5-2 約束(2)

「すばるーッ!!」

 耳元でパンと乾いた音がして、同時に体の中が熱くなった。

 視界には、ゆっくりと地面に吸い寄せられるすばるの体。

 自分の発した声が、まるでラジオから流るように遠くから聞こえる。

 必死に叫んでいるのに。

 篭って、抑揚のない遠野自身の声が鼓膜に反響する。

 空を切るすばるの華奢な手は、サイレント映画さながらに。

 現実味なく、音や色味を失う。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 遠野の手をすり抜けるように。

 遠野の手から溢れるように、通り過ぎていった--。


「遠……部ッ! 遠野警部ッ!!」

 ぼんやりと、遠野の視界が揺らぐ。

 蜃気楼でも見ているのではないか、と錯覚してしまうほど。遠野の捉える視界は、ゆらゆらとして焦点が中々合わなかった。耳の周りは膜が張ったように、深く低い音を止めどなく鳴らす。篭る鈍い音は次第に大きくはっきりと形を帯び、遠野の鼓膜を刺激した。

(サイ……レン……?)

 緊張感を煽るその音が、直近の記憶を目覚めさせる。断片的な映像が、一気に脳内になだれ込む。遠野はハッとして、息を強く吸った。

「ガッ……ガハッ……」

 気道に何かがつかえて、上手く息が吸えない。同時に、体内の熱いものが逆流する。気道を塞いでいた何かが一気に口から溢れ出た。

「遠野警部ッ!! 動かないでくださいッ!!」

 同時に聞き覚えのない悲痛な声が、サイレンと重なるように遠野の耳に刺さる。手のひらに溢れる、体内の熱。遠野は思わずその手に目をやった。

 赤く染まる、無骨な自身の手。何故、自身の呼吸が不自然なのか。遠野はその理由をすぐに理解した。グラグラと左右にブレるぼんやりとした視界を正すように、目を必死に凝らす。遠野は、無我夢中で声のする方へと手を伸ばした。濡れた手が、柔らかな感触にぶつかる。覚えのある色味。誇りと使命感の塊である制服の袖であることを、本能的に感じ取った。遠野は、その袖を加減のきかないの力で握る。

「……すば、る……すば」

「今は自分のことを考えてください!! もうすぐ救急車が来ます!!」

「すばる……ッ……ガ、ハッ」

「遠野警部ッ!!」

 息の吸えない苦しみよりも。

 思うように動かない、己の体のもどかしさよりも。

 目の前にいたはずのすばるを存在が確認できない、今のこの現状が遠野には辛かった。

 胸の奥が、疼くように痛い。

 何故、その手を離した?

 何故、表情の向こう側を見ようとしなかった?

 いくらでも浮上する自責の念は、胸の中で風船の如く膨らみ、体が覚えたすばるの感覚を色濃くぶり返す。

 寂しいくせに、強がる細い肩。

 発する声、少年らしい言葉。

 拗ねた顔、笑った顔。

 脳裏に鮮明に蘇るすばるの全て。

 遠野は、必死に痕跡を探した。

 結局、すばるに何もしてあげられなかった。

 守ることも。手を繋いでいることも。

 そんな単純なことすら、できなかった--。

 自責する自分、立つ力を奪うほどの失意。そんな遠野に最後の力を与えたのは、すばると交わした小さな約束。

 遠野はすばると交わした約束が、色味を帯び、熱を帯び。刹那に遠野の体を突き動かす。自分自身に課せられた、小さな約束。それが、遠野の全身に再び力を行き渡らせて言った。

(まだ……まだ、だ! まだ、希望は……ある)

 遠野は固く握った手を振り解く。赤色灯がうるさく鈍る視界、遠野は再び目を凝らした。

 自分のものではないと錯覚するほど、不安定な体。気力で己の体を奮い立たせ、遠野は踏ん張るように立ち上る。そして、声を振り絞って叫んだ。

「すばる……すばるーッ!!」



『昨日爆弾が爆発した場所から、わずか数百メートルのこの場所で、今、一体何がおこっているのでしょうか?』

 辿々しく、それでいて淡々と。

 女性記者はブルーシートと赤色灯が点滅する規制線を背に、カメラに向かって静かに疑問を投げかけた。

 テレビから伝わる現場の慌ただしさ。その喧騒をすぐ近くで感じているはずなのに。何故か夢の中の出来事のように、市川はそう思えて仕方がなかった。

 そんなこと、自分が一番知りたい、と。

 普段は引っかかりもしない、投げかけられた疑問にすら、市川の神経が過敏に反応してしまう。過敏に逆立った神経は、胸の中に生じた痛みと鬱鬱たる気持ちを助長した。市川は拳を握りしめる。生じたその感情を必死に潰そうとしていた。

『今日午前五時頃、F県K駅駅前のホテルで、覆面をした複数の人物が発砲。ホテルから出てきたと思われる数人が銃撃されたとみられています。銃撃された被害者の身元はわかっておらず、現在、市内数カ所の救急病院に搬送されています。また被害者の安否についても、今のところ警察や消防から詳しい発表はありません。現場となったホテルから数百メートル離れたF県K駅では、昨日、爆発物を携行した男が発見され、爆弾処理中に爆発した痛ましい事件が発生ばかりです。また、現場となったF県K駅周辺は、以前より反社会勢力の活動が活発な地域であることから、F県警察本部は連続した事件との因果関係を軸に捜査を行っている模様です。立て続けに起こった凄惨な事件。いつまで続くのか、そしていつ終わるのか。周辺住民はさらに強い不安を抱えて過ごしています』

 待合室の壁に掛けられたテレビは、市川のいる集中治療室前の廊下からも十分目視できた。いつもは騒がしい待合室は、事件の影響からか市川の呼吸が響くほど静かで閑散としている。誰も見ないテレビは、ただひたすら事件の情報を一方的に流していた。

 報道規制がされているのか。市川の耳は自身の持つ真実とは、大分かけ離れた情報を拾う。市川は、下唇に歯を立てた。

(本庁が絡むと、すぐこうだ。真実をうやむやにする。何が反社会勢力だ。自分達のミスを覆うための口実にすぎないのに……)

 市川は荒々しくため息を吐くと、革張りの長椅子に腰を下ろした。めずらしくネクタイも締めず、白いシャツの一番上のボタンが所在なく揺れる。市川は、手にした濃紺色のジャケットを無造作に長椅子に放り投げた。

 いつもはピンと伸びた、市川の背筋。過去の記憶にも臆することなく、前を向いていた意志の強い視線。今、その視線は光を失い、病院の淡い色合いの床を鏡のようにうつす。肩を落として項垂れる市川の姿は、今にも壊れてしまいそうなほど、とても小さく儚く感じた。

「意識が戻られました」

 集中治療室のドアが開き、顔を覗かせた看護師が市川に声をかける。

「大丈夫、なんですか?」

 市川は椅子から勢いよく立ち上がった。思わず口から溢れた力のない返答は、自身でも驚くほど小さく掠れている。

「大丈夫では、ないんですけど……」

 看護師は困った表情しながら、集中治療室の中へ入るように市川を促した。

「市川さんと、お話をしたいとおっしゃってるので」

「中に、入っても……?」

「はい。でも……傷口が開いてしまう可能性があるので。あまり、刺激をしないでいただけると助かります」

「……わかりました」

 市川はゴクリと喉を鳴らす。革張りの長椅子に放り投げたジャケットを手にすると、薄く開かれたドアへと歩き出した。



『--捜査第二課の遠野警部が重傷』

 F県警察本部サイバー犯罪対策課に隣接した狭い調室。そこで仮眠を取り、未だ抜け切らぬ疲れを引き摺ったまま、市川は重たい足取りでサイバー犯罪対策課のドアを開ける。

 鈍い頭痛で目が覚めた。過去のトラウマと喫緊の事案の圧。色んな要因が重なる。歯を食いしばって無理に体を起こした市川は、昨夜、緒方が置いていった缶コーヒーに手をかけた。その矢先の、無線の第一報。

 サッと全身の血液が凍り、体温低下した感覚に陥った。心臓が体の外に飛び出してしまったかのように、大きく脈うち、市川は衝動的に執務室を飛び出した。冷たく汗ばんだ手が、咄嗟に握りしめたエンジンキーを濡らす。覆面パトカーのドアを勢いよく開け、体を運転席に滑り込ませた。変に息が上がる。普段どおりハンドルを捌くだけであるのに、心に巣食う不安が爆発したみたいに、ドッと緊張感が増した。

(自分が……自分が巻き込んだから……。遠野補佐も、すばるも!)

 着の身着のまま、無我夢中で覆面パトカーを走らせる。

 当然、途中のことは記憶にない。

 どれくらいの速度で、どの道のりを辿ったのか、見当もつかない。気がついたら病院にいて、大きな窓ガラスから集中治療室に横たわる遠野をぼんやりと見つめていた。ピクリとも動かず、処置を受ける遠野の様子。それが、霞がかかったような市川の思考を一気に覚醒する。

 固く目を閉ざし、無数の管に繋がれた遠野と。

 跡形もなく姿を消したすばると。

 数々の要因が市川の体を押しつぶす。不安定な薄氷の上に立っている感覚に陥らせた。警察官として何もできない自分の存在が、この上なく無価値なものに思えて仕方がない。瞬間、市川の心のピースが、分解してパラパラと音を立てて落ちた。

(死んでいるように……冷たい。自分の何もかもが、冷たい)

 以前も抱いていた、この感覚。過去の出来事かは脱却できない市川を残して、時間が進んでいくように。その場から一歩も動けなくなった市川は、ただ所在なく立ち尽くしていたのだ。

 忙しなく看護師が移動する集中治療室内。市川はゆっくりと遠野が横たわるベッドに近づいた。

「すばるは?」

 酸素吸入用マスクの下で、発せられた篭った遠野の声。その声は真っ先に、すばるの安否を口にする。市川はその声に、無言で首を横に振り返事をした。

「……やっちまったな」

 そういって、遠野はバツが悪そうに笑う。

 無数の管でつながれた、痛々しい腕。酸素吸入のためのマスクをしているにも拘らず、力なく笑う遠野の言葉や態度は、いつもと変わらず、市川には力強く見えて仕方がなかった。市川は浅く息を吐くと、深く頭を下げる。

「……すみませんでした」

「頭を、あげろ。イッチー」

「……私の、せいです」

 遠野な嘆息した。

 市川が発したその言葉が、色んな意味を含んでいる。遠野は直感する。

 未だ心身を蝕むトラウマ。過去の事件のせいで、組織の一員としても馴染めきらず、焦りを覚えていること。計り知れないほどの深い怒りと辛さ、そして重い後悔を抱えた市川の短い言葉は、鋭い刃となって己を切り刻む。遠野は思わず目を細めた。

 目の前で同期を亡くし、拳銃が握れないと苦しむ、かつての市川と姿が重なって見えたのだ。

「何言ってんだよ。何でもかんでも背負うな、市川」

 すばるのことも、市川のことも。そして、関わった皆に対しても。

 全てをうやむやにしたまま、中途半端になどしたくない。中途半端にしてたまるか。遠野は管の差し込まれていることなど気にもせず、市川に手を伸ばした。

 まだ赤みの残る手で、市川の手をグッと引き寄せ握る。

 弱さを一切感じさせない力強い遠野の手力。市川は思わず頭を上げた。

 無理をさせてはいけない。遠野を自分が支えなければならない立場だという認識だってあるはずなのに。

 手を繋いでくれる、それだけで。それだけで、市川の立つ不安定な薄氷が分厚く形を成し蘇った。

「まだ、終わって……ないんだぞ」

「……」

「このまま、奴らの……ブラッド・ダイアモンドの好き放題にはさせねぇよ」

「……遠野補佐」

「それに、約束……したんだよ。すばると」

「約束……?」

 希望を、捨ててはいない--。重傷を負って、生死の境目にいた人の言葉とは思えない。今、目覚めたばかりの遠野の存在。力強いその手は、どうすることもできなかった市川の心のピースをパチンと嵌め込むように、暖かく優しかった。

「市川、そんな顔すんな」

 酸素吸入のマスクの下。遠野は、いつものように笑う。

「できることは、まだある。俺は諦めない、諦めないぞ、市川」

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