第8話「夏のはじまり」

 あんな出来事が、他でもないこの身に起こったと思えば。どうしても真っ黒で鬱々とした気持ちには、なる。


 ベッドの上で温かな毛布に包まれ猫のように丸くなり思い出すのは、いくつかの良かったはずの思い出と、それを上からぐちゃぐちゃにして塗り潰すようなひどい真実。


 涙がどれだけだらだらと流れていっても、それはどうしても心の中から消せなかった。


 何日も何日も。今がいつかも、わからなくなるほどに。


 ライバルへの嫌がらせに一年を使った最低な元彼のお陰で、だしに使われた私は自室に篭り切りになった。気の利く従姉妹のラウィーニアが何か言ってくれたんだとは思うけど、末子の私に甘い父母も何かと口を出す兄も部屋には顔を見せない。それで、良かった。


 きっと、皆これを聞けば心配してくれているだろう。頭脳派の兄は剣を持ったことも無いのに、この顛末を聞けば、クレメントに決闘を挑みに行くかもしれない。あっさりと、瞬殺されてしまいそうだけど。


 大きな傷を負って、外敵から身を隠し巣の中でじっと身を潜める野生の動物のように。何もかもを、遮断していたかった。


 何か優しくいたわるようなことを言われれば、悪くないとわかっているのに。何がわかるのと、八つ当たりで傷つけてしまいそうで。誰にも会いたくなかった。誰にも。


 封も切られていない手紙は、執事のチャールズが何も言わずに定期的に部屋に入り積み上げた。


 差出人の名は、なんとなくはわかっている。だからこそ、読みたくなかった。きっと、私には理解し難い。何か言い訳のようなものが、それらには書かれているんだろう。


 下手人クレメントは私の心の中で火炙りの刑に処すべきだとは、思った。もちろん。それなりに教育を受けているので、こんな……何の関係もない誰かから見れば、全く大したこともない。小さな色恋沙汰で、そんな刑が執行される訳がないのもきちんと理解してはいるけれど。


 けど、私の中では、ある意味では被害者でもあるランスロットも許し難かった。クレメントの非道な真意を知っていたなら、私にすぐに教えてくれれば良かった。


 恋に落ちるよりその前に。私を傷つけたくなかったなんて、彼の欺瞞でしかない。


 ちゃんと最初から全部を話してくれたら、こんなにまで傷つかなくて済んだ。


 そうしたら、こんなに。こんなに。世の中の全てを壊してしまいたいくらいにひどい思いに、ならなくて済んだのに。


 もう誰も。何も。許したくなんか、ない。



◇◆◇



 私がじっと息を潜めて部屋の中に閉じこもっている間に、華やかな社交期は終わりに近づき、暑い夏はすぐそこまで来ていた。


 その頃になると、流石にぐちゃぐちゃな様相になっていた心の中は大分片付いてはいた。


 良識ある誰かに話しかけられれば、きちんと会話が成立するくらいには。


「ディアーヌ」


「何処にも行きたくないし、誰にも会いたくない」


 寝巻き姿のままベッドに転がり、寝癖も整えていない私は撫然として言った。


 いつものように様子を見に来てくれたラウィーニアは、仕方なさそうにふふっと笑った。部屋に入った彼女は一分の隙もない完璧な貴族令嬢で。こんな格好では何処にも行けない体たらくの無様な自分との対比を思うと、泣けて来る。


「……とは言ってもね。一生そのままで居る訳には、流石にいかないでしょう? ねえ。急だけど私。コンスタンスと、海辺の街に婚前旅行に行くことになったのよ。世継ぎの王太子の結婚式となれば、準備や来賓の接待なんかで、当分はゆっくりなんて出来ないから。ディアーヌも一緒に連れて行きたいと言ったら、彼も是非来て欲しいと言っていたわ。ディアーヌと一度話してみたいと言っていたから。そろそろ外に出て、海の綺麗なところで少しでも気晴らししましょうよ。最低男のことなんて、もう忘れましょう」


「でも……」


 愛するラウィーニアの従姉妹の事だからとは言え……王太子殿下に気を使わせてしまって申し訳ない気持ちには、なった。


 それに……彼が移動すると言うことになれば、もしかして。


「ねえ。この手紙の山は、やっぱりまだ読んでないの? こんなに、沢山……話だけでも、聞いてあげたら?」


 机の上に折り目正しく積み上げられ、ちょっと突けば崩れそうな手紙の山を見て、ラウィーニアは大きく溜め息をついた。


 もし、謝罪の手紙をこれでもかと数を出して、罪が赦されるのなら。もし後悔がある人なら誰だって、きっとそうしている。


 けれど、許す立場にある私の気持ちを決めることが出来るのは、私だけのはず。


「一年も……一年もあったのよ。ラフィーニア。彼が真実を話す気になれば、その間に幾度の機会があったと思う? あのバカに好きだよと言われて、浮かれて。最初から、全部騙されていたのに。バカみたいに……私……」


 また、心の中にある暗い穴の中に落ちてしまいそうな私の肩を軽く何度か叩いて、ラウィーニアは隣に座った。


「ねえ、お願い。聞いてディアーヌ。あれから少し時間が過ぎて、貴女も少しは落ち着いたと思うんだけど。傍目から見ても、デビューしてすぐに、美形の騎士に言い寄られて。自分でも浮かれていた自覚は、あったでしょう? 本来の自分を押し殺して無理してでも、彼と一緒に居たかったのよね。あんなに純粋に恋をしている目をしている女の子に、君は騙されているから目を醒ませと……言えなかった気持ちは、私も理解出来るわ」


「ラウィーニア……でも」


「……聞いて、あの年の社交界デビューの日。私の記憶が間違っていなければ、ランスロット・グラディスは遅刻して来たはずよ。私はコンスタンスのパートナーとして会場入りしていたけど、王族の彼は開始のダンスをデビュタント達と踊らなければならなかったでしょう? 私はその時間暇だったから、我が国の誇る美形騎士達でも観察していようかと思っていたんだけど……彼は、遅れて来ていた」


 ラウィーニアは、意味ありげに笑った。私はそれを聞いて、彼女が何を言いたいか察せずに首を捻る。


「ランスロットが、遅れて来た……?」


 社交界デビューのために会場入りしたデビュタント達は、まず王太子や他の王子達とダンスを踊るはず。そして、思い思いに歓談したりダンスしたり。私は第二王子ハリー様と踊った後は、まだ婚約者が居ないのでパートナーとして一緒に来ていた兄と一度ダンスを踊って。


 その後すぐに、クレメントに声を掛けられたはず。


「きっと、クレメント・ボールドウィンの嫌がらせの一環でしょうね。もし、ランスロットが、あの時、社交界デビューしてようやく求婚者を募ることになる伯爵令嬢のディアーヌに声を掛けようとしていた事を、彼が事前に知っていたとしたら? 彼を遅刻させるような、何かを仕掛けるなんて簡単なはずよ。だって、階級も一緒の同僚だもの。何かを仕掛けようと思えば、どうとでもなるわ」


「最低……」


 本当に、最低だった。


 でも。確かにランスロットは初めて私と話した時に、失恋は辛いものだとそう言っていた。死にたくなるくらい、何もかもが無意味に思えるような、辛い思いをしたと。


「自分を嫌うクレメントと一緒に居たディアーヌを見て、彼は絶望したでしょうね。そして、彼に恋をしてしまったディアーヌを、傷つけたくないと願った……ランスロットは、どんなに誘われても誰とも踊った事もないのを知っているでしょう? 誰とも、一度もよ。そんな彼が、貴女とは踊った。ディアーヌ。辛かったのは、貴女だけではないわ。どうか、わかってあげて」


 諭すようなラウィーニアの言葉に、心は揺れはした。何日も何日も泣き暮らす中で、彼の立場であればと何度も考える機会はあり。


 そして、さっきのラウィーニアの言葉で、いろんなものが繋がったように思えた。


「……その婚前旅行って、誰が護衛に来るの?」


 尊い御身の王太子が、城を出て遠出をするなら。凄く強い護衛が付くはずだ。例えば、筆頭騎士の誰かとか。


 遠慮がちにそう言った私の言葉を聞いて、ほっと安心したような息をついたラウィーニアは、私の頭を撫でて笑った。


「さあ……誰かしらね。でも、コンスタンスは私のお願いなら聞いてくれるから。同行する私の従姉妹が、自分の気に入っている騎士を指名すれば叶えてくれるでしょうね。行動も制限される窮屈な王族なんだもの。そのくらいの私情は許されるはず。彼らは仕事で護衛に来てくれるとは言え、美形の騎士は目の保養だものね……ディアーヌ。貴女の好きな騎士の名前を言えば良いわ」

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