第15話

 トーマスは控えめに扉をノックした。

 執事は主人の部屋に入る時にノックをしないものであるが、トーマスは従僕フットマンであり執事ではない。

 いつものように返事はなく、トーマスは心の中でゆっくり三つ数えてから、細心の注意を払いつつ扉を開いた。なるべく音をたてないようにゆっくりと、しかし無礼にはならない程度に滑らかに動かなくてはならない。


 部屋は明るかった。

 例のバルコニーへと続く窓も、そこに掛けられた重厚なカーテンも全て開けられていて、そこから清々しい朝の空気と陽光が入り込んできている。

 まだバラはつぼみのはずだが、先程庭を見たせいか、芳香が鼻先をかすめたような気がした。

 まさか一晩中このままだったのだろうか。窓は夕方に全て閉めたはずなので、開けたとすればこの寝室の主以外にはない。昼間は暖かいが夜は冷えるというのに、風邪でも召されたら大変なことだ。


 天蓋付きの豪華なベッドには、トーマスからすれば、それ一つだけあればベッドがなくても十分眠れると思えるような大きな枕が乗っている。枕に続くのは、夜には広大な雪原を思わせるほど皺一つなく真っ直ぐに整えられていたはずの絹のシーツと羽毛布団デューヴェイだ。

 トーマスは素早く布団のふくらみを目で確認する。

 ふくらみは人間一人分。

 昨晩は誰もお連れにならなかった御様子である。ティーカップの追加は必要ない。

 部屋をさっと見渡してみても、特に壊れた調度品もなく、どうやら昨晩は静かにお休みになられたようだ。ただひとつ、立派な絨毯の上に度数の強い酒の瓶が転がり、そこに酒臭いしみを作っていることを除けば概ね問題は見当たらない。

 あとは静かに紅茶のセットを載せたワゴンをベッドの横に運ぶだけだ。


 トーマスはそろそろとワゴンを押し、ベッドの横につけた。

 いつもであれば大抵この時点で、同衾している相手が起き上がる。トーマスは決して相手と目を合わさず、その存在に気付いた素振りも見せずに退室し、涼しい顔をしてもう一脚ティーカップを部屋に運ぶ。しかし給仕は主人の分しかしない。主人の友人関係に使用人は口を出さないが、正式に招かれていない客人をもてなすこともしないのである。


 しかし今日は主人は御一人だ。そして羽毛布団の膨らみは動く気配はない。


 トーマスはやや逡巡しゅんじゅんし、それでも声は掛けたほうがいいだろうとベッドに向かってやや上体を傾けた。

 その途端、羽毛布団が勢いよく跳ね上がってトーマスの顔をかすめた。

 反射的に目を閉じる。


「こ……」


 皇太子殿下、と呼びかけようとした言葉が途切れ、背中に鈍い痛みが走ったが、背中よりも自分の喉仏が圧迫される痛みの方が苦しかった。

 トーマスはベッドの頭側の壁に押し付けられていた。さらに頸に掛けられた片手でぐいと壁に向かって力をかけられ、喉から血が出るのではないかと錯覚するほどの苦しさで目も開けられない。


「トーマスか」


 じんじんとした耳鳴りの向こう側から冷ややかな声が聞こえたが、すでにトーマスは気を失いかけていた。

 唐突に呼吸が戻り、トーマスは崩れ落ちて膝をついた。ここがどこなのかを失念したわけではなかったが、えずきが止まらず大きく何度も咳込む。喉が潰れてしまったのかと思うほど痛い。生理的な涙が溢れてきた。


「こ、紅茶を……」

 何とか呼吸を取り戻して声を絞り出す。


「いらぬ。臭い」

「え」

「どこもかしこも臭くて堪らぬ。こんなところで物を口にできるか」

「も、申し訳ございません。今すぐメイドに掃除を申し付けますので……」

「無駄だ」


 頭上からの氷のような声にトーマスが思わず顔を上げると、白く烟るような睫毛の下にある、暗い赤瑪瑙のような双眸と目が合った。

 その色の深さに息を呑んだ瞬間、紅茶を載せたワゴンが乱暴に蹴り倒され、大理石の床に芳しい液体が広がっていく。一流の職人によって作られた茶器が無残にも砕けてしまっていた。


「出ていけ」

「申し訳ございません。すぐに片付けます」

「俺は出ていけと言ったのだ」

「も、申し訳……」

「出ていけ、次に同じことを言わせたら許さぬ」

「は、はい。今すぐに」


 トーマスはまさに這う這うの体で部屋を出て、扉を閉めた。

 その場にへたり込みたい気持ちを叱咤し、廊下を歩いて戻るところで、侍女のハンナに会った。

 彼女は封筒が一つだけ載せられた銀のトレーを持っている。

 見るからに上質な紙で作られた封筒は皇太子殿下宛てのものだろう。


「ハンナさん、その封筒は」


 トーマスは気を張って、体を真っ直ぐに保った。

 まだ喉は痛いし、目眩はするしで気持ち悪いが、それでもファースト・フットマンとしての矜恃がそうさせた。執事が不在の今、使用人達の手本となるのは自分でなければならない。


「殿下宛てですわ、トーマスさん」

 ハンナは決まりきった事を訊かないでくださいと言わんばかりの口調で答えた。

「それはそうなんだろうけど、今は止したほうがいい。殿下は……まだお休みだったから」

「そうなんですか? でも困りますね。これを持ってきたお遣いの人が表のホールで待ってるんですよ。必ずお返事を持って帰るよう言い付けられているんですって」

「何だって? 図々しいな。一体どこの誰のお遣いだろう」

 トレーに置かれた封筒を手に取って裏返し、封蝋に押された紋章を確認する。

「これはアベルフラウ公からの……」

 トーマスはそこまで言うと、腹を括ってハンナの持つ銀のトレーに手を掛けた。

「わかりました。これは私が皇太子殿下にお渡しします。ハンナさんはお遣いの人にもう少しお待ちいただくよう伝えてください」


 トーマスは踵を返し、再び主寝室へと向かう。

 物凄く気が進まないが、仕方あるまい。仕方がないのだと自分に言い聞かせる。

 ハンナよりも自分がお持ちした方が皇太子が手紙を受け取ってくださる可能性は高いはずだ。

 それにハンナが今の機嫌の悪い皇太子の部屋に入って、何か間違いが起こってもいけない。今のところ皇太子が連れ込むのは外の女性ばかりで、使用人に無体を強いたという話は無いのだけれど、檻に入ってきた小兎を獅子が襲ったことが無いからといって、それは今後も襲わぬことを保証するものではない。


 ノックをし、返事がないのでゆっくり三つ数えて入室する。

 皇太子は起きていた。ベッドの上に長い足を投げ出し、枕をクッション代わりにヘッドボードにだらしなく背を預けている。

 もう間もなく少年期を脱し、青年へと至る僅かな期間を体現したかのような、危ういが均整のとれた体には、初夏の時期のための薄い絹地のナイトガウンの他には何も纏われていない。

 そのガウンも大きくはだけて、彼の腰のあたりに辛うじて巻き付いているだけで、着衣としての機能は果たしていないに等しい。

 貴人は使用人の目など気にしないものだが、それでも矢張りハンナに代わって正解であったと思いながら、トーマスは銀のトレーを水平に保ったまま、先程のことなど無かったかのように丁寧に頭を下げた。


 衣擦れの音がして、床の上に足が降ろされ、自分の前に人が立つ気配がする。それだけでトーマスの喉の奥にじわっと痛みが蘇る感覚があった。

 封を切る音に続いて、トレーの上に乱暴にペーパーナイフが戻され、トーマスはそれが自分に向けられるようなことにならなかった事実に密かに安堵した。


「トーマス」

「は、はい」

「お前も読め」


 滑らすようにしてトレーに投げ出された封筒と便箋を落とさぬように素早く押さえ、それから遠慮気味にそこに書かれた文章に目を走らせるトーマスの表情に困惑が浮かぶ。


「……オストガルトといえば、今度ご公務で向かわれるご予定ですが」


 そう言ったトーマスに、皇太子バルトロメイは嘲るような嗜虐的な笑みを向けた。


「珍しく父上あの男公務しごとを寄越したと思えば」


 冷たく厳しい印象のある目元と緋色の瞳は、父親である皇帝テオバルトによく似ていると聞くが、トーマスは皇帝陛下に謁見したことなどないので、本当にどこまで似ているのかはわからない。

 トーマスにもわかるのは、皇太子の真白の髪が母親であるクローディア皇妃譲りであることだ。

 銀髪とは違う、まるで老人のような白い髪にクローディアは悩み、十三、四の頃からずっと亜麻色に染めていたのだそうだ。しかし心を病んでこの離宮に幼い息子と移った頃には、外見を粧う余裕すら失われてしまっていたのか、艶のない白髪に戻っていた。


「今からでも先方に断りを入れましょう」

「その必要はない」

 その言葉にトーマスは唖然としたが、バルトロメイはそれに構わず言葉を続ける。

「どうせ叔父上の使者が待っているのだろう。伝えてやれ。予定は変えぬと」

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