Episode 1-7



ガタガタ震える振動と、抱き枕になる男の体温と、少し蒸れてすえた布団の匂い。

雷はご機嫌に喉を鳴らし、雨足と強い風の気配は決して止まず。

次第に名月の方は震えが止まったのか、布団かまくらの中で久芳の背に腕を回す。


「……早く止まねえかな……」

「…………晴れの空が見たい」  久芳はぽつりと漏らす。

「……俺も。ここんとこ、お日様見てねえや」

「あんのかな、本当に。雨以外の空なんて。

 俺もうとっくに晴れの空なんて、どんな色か忘れちまった」

「あるよ。此処じゃないところに」

久芳の喉から、思いもかけず力強い声が出た。

その声に気圧されながらも、名月は思わず笑い声を漏らした。 

久しぶりに、名月が普通に笑った顔を見た気がする。


「見たいなあ。空って、青いんだっけ。

 お前は覚えて……いたとしても、忘れちまってるよな。ごめん」

「忘れたくねえなあ。今話してることも、俺忘れちゃうかも」

「忘れたら……。ま、気が向いたら、俺が覚えててやるよ。って、俺が忘れちまっても、意味ないんだけど」 

「気が向いたらってなんだよ」

「気が向いたら、は気が向いたら、だろ」


なんだそれ、と久芳が笑った。そういうもんだろ、と名月も笑った。

雷の音に怯えるよりも、やや早い心音を聞かれてしまうんじゃないかって気持ちの方に比重が傾いていた。

どさくさに紛れて、久芳は名月のつむじに鼻を押し付けた。

ちょっと焦げたパンに似た匂いがした。


「まあさ、俺らのことだから忘れても何回も同じこと話してんだろ」

「確かに。ありえるな」 

名月は笑った。「なんか、雨みたいだな、俺ら。毎日毎日、おんなじ天気を繰り返してんの」

「それって褒めてんの?」

「どうだろ。……あのさ、さっきのはとっとと忘れろよ」

「さっきのってどういう意味だよ」

「なに、気づいてねえわけ。流石にニブくね?」

「だからなんだよ」

「もういい。おやすみ」

「あ、寝逃げかよ。も~……おやすみ」

 

互いに、ややぶっきらぼうなおやすみを口にして、君目を閉じる。

次第に雷の足音は遠のいく。静かに地面を常に叩く、雨の歌だけが響いていた。

名月の規則的な寝息を耳元で聞きながら、次第に微睡み、久芳の意識もまた、夢の世界に誘われていく。

夢の中でもし、青空が見れたなら——それはいったい、どんな青だろう。

僅かな希望を胸に抱いて、外の世界を夢に見る。



その日、名月は早退するつもりだった。

厳密には、授業中に体調不良を崩したと言い訳をして、学校を堂々とサボタージュするつもりだった。

三限目の退屈な古典は見物だった。同級生たちを煽って学級崩壊を招き、若い女教師を泣かせて、爽快な気持ちで終わらせてやった。

四限目は口うるさい体育教師たちを相手にしなくてはならない。それよりもゲームセンターに籠って射撃の腕を上げるほうが百倍もマシだ。

どうせ義務教育だ、出席しなかったところで大した痛手にならない。保健体育のテストで黙らせてやればいい話だ。


「君が芒雁名月くん?」


鼻息混じりに校門を出た時、頭上から声が降ってきた。

はじめ、校門の側に植えてあったアオギリが喋ったのかと、驚いてつい仰いだ。

口をきいたのは、アオギリの木ではなく、木の幹にもたれかかった一人の青年だった。

見覚えのない男だ。歳はまだ20を過ぎたくらいだろう。

身長は2メートルはあり、嫌味なほど足が長い。

季節は夏だというのに、モッズコートを羽織っている。厚着なのに汗をひとつかかず、肌が紅潮する様子もない。まるで美しい死体だ。

黒髪をツーブロック風に整え、エメラルドブルーの目がきらりと輝くさまに、心臓がどきりとした。

涼やかで端正な顔立ちに、一瞬でも目を奪われた事実が、無性に腹立たしくなり、無視しようと一歩踏み出した。


「ね、名月くんでしょ。それとも「眠猫おきたちゃん」?」


ぎくりと足が止まり、思わず男を振り返った。

「眠猫おきた」は名月のハンドルネームだ。オンラインゲームやSNSで「ネカマ」としてふるまう際によく使っている。けれど正体を明かしたことはないし、身元がばれるような「ヘマ」はやらかしていないはずだ。

名月の強張った顔を見て、男は「無視しないでよ」と楽し気に言い、口角を吊り上げた。

冷えた笑みを浮かべたまま、すっと前屈みになって顔を近づけてくる。顔は笑っているのに、目は蛇のように名月を品定めするかのようで気分が悪い。


「誰だ、テメエ」

「つれないなあ、一緒にゲームした仲じゃない。

 「トロイ」って言ったら分かる?」

「トロイ……って、あのトロイ!?」


ぎょ、っと目が大きく見開く。

この時代では、ネット上でその名を知らない方が珍しい。

名月が遊んでいるオンラインゲームのサーバーを破壊しただの、海外企業のデータベースにクラッキングしてプログラムを破壊しただの、警視庁のサイトで掲載されているマスコットキャラを悉く競馬の馬の頭部と挿げ替えて逃げ切っただの、その悪辣な活躍ぶりは留まるところを知らない。

名月自身、13歳の時点で、大人顔負けのクラッカーではある。多少なり知識もあるし、人には言えないような「悪行」にだって手を出した覚えがある。

己の頭脳に自惚れ、何度かトロイの痕跡を掴んで、コンピューターウイルスを送ってみたり、「ちょっかい」をかけたこともあった。だがその度に手ひどくやり返されてきた。トロイは蟻を弄ぶように、他者のプライドを容易にへし折った張本人だ。名月をはじめとする、数々のクラッカーたちが犠牲になった。


「そ、そのトロイだとして、ただの中坊に何の用だよ。通報されてえのか?」

「冷たい事言うなよ、せっかく情報抜いて、君の事特定してまで会いに来たのにさ」

「ストーカーって意味知ってる?オニーサン。鏡見なよ、本物が見れるぜ」


内心、冷や汗が止まらない。

トロイは掴みどころのない怪物めいていた存在だ。

おふざけでコラージュ画像を作り愉快犯を演じるかと思えば、遠い海の企業を一つ二つ、その指で潰してしまうこともある。

だが当人はそれを誇示することもせず、淡々とスナイパーのように標的を定めては、完膚なきまでに叩き潰すのだ。

それが、先日まで一プレイヤーとして、課金してまで遊んでいたオンラインゲームだとしてもだ。

インターネット犯罪界における貴公子、その「トロイ」が、目の前にいる。

しかも、虫一匹殺すことさえ煩わしい顔をしそうな、顔立ちの整った優男。

ど肝を抜かれるのも、ある意味致し方ないことだったし、警戒せざるをえなかった。

本物であれ否であれ、名月の素性を特定した時点で、危険人物であることに変わりはない。


「ま、ま、悲しい事言うなよ。仲良くやろうよ」

「何言ってんだテメー、頭のネジぶっトンでるわけ?誰がアンタなんかと」

「だって俺、君とトモダチになるためにこんな田舎まで来たんだぜ」


「トロイ」は言いながら指を鳴らした。

小気味良いパチン!という音が響くや、校門の前に立派な黒塗りの高級車が現れ、ドアが開かれる。漫画で見るような金持ちの送迎車だ。

口をあんぐり開けた名月の腕を引いて、へら、とした面持ちで「トロイ」は振り返る。


「学校なんて退屈だからさぼるつもりだったんでしょ。

 トモダチなんだし、どこでも付き合うよ。ゲーセンとかさ」

「……トモダチじゃねえっての!」


それが、東院久芳とのファーストコンタクトだった。



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