第6話 専属契約

「お疲れ様。大成功だったわね」


 放課後、いつもの通り美術室。部活に顔を出せるような状況ではなかったし、あのあとクラスメイトにもみくちゃにされて俺は疲労困憊だ。そこからなんとか抜け出して、粟島と二人だけでここにやってきた。

 呪いの場所。しかし今では奇妙な安心感がある。


「引かれなかったのは幸いだが、俺は何かを失った気がする」

「何を?」

「男としての尊厳とか」

「女装した程度で失われないから心配しないで」


 何を根拠にそう言われているのか理解できない。というか思考する頭がなかった。多くのクラスメイトに囲まれて、興味に満ち溢れた瞳で話しかけられるというのはあんなにも苦しいことなのだと。人気者の嬉しい悲鳴だなと葉室は言っていたが、それよりも疲労が勝ってロクな返しをできた記憶がない。


「文化祭の出し物も無事決まったし。当日も腕によりをかけてあなたを最高のメイドにするから。心配しないでね」

「嬉しくない」


 葉室はこれから実行委員会に「男女逆転・メイド&執事喫茶」の出店を申請すると言う。粟島の案が通った結果となったが、俺としては地獄の延長が決まったようなものであり、苦い顔をするほかない。


「学校中に醜態を晒すってことだろ? 部活の先輩後輩にもバレるのがつらい」

「醜態なんてとんでもない。綺麗だったって皆褒めてくれたじゃない」

「俺は美人になりたいわけじゃない」

「そう? 私としては美人な霧生くんだとすごく助かるんだけど」


 粟島が椅子に座りなおす。一転して真剣な表情になった。


「私、最初から霧生くんが目的だったって言ったわよね」

「? ああ」


 何故俺に女装をさせるんだと問い詰めたとき、確かに粟島はそう言っていた。自分の求める人材かどうか、とか。


「私が霧生くんに女装をお願いしたのは、あなたが適任だと感じていたから。……ねえ霧生くん、専属モデルとして私と契約するつもりはない?」

「……契約?」


 高校生らしからぬワードが出てきて俺はオウム返しするしかできなかった。モデル? 契約? 粟島は実は有名プロダクションのスカウトだったとかそういうオチが待っているのか?

 俺の動揺をよそに粟島はごめんなさいと言い直す。


「契約と言っても、堅苦しいことじゃないわ。報酬を払うから一緒にお仕事をして欲しいの。まあ、営利目的ではないんだけど」

「仕事って」

「私、マンガを描いていてね」


 そう言って粟島はカバンから不透明なビニール袋を取り出し、そこから数冊の本を並べて見せた。線の細い男女が睦まじそうに寄り添っている。隣のはお姫様抱っこのシチュエーション。絵柄から言って、少女漫画と呼んで差し支えないだろう。


「趣味なんだけど。同人誌を作ってイベントで頒布してるの」

「……わからない言葉も多いけど、つまり粟島はマンガを描いて本にして売ってる、ってことか?」

「利益が出ないようにね」


 大体そんな認識で大丈夫だからとフォローして、粟島は続ける。


「今、描こうとしている話に女装男子を出そうと思ってるんだけど、なかなかビジュアルイメージが掴めなくって。単に可愛いだけなら男性にする意味がないし、男性的な部分と女性的な部分を内包した、そんな人を探していたの」

「それが俺だと?」


 粟島は頷くが、俺に女性的な部分はまったくないと思う。


「霧生くんを見て、感じていたの。確かに霧生くんは身長も高いし顔も整っていて、少女漫画のヒーローみたいな存在よ。だからこそ、女装したら綺麗になるんじゃないかって」

「…………」


 褒められているのかもしれないが、素直に喜べないのが悲しい性だ。

 だからお願い、と粟島は上目遣いに嘆願した。


「霧生くん。私の専属女装モデルになってくれないかしら」


 ぐ、と俺は言葉に詰まる。身を乗り出してくる粟島から距離を取るように背中を逸らした。いまだにこの距離感には慣れないのだ。それと、ずっと考えないようにしてきたが……粟島は、かわいい。

 真剣さも宿すことができる甘い垂れ目。上品な香りを漂わせるボブカット。ちょっとだけ手を伸ばしたら触れてしまいそうなグラマラスな体型。

 健全な男子高校生だったら、噂にしない方が罪な女である。


 人から見たら変態だと言われるかもしれない。けれど、彼女が俺の女装を必要としている。俺が女装をすれば、俺は彼女の傍にいられる。

 そう、正直に言えたら幾分か楽なのかもしれないが、生憎俺は論理的な理由たてまえを求めた。


「……報酬があるなら、やる」

「本当⁉ ありがとう!」


 粟島の表情がぱあっと明るくなった。物静かだったり余裕のある微笑を浮かべていた粟島も、こんな無邪気な笑みを浮かべるんだな。

 そう思ったら、心臓がどくんと跳ねた。慌てて言葉を付け加える。


「あくまで契約だからな。俺に女装趣味はないし、粟島に頼まれた仕事だからやるだけだ」

「それだけでも十分よ。あなたは私の理想のモデルだったから……!」


 粟島の喜びの余韻が消えることはない。こんなに喜んでもらえるとは正直意外だった。契約だなんていうから、もっと冷静に粛々とやるものだと思っていたのに。

 よろしくと差し出された左手をおずおずと握り返す。メイクの時に触れたように、彼女の小さな手はひんやりとしていた。


 こうして俺と粟島の契約関係は始まった。当時の俺は同人作家・粟島るいの実力をまったくと言っていいほど知らなかった。ただ、彼女との契約、という響きに感化されてしまったのかもしれない。


 そして多分この時点で、俺は粟島るいに恋をしてしまったのだ。

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