Episode 1-5


名月の家は、ファミレスから徒歩15分ほどの場所にあるアパートだ。

聞くところによれば、彼の希望で家を出て、一人暮らしをしているらしい。

二階の一番奥手にある部屋が、名月の住まいだ。

部屋にはテレビ、簡易ベッド、小さいテーブルや冷蔵庫など、必要最低限の家具しか置いておらず、散らかったゴミ類に目をつぶれば、簡素な部屋だ。

名月は足元のビニール袋を蹴り飛ばし、「掃除すんの忘れてた」とゴミ袋を探しながら、ふと久芳を見上げる。


「……なあ、変な事聞くけど」

「ん?」

「俺、ファミレスで、ヒサと何か話した?」

「…………俺の母さんのこと」

「他には?なにかあるか?」

「なんだよ急に、さっきのことじゃん」


すると突然、ナツキはあ”~ッと頭をがしがし掻いて、その場に転がる。

まるで駄々っ子みたいだが、本人は心底悔しそうだ。

「あ、お菓子買ってもらえないガキだ」と茶化すと、「んだとコラ!」と名月が蹴り飛ばす。お決まりのじゃれ合い。

「で、なんで一人でキレてんの」

「”また”忘れてやがるんだ」

「……”また”?」

「冗談じゃねえぞ、気が付くとすぐにコレだ。いつのまにか、記憶がすぽんっと抜けてやがる。

なかった筈の物が増えてる。していないはずの約束を交わしては、破ってる。」

「…………」

「これまで、何度かあった。気づいたのはお前が最初だ」


寝転がった名月と目が合う。

冗談にしては笑えないし、名月も冗談を言うような表情ではなかった。


「……俺とナツキくん、頭おかしくなってんの?」

「そうだと思うだろ?”みんな”、そうなんだ」

「……は」


苦々しく、名月は口にする。曰く。

この町に住んでいる人間の大半は、過剰なまでに「物忘れ」が激しい。

激しいどころではない、お互いに「記憶障害」を引き起こしていることに、気づいていない。

例えば、明日遊園地に行こうと約束したカップルが、それぞれ遊ぶ約束そのものだったり、行く場所を忘れていたり。

年間行事が何かを忘れることなんて当たり前、ひどい時は曜日や日付の感覚が狂っている者もいるという。

その異変に気づいたのは、久芳が先だった、と名月は語る。


「だから、約束したんだ。二人で、こんな気色悪い町から出て行こうって」

「…………」

「……覚えてないんだろ、どうせ」

「ぜんぜん」

「これまでも、何度かあった。今更な話だな」


諦めたように、名月が呟いた時。

——まただ。 

ずきり、と、先程よりも強い頭痛が始まる。頭痛薬の効果などお構いなしだ。

直後、視界が明滅し、頭の中に直接流し込まれるように、光景が浮かぶ。


強く打ちつける雨の中、必死に誰かの手を引いて走っていた。

灰色の町並みの中、狭い路地を、とにかく力の限り前のめりになって走っていた。

轟く雷鳴の音に全身が竦み、腹は強烈に空腹を訴えていた。

それでも自分は走っていた。激しい息遣いと、水たまりに突っ込んだ足先の冷たさが異様に気持ち悪かった。


──逃げなくちゃ。ここから今すぐ、なにがあっても。

──この手を離したら駄目だ。あの音から今すぐ逃げないと。

──外だ。この町から出て行かなければ。寒くて冷たい、羊水にも似た世界から。



はっと我にかえると、ひどい脂汗を掻いていた。

名月は怪訝な表情で、珍しく君を気遣うように「大丈夫か?」と尋ねる。

今の光景は、なんだったのだろう。懐かしいようで、おそろしくて、震えるような記憶だ。


「はは、ははは……」

「おい、何笑ってんだよ……」

「大丈夫じゃねえよ、頭は痛いし、いろいろ忘れちまってるし、いろいろ思い出すし、頭は痛いし……」

「ぶっ壊れてねーか、お前。勘弁しろよ」

「ぶっ壊れてるかも」

「笑ってる場合か。動けなくなったら置いてくぞ、テメー」

「置いてかないでよ……」


脱力してしまい、乾いた笑いを漏らしながら床にごろんと転がる。

名月は脱力しきった久芳を見下ろして、はあ、と溜息を零す。

転がる久芳を跨いで押し入れに向かうと、布団を引っ張りだして、久芳の上にばすんっと放る。


「布団強いて寝ろ、バカ」

「ぶべっ!バカは余計だバカ……」

「一枚だけの布団貸してやるんだから、泣いて土下座して感謝しろよスカタン」

「……え怖っ、ナツキくん寝ないの?」

「野郎と同じ布団で寝るくらいなら自分の服で寝るわ、キショイ」


名月は吐き捨てるように言いながら、キッチンへ向かう。

おんぼろのヤカンに水をそそぎ、雨の音を聞きながら湯を沸かしている。


「でさ。母親とは連絡とれたわけ?」

「……電話かかってきてさ。俺らのこと連れ出してくれる……」

「マジ!?やったじゃん、お前のダチやっててよかったわ」

「……って話を俺らさっきファミレスでしてた。そこは感謝しろよな」

「るせーよ人の布団に寝そべっといてよお~……そ。俺、そこも忘れてんのな」

「みたいだな。その様子だと」


「じゃあ俺たち、明日には町の外に出られるわけ?」

「明日は無理かも。あ~……なんか、ミサに行って話してみろって」

「ああ?なんでそんな話になってんのさ」


ナツキは眉間の皺を深め、久芳にはホットココアを、自分はホットミルクをついで、隣にどかりと座り込む。

白い湯気がもう、と立ちのぼる様を見て、今が夏であることを忘れそうになってしまう。

雨音が少し弱まった。頭痛は変わらず、じわじわとこめかみを締め上げてくる。


「西澤さん……あの~俺がいるとこのお偉いさんが協力してくれるんだってさ」

「げっ西澤?アイツ視線がキモいから苦手なんだよな」

「あ~わかる」

「なんつーか、俺たちのこと美味そうな肉を見るみたいな目ぇしてんのがヤだ」

「ま、出してやる代わりになんか協力しろとは言ってた」

「ふーん……。ま、出るためなら仕方ねえか」


ちみちみとホットココアを啜る。胃の中に柔らかい熱が揺蕩う。

名月の顔を見ているうち、久芳の背中でぞわ、ぞわと怖気が静かに伝。

思い返してみれば、名月といつ頃、具体的にはどこで、何をしただとか、そういった記憶もところどころ、抜け落ちている。

昨日は、何を話していたんだっけ。

三日前に食べたものが、どうして思い出せないんだっけ。

友人や家族に関しても同様で、自分自身、はっきりと覚えているのは、現時点では母親の顔や名前、過ごした過去だけ。

……ならば。

今、自分が心配を寄せている弟の顔は、育ててくれた祖父母の顔や名前は、どうして、これっぽっちも思い出せないのか。

弟が入院している病院の名前。覚えている。病室の番号。何番だっけ。

祖父母が好きだった食べ物は何だっけ。引っ越す前の町の名前は。

弟はそもそも何年前から入院しているんだっけ。

どうして金がないんだっけ。父親はどこで何をしているんだっけ。

自覚してしまえば、喪失感が己の周囲をぐるぐると回りながら、音もなく密やかに笑うような居心地の悪さが、皮膚の下を蝕んでいく。

虫食い穴そのものに、自分の記憶がじくじくと浸食されていくかのよう。

或いは、失われたはずの記憶が、死に損ないの毛虫のように、恨めしい音を漏らしながら這いずり寄って来るような。


──本当はどうして、この町に来たんだっけ?


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