのけられて端の方に移動していた世良だが、嫌な顔はせずに穏やかに答えた。

「ついでに蒼人くんに、お冷を貰ってきてくれるかな?」

「そうですね、分かりました」

 返事をした窓は蒼人に目を遣りながら含み笑いを浮かべる。

「礼史、今度はあっち側に行こうよ」

 先程エビチリと寿司をとった側のテーブルは、遠目に見ても空の皿が目立つ。窓はまだ見ぬ反対側のテーブルへと礼史を誘った。

 前方に目を遣ると、鉄哉てつや尋美ひろみが社員達に囲まれて写真を撮っているところだった。大きな声で音頭を取り、シャッターを合図しているのは帆ノ宮ほのみやだろう。

 ――まったくよくやるよ。窓は思った。

 人間は猿に近いと言われているが、実際は犬なんじゃないだろうか。飼い主というものにこれほど迎合する生き物はその二種だけだと思う。はぁはぁと舌を出しながら何かくれとあちこちついて回る姿と、鉄哉にヘコヘコする帆ノ宮の姿はよく重なる。一香いつかには悪いが、全く尊敬できる姿ではない。

 あの齢になってもなお権力に対し従順であるのは何故だろうか。せめて自分がその権力を持ちたいとは思わないのだろうか。窓はつい、実際に首を傾げてしまった。

「どした?」

「いや別に、ちょっと肩が凝っちゃって」

「あー確かにな。早くパーカーに着替えてゴロゴロしたいぜ」

 礼史も真似て腕と肩あたりを回し始めた。

 食事の並んだテーブルが目前に迫った。こちらのテーブルも大分取り尽くされた感はあるが、まだ窓達が食べていないパンやデザート類は残っているようだ。

「俺、蒼人さんの注文の品を先に準備するわ」

 蒼人が大きめの皿を手に持って窓に向けて親指を立てる。

「じゃあ僕は世良さんの注文に応えようかな」

「おう、そっちは頼んだ」

 今度は窓が親指を立てて返す。礼史はそれを見ると「またな」と目顔で示し、フルーツのある方へと小走りで向かって行った。

 窓は飲み物の置いてあるテーブルに目を遣ったが、普通の水は置いていない。焼酎などを割るためと思われるデキャンタに水が入っているが、これはお冷とは呼べない。

 このしっかりした会場だ、従業員にでも言えば、しっかりとしたグラスにミネラルウォーターでも入れてくれることだろう。そう考えて、窓は従業員を探した。

 その時、鉄哉の大声が窓の耳に飛び込んでくる。

「――窓! 窓を呼べるか! 窓と写真が撮りたい!」

 耳を疑いたくなるような言葉だった。窓は聞こえない振りをした。というか自分の聞き間違えである可能性に賭けた。そうであってほしかった。

 その期待を裏切るように、今度はマイクで帆ノ宮が呼ぶ声がスピーカー越しに響いた。

「窓くん、窓くん、主役のお二人が記念撮影をご所望ですよ! 前に来て下さい!」

 ……調子に乗ってんじゃねえぞ。そう思いながら窓は拳を握りしめた。

 色々な感情がある。それを抑えながらここまで来て、みんなが望むだろう自分の姿を投影してここまでやってきた。この上まだ我慢をしろと言うのか。

 完全に浮ついたような鉄哉の声と帆ノ宮の声が会場に響いている。次第に、周囲の視線が自分に向いてきているような気がした。もう聞こえない振りは出来ない。

 また二択だ。また二択を迫られた。

 理解出来るか出来ないか、うまくやるかやらないか。ここまではお利口な回答に終止してきたと、窓は自負している。それでも晴れ間が見えては、また雲が覆う。風を吹かせて流したとしても、また覆う。その繰り返しに嫌気が差す。

 どうしていいか分からなかった。もういっそ、やりたいようにしようかな。そんなことを考えた。その時だった。

「窓!」

 自分の腕が掴まれたのを感じて、そこに視線を動かした。一香いつかの白い手がひしと腕にすがりつくように絡まっていた。

「ごめんね、行かなくていい。うちのパパ、少し調子に乗ってるから」

 そう発すると、腕を引っ張りながら会場から外へと窓を連れ出した。

「一香、どうしたの」

「待って。こっちこっち」

 一香は階段側の人気のない通路まで窓を引っ張っていくと、周囲に人がいないか一瞥して、窓の胸に飛び込んできた。

「ごめんなさい……パパったら、すっかり調子に乗って……」

「一香が謝ることじゃないよ」

「そうだけど……」

 窓は一香の頭を優しく撫でながら、燃え広がりかけていた自分の中の何かが、水を得て少しずつ鎮まっていくのを感じた。

 ぶち壊してやろう、そう一瞬でも感じたのは嘘ではない。これ以上自分の感情の片方にだけ蓋をし続けることが正しいとも思えない。

 でもこうして自分に配慮してくれている人がいる。自分の気持を分かってくれる、いや、分かろうとしてくれる人がいる。その事が窓を落ち着かせた。

 一香はきっと山火事を察知する動物のように鋭敏に、それを阻止せんと自分のところにやってきたのだ。その気持ちを無駄にはしたくないと、窓は思った。

「……大丈夫。もう大丈夫。一香のおかげだ」

 窓は一香の肩を持つと自分の身体から離し、自分の唇を一香の額にあてた。

「嫌な思いをしたのは事実だけど、さっきも言った通り僕はメリットも考えてる。一香のためなら頑張ってみようと、今思ったよ」

 一香はもう一度強く、窓に抱きついた。

「ありがとう……嬉しい」

 窓も一香を強く抱き返す。しばらくそのままでいた。ほんの少しの時間だったろうけど、世界を止めてやったような気分で、自分の腕の中の、自分以外の熱を確かめるように強く欲した。

「……さて、そろそろ戻るよ。どっかの誰かが、僕と写真を撮りたいらしい」

「うん……でも、いいの?」

「ここまで良い子にしたんだから、最後まで良い子でいないと」

 そう言うと一香の頭にポンと手を乗せた。安心してほしいと伝えたかった。

 窓は真剣な顔で続けた。

「いい? 僕は先に戻るから、一香はちょっとしてから戻って。帆ノ宮さんや一生いっせいさんに見つかると、面倒でしょ」

 一香は少し残念そうに、申し訳無さそうに微笑んだが、

「うん」

 と赤く染まった頬で微笑んだ。名残惜しそうに少し距離を取ると、小さく手を振った。窓も同じように手を振ると、覚悟を決め踵を返し会場へと足を向け歩き出す。うまくやる。その気持を強く確かめるように力強く床を踏みしめた。


 会場へ一歩入ると、窓はその雰囲気に驚いた。指名手配犯となった自分への捜査網が敷かれていたかのように、一斉に会場中の視線が突き刺さってきた。

「どこ行ってたの!? トイレ!? 社長が探してるぞ!!!」

 いつの間にか横にいた金星かなほしが窓の腕を掴みながらそう言うと、反対側の腕も何者かに掴まれた。窓が目を遣ると花輪はなわが同じように腕を掴んでいた。

「記念撮影するから、このまま強制送還しまーす!!!」

「いや、ちょっと、待ってくださいよ」

 送還の意味も分かっていないような連中に、自分の気持ちなど分かろうはずもない。窓は心の中でため息を付きながら、仕方なく左右の二人に合わせて足を動かす。

「窓くん、発見しましたーーー!!!」

 金星が威勢よくそう叫ぶと、会場の面々が道を空けて三人を通す。まるで卒業式の入退場のようだった。左右を人の壁が覆い、一様に拍手で迎えてくる。

 恥ずかしい気持ちとやるせない気持ちを抱えながら、窓は呼び出した張本人の前まで進んで行った。

「おお、窓! 来てくれたか!」

 いや、お前がしつこく呼んだんだろ。窓は頭の中で思ったが、表面的には笑顔を取り繕った。

 鉄哉は、得意げな金星と花輪から窓を引き渡されると、すぐに壇上へ引っ張っていき、自分と尋美の間に窓を立たせた。

「窓、どこに行ってたの? 探したのよ!」

 尋美も先程より酒が入ったのか、顔が赤らんでいたし、声からも高揚していることが伝わる。母親のこういった姿は、窓にとってあまり好ましいものではなかった。

「飲めばお手洗いくらい、行くでしょ」

 窓は何事もなかったようにそう返すと視線を逸らした。

 我が意を得たりとマイクを持った帆ノ宮が窓達の前にふんぞり返って現れる。金星や花輪など、帆ノ宮の取り巻きと思しき社員達も、カメラやら携帯を構えてシャッターチャンスを待ち構えている。

「さあ、それでは記念撮影と参りましょう!」

 その声と同時に、秀勝と尋美が両方から窓を挟み込み、寄り掛かるような体勢となる。窓としては非常に居心地が悪かった。

「はい、それでは笑って、笑って!」

 帆ノ宮が煽ると、窓は一斉にシャッター音とフラッシュに囲まれた。まるで有名人が記者会見でもしているかのようだ。それでも窓は我慢してそこにいた。

「窓くん、表情が硬いよー」

 カメラを撮る社員からそんな言葉が聞こえてくる。内心苛立ったが、窓は決して表情を軟化はしなかったし、強張らせることもしなかった。

「いやあ、いいですね、家族水入らずの、良い記念撮影になりました!」

 帆ノ宮がそう言った瞬間、総毛立つ感覚が窓の身体に走った。これには流石に表情を変えずにはいられなかった。

 家族……だって?

 間違っちゃいない、これは僕のせいだ。窓は思った。

 自分が我慢をした結果、伯父さんに対して母を任せると宣った結果、僕は晴れてこの両サイドの人間と、家族になってしまったのか。窓は後悔の念に駆られた。

 自分で納得して選んだ、それは間違っていたと思わない。しかし人から言われてみて気付いたのである。家族と言われることが「かんに障る」ということに。

 幸いなことにと言うべきか、窓が顔を顰めた帆ノ宮の発言によって、撮影は一区切りとなり大きな拍手に包まれていた。鉄哉が立ち上がってガッツポーズをして見せたことで、窓の表情に気付いたものもほとんどいなかった。

「……もういいよね」

 窓は吐き捨てると、腕に絡みついたままの母親の手を振りほどき、高砂から足速に立ち去る。

 相変わらず、幸せを見守るような視線と拍手が自分に対しても贈られている。窓は改めてそれらを不快だと認識しながら、自席へと足を速めた。

 席に戻ると礼史は既に席に着いていた。窓は礼史の目を見た。その瞳が震えているように見えた。やっぱりお前は友達だ。そう思った。

 窓は何を言うでもなく席に戻って腰を下ろすと、力が抜けたようにテーブルに突っ伏した。もう限界だった。

「おい、窓、大丈夫か」

 礼史の問いかけに何も返せなかった。

 苛立ちなのか、ショックなのか、後悔なのか、何なのか分からない。有り体に言えば『傷を負った』と表現するのが正しいように思う。それほど『家族』と言われたことが衝撃で辛辣に響いた。無防備な状態からハンマーを振り下ろされた気分だった。

 今日はもうこのまま、動かずにいよう。大人しくしていよう。窓は思った。

 しかしながら、相容れない人間というのは、どこまでも相容れない存在らしい。窓の希望はまたしても帆ノ宮のマイクにより奪われてしまった。

「はい、宴も酣ではございますが、最後にですね、本日の主役でもあります、田丸鉄哉社長より一言頂きたいと思います。ただ、その前にですね――」

 会場は社長の一言という言葉を耳にして、一様に静まっていた。だからこそ、その後に続けて述べられた帆ノ宮の言葉は、然と会場にいる人間の耳に届いた。

「――田丸窓くんより、一言、お祝いの言葉を頂けないでしょうか?」

 突っ伏したままの体勢で、窓は目を見開いた。

 何を言っているんだこの老人は? サイコパスなのか? 度を超えて愚かなのか?

 何にせよ、真っ当な人間のすることじゃない。

 帆ノ宮は窓からの反応が無かったのを照れているとでも思ったのか、更に煽るように発言を続けた。

「会場の皆様どうでしょうか? 新しく家族となりました田丸家のご子息から、一言頂きたくはないでしょうか?」

 だから『子息』だとか言われたくないんだよ。

 聞きたくないんだよ。

 蔑称なんだよ。

 家族に、ご子息だって? とんだセットだ、合せ技一本だ。

 窓は奥歯が割れるんじゃないかと思うほどに、強く噛み締めた。

 正直、会場内にも呆れている人間はいるだろう。窓と近い人間はもちろんとしても、それ以外も相当数いるはずだ。分かっている。それでも、帆ノ宮の発言に対し拍手で答えている人間も大多数いる。それも事実なのだ。

 会場の拍手が鳴り始めると、すぐに窓の隣の席が音を立てた。礼史が立ち上がっただろうことは突っ伏したままの窓にも察しがついた。

 礼史は声を張り上げる。

「すみませーん! 窓のやつ、飲みすぎて潰れていて――」

 そこまで発した時、礼史の隣で突っ伏していた窓がむくりと起き上がり、そのままの勢いで立ち上がった。礼史は驚いた様子で言葉を止めた。

 窓にはもう、分からなくなっていた。

 何をどうすることが、誰にとって良いことなんだろう。

「……今はまだ、見えないや」

 窓は呟くと、まるでプログラムされたロボットのように、一定の速度で帆ノ宮の方へと歩み寄って行った。


 礼史すまない。フォローしてくれようとしたんだよね。分かる。

 一香すまない。僕は良い子じゃないらしい。お前の父親もどうかと思うけど。


 今の僕はどう見えているだろう。窓は歩きながら考えた。

 人によっては祝福の言葉を宣うために緊張している面持ちに見えているのかも知れない。また別の人には、帆ノ宮の発案にうんざりしているように見えているのかも知れない。でもそれは推測であって、結局の所、他人事なのだ。きっと真実にたどり着ける人はいないだろうし、たどり着こうともしないのだろう。

 だから『うまくやる』なんて器用なことは、自分には出来なかったのだ。最初から、どだい無理な話だ。窓は痛感していた。

 だったらここで見せるしかない。自分の気持ちを自分の言葉で表現するしかない。

 決意を胸に、窓は歩んでいた。

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