破れた恋に、火をつけて。〜元彼とライバルな氷の騎士が「誰よりも、貴女のことを愛している」と傷心の私に付け込んでくる〜

待鳥園子

第1話「恋、破れる。」

 人生には、キリの良い瞬間というのはたまに訪れる。振り返ると、あれこそが自分の人生の区切りだったのかと、後になってからそう思える瞬間が。


 たとえば、幼い頃に両親から出された王都に残るか、それとも領地に付いていくかの二択で提示された選択肢。社交界デビューの夜会からの帰り道。


 そして、初めて付き合った彼と別れ話をした、花々が咲き誇る昼下がりの庭園とか。


 そろそろ三時になる事を示す鐘の音を聞いても、動き出さない自分の靴を私はじっと見つめていた。別に興味のある何かが、そこにあった訳ではない。流行の形のドレスと一緒に共布で作った、薄いピンク色のサテンで出来た靴。からからに乾いた煉瓦で出来た、赤い道。


 思考は、ずっと停止したままだ。何も考えては、いられない。これからひどく傷つくだろうという事実を、簡単には受け入れたくはない。


 呆気なく失恋したという重大な事実を、抱えたままではまだ動けない。心の中でせめぎ合う何かを、すべて整理しないと動き出せない気がしたし、どうにも時間の進む感覚がおかしい。


 だって。ついさっき、クレメントは何の未練など見えないあっさりした態度で目の前から去って行った気がするもの。


 彼との思い出が頭の中をぐるぐると回っては、また意識がこの美しい庭園に戻ってくる。


 社交界デビューした時に、真っ先に声をかけて貰えた事に浮かれすぎて、帰りの馬車の扉とキスしたこと。仲良しのシェフリチャードに内緒で手伝って貰って作ったクッキーの甘い匂い。その夜に貰った、愛がこもっていたはずの甘い言葉たちが並ぶ手紙。


 ああ……別れてしまった今になってみると、何もかもが。全てが、空しい。


 皆が皆。初めて付き合った恋人と、結婚出来る訳ではない。人生の最後まで共に居れる訳ではない。それがわかっていながらも、こう考えずにいられない。


 いつか終わってしまう何かなら、いっそ最初から何もない方が良いのかもしれない。


 そうすれば、こんなに自分の中が何もかも空っぽになってしまったような、今まで生きて来た道筋が何もかもが無意味に思えてしまうくらいのひどい痛みを心が耐え難いほどに感じるようなことなんてなかったはずなのに。


 失恋の衝撃に気持ちがついていかなくて長時間ぼんやりと座っていた長椅子の反対側の端に、誰かが腰掛けた気がして私はふと目線を向けた。


 どうやら、あちらもじっと動かないままで座っていたままの私の様子を窺っていたのか。何の感情も見えない無表情しか見たことのない彼なのに、珍しく驚くような顔になっていた。透き通る氷を思わせる、薄い水色の瞳は見開いている。


 慌てて視線をさっきまで見ていた足元に、ぱっと戻した。


 何の理由かわからないけれどその場所に居た彼の顔が、異常に整っていたからとかではなくて、とても見覚えがあった。


 きらめく銀色のさらりとした髪に色素が薄い水色の目を持つ彼は、この国では良く知られていて有名だから。


 大国レジュラスに、この人ありと囁かれる、氷の騎士ランスロット・グラディス。そんな名で呼ばれ、多くの武勲を立て国民からも支持を集める人気の美形の騎士だ。


 冷たい氷を思わせるような色彩を纏っているだけではなく彼は実際に氷属性の魔法を一番に得意とし所属する王宮騎士団でも筆頭騎士と呼ばれている。多くの戦闘員を抱えている軍事国家でも五本の指に入る程に、とてもとても強いらしい。


 そして、私の……つい先ほど元彼となったクレメントの、事あるごとに対立する仲の悪いライバルだとしても有名だった。


 こんな時に彼と関わるのは、あまり良くないかもしれない。人生経験を積んだ訳でもない私にだって嫌になるくらいに、それはわかっていた。


 でも、どうしてもこの場所から立ち上がる気力が、湧いて来ない。


 ここから一刻も早く離れなくてはいけないことは、ちゃんと頭では理解出来ているつもり。それが出来ているからって、言うことの聞かない体がそれでは立ち上がりましょうとなる訳もない。


 それよりも、自分の心を守るために。本当に悲しくなる前の猶予時間を、長引かせる方が重要だと思う。


 だって、もう邸に帰ってしまえば、クレメントがさっき言ったことも全部全部、現実になる。心に出来た大きな傷からだらだらと血が流れる生々しく激しい痛みになって、私に襲いかかって来るはず。


 そうしたら、私は泣くだろう。


 さっき別れたばかりの彼を想って、涙が枯れるまで泣いてしまうはず。部屋に戻って。一人になったら、きっと……。


 出来るなら、時間を戻したい。


 どの瞬間に? そう聞かれれば困るけれど、願わくば、クレメントの心が私から離れてしまう前に戻りたい。


「あの」


 それは何かを躊躇うような声だった。私が座っている長椅子の反対側の端に腰掛けた彼が、意を決したかのようにこちらに向かって声をかけて来た。


 私は、無礼だとは理解しつつも黙ったままで動かない。


 彼といつも火花を散らしているという元恋人クレメントに関する嫌味だったとしても、こちらに反応がなければ何も面白くないと思う。それさえ理解して貰えれば、この彼はきっとすぐに諦めるはず。


「ディアーヌ・ハクスリー伯爵令嬢。私は、ランスロット・グラディスです。貴女は……もしかしたら知らないかもしれませんが。この城で騎士として、働いていて。決して、怪しい者では、ありません」


 そのことは、国民のほとんどが、とても良く知っているけれど。考え難いことだけれど、もしかしたらこの彼は自分が、とても目立っている存在であることを知らないのかもしれない。


 ついさっきまで付き合っていたクレメントへの遠慮もあって、そして特にそうする必要性もなかったから、ランスロット・グラディスと私は今まで話した事が一度もなかった。


 互いに、遠目で姿を見るだけだった。


 淑女に対する礼儀は、完璧。きちんと挨拶と自己紹介をされて、それでも無視を貫く訳には行かない。


 私はゆっくりと頷き、紳士的に長椅子に距離を空けて座る彼を見た。


「初めまして。ディアーヌ・ハクスリーです。グラディス様」


 彼の方を向くと歪んだ視界が揺れて、頬を伝った温かなものに手に触れると指先が濡れて驚く。


 そんなつもりなんか、なかったのに。こんなところで、みっともなく泣くつもりなんてなかったのに。


「不作法を。申し訳、ありません」


 一度流れ出した涙は堰を切ったように次から次へと落ちてくる。止めようとしても止まらなくて、ぐっと下唇を噛み締めた。こんなの、嫌だ。まるで故意に泣いて、ランスロットの同情を引きたいみたいになってしまった。


 両方の手の平で強引に頬の涙を拭うと目の前に、真っ白で清潔そうなハンカチが現れた。


「……どうぞ、使って。今日卸した新品のものなので、貴女が良ければ、そのまま持っていって欲しい」


 この涙は彼のせいではないけれど、泣いてしまうきっかけを作ったのは他でもないこの人だ。私はどうにかこの場所で失恋の衝撃をやり過ごせるようになるまで落ち着けば、邸に着くまでは我慢はするつもりだった。


 どこかやぶれかぶれになってぱりっと糊の利いたハンカチで、次々と流れ落ちてくる涙を拭った。


「……ありがとう」


 そのまま一頻り泣いて、みっともなく鼻を啜りながら言った。


 ランスロットは何も言わずに、傍に居た。


「いいえ。本来なら、こんな時には何処かに行くべきだろうと思う。だが、貴女が落ち着いたらどうしても話して置きたい話があるので。どうかそれまで、ここに居ることを許して欲しい」


 私はその時に、ランスロットの顔を正面から初めて見た。美しく整い過ぎた、どこか非情で冷たくも思える目鼻立ち。思わず嫉妬してしまいそうな、化粧もしていないだろうに透明感のある綺麗な白い肌。


 間近で見た彼は、どこか現実味がない。驚きにぽかんとして、あんなに止まらなかった涙がやがて引いてしまう。


 大きく息を吸い込んで、出来るだけ涙声にならないようにした。


「ふふっ。この長椅子は、私の所有する物ではないもの。別にグラディス様が居ることは、先に座っていたからと言って、私に断らなくても……それは、自由だと思うわ」


 彼は私の言葉に、目を何度か瞬かせると面白そうに笑った。冷たくも見える表情が綻んだのを見て、春に雪解けを見たような不思議な気分だった。


「確かにそうだ。それでは、こうしてディアーヌ嬢が、落ち着くのを隣で待っても良い訳ですね」


「私を、待つって……何の理由で?」


 氷の騎士ランスロットが私を待つ理由なんて、何も思いつかない。素直な疑問を口に出して首を傾げた私に、彼は頷いた。


「……ずっと、待っていた。君が独り身になるのを。ずっと」


 氷の騎士は、女嫌いだったはず。


 彼が持つその名前には、様々な意味をも含まれていたはずだ。彼は王族の誰かに命じられて仕方なく夜会に出ようが、自分から誘わないし誘われても誰とも踊らないと聞いていた。


 さっき恋人と別れたばかりの傷心の女性に対して思わせ振りな事を言う彼に、私は皮肉を込めて淡々として言った。


「そんな事を、言ったら……誰もが、誤解しますよ。貴方みたいな素敵な人は、冗談を言うとしても、かなり言葉に気を付けないといけないと思います」


 ランスロットは何を思ったのか、寂しげに微笑んだ。


「……こうして一人で泣いている理由を、聞いても?」


「失恋したの。良くある話でしょう?」


 自嘲するように笑うと、涙が乾きかけの頬が引きつれた。化粧も取れてみっともない事になっているとは思うけれど、なにもかもがどうでも良かった。


 そうして、私は思った。このランスロットは、失恋したことなんて……あるのだろうか。きっと、ないだろう。なんとなくの予想だけれど。それにもし別れを告げるなら、この彼からのはずだ。


 今の私のように、必要のないものとしてあっさりと捨てられた、みじめな想いなど味わったことなどないはずだ。


「誰かと親密に付き合った後で別れるのは、誰だって辛いと思う。それに、失恋する気持ちは痛いほどにわかる」


 そして、膝の上で握り締めていたハンカチを取り上げ、涙がこみ上げていた私の目元に当てた。彼の慈しむような目に、どうしても苛立って眉を寄せた。


「……貴方みたいな人にも、この気持ちがわかるって言うの?」


 私は、自分が傷ついているからとは言え、彼に対し失礼な事を言ったと思う。八つ当たりに近い言葉だった。けれど、ランスロットは気にしていないという事を示すように、優しく微笑んだ。


「恋を失う事は、辛い。少なくとも僕の場合は、死にたくなるくらいに、辛いものだった。それまでの何もかもが、すべて無意味なものに思えてしまうような空虚な日々を味わった」


 一度も失恋したことなんて、なさそうなのに。


 大きく、溜め息をついた。容姿が飛び抜けて整っている人は、それだけでいろいろな誤解されるのかもしれない。私は自分の思い込みだけの発言を、恥じた。


 何故かは、わからないけれど。ランスロットは、私の辛い想いに寄り添い理解しようとしてくれている。


「その気持ちは、理解出来ます。自分がもう、何の価値もないように思えて……辛い」


「今でも、別れた彼が好き?」


「……わからない」


 ランスロットの銀色の髪は、前髪が少し長くて後ろは短い。彼は自分の膝に頬杖をついて、どこか投げやりに言った私を面白そうに笑った。


「わからない? それなのに、辛い?」


「……もう、私達は元には決して戻らないと思う。未来は、わからないけど。何もかもが元通りにはならない。それは、わかってるの。二人がもう同じ気持ちではないと言うのは、痛いほどに理解してる。だから、ここで失恋したのは確かに悲しいけれど、彼に縋ろうという気持ちはないの」


「そうですか……」


 ランスロットは、何か真剣な表情で思い詰めた顔になった。


「……本来であれば、ディアーヌ嬢が落ち着くのを待って何かをするべきだというのは、僕もわかっています。だが、貴女が悲しんでいる姿を見て、どうしても……居ても立っても居られませんでした」


「えっと……?」


 私は、眉を寄せて微妙な表情になっていたと思う。だって、こんなの……続く言葉は絶対。


「ディアーヌ。僕は誰よりも、君のことを愛している。どうか、今は難しいとしても……時間を置いてからでも、僕との事を考えて貰えないですか」


 薄い桃色の唇が、優しく微笑む。私は人の顔の黄金比というものを、見た気がした。すべての美しいものに共通するという、割合の法則。


「……あの……」


「自分勝手に……すみません。また。ディアーヌ嬢」


 ランスロットは立ち上がり、呆気に取られ座ったままの私に礼儀正しく頭を下げて去って行った。


 ふらふらしながらも、彼の後ろ姿を見送ってから立ち上がる。それからどうやって家に帰ったかとかは、どうか聞かないで欲しい。だって、本当に覚えていないのだから。


 前触れもなく失恋した衝撃は、更なる強い衝撃によってどこかに吹き飛んでしまった。


 そして、ぼーっとした状態のまま健やかにベッドに潜り込む頃には、失恋の後の庭園での出来事は、都合の良い白昼夢を見たのかもしれないと思うことにしていた。


 だって、冗談にしても、笑えないし、面白くない。


 致命的。

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