2-3 爆発(3)

「そこにいるのも飽きたろ。ちょっと体を動かさないか?」

 引き出しも何もついてない鋼製机が隅に設置された、小さな部屋。その無機質な机の上には、小さなサンドイッチとパックのオレンジジュースが置かれてた。無意識にすばるの胃がキュウと痛くなる。その痛みを誤魔化しながら、自分のいる簡易的な寝台から体を持ち上げた。そして、目を擦りながら遠野の声に小さく頷く。

 何故かすばるは、遠野の顔を直視できなかった。ぼんやりと残る直近の記憶。握った遠野の手の優しさに安心して眠った自分に驚くとともに。まだ出会って一日も経ってない大人に甘えてしまったことに、変な恥ずかしさが込み上げてくる。どこにでもいる中学生ように、すばるは項垂うなだれて頭をわしゃわしゃと掻いた。

 そんなすばるに思わずニヤけた遠野は、机に置きっぱなしのサンドイッチに視線をチラッと投げる。

「食欲、ねぇんだろ?」

「……うん」

「ちょっと体を動かして、シャワーで汗を流したら、飯でも食おうか」

「外……」

「なんだ? すばる」

「外に……出る?」

 上目遣いに遠野を見上げるすばるに、遠野は豪快に笑ったら。そして、優しく大きな手をすばるの頭の上に乗せる。

「外には出ないけど、ハードだぞ」

「ハード……?」

「ま、スッキリすること間違いなしだ! 行くぞすばる」

 そう言って、半ば引き摺られるように遠野に連れてこられた場所は、畳が敷き詰められた開放的な部屋だった。

 (なんだ、道場か……)

 畳の部屋で横になれるのか、と。そう思ったすばるの目の前に、いきなり人が倒れ込んできた。

「わっ!?」

 不意を突かれて、思わずすばるは悲鳴をあげる。反射的に、目の前の遠野にしがみついてしまった。

 白い柔道着の上から、白い防具を頭と胴体につけている。見たこともない格好だ。遠野の体の隙間からそっと覗くと、妙な格好をした人は一人ではなかった。畳が大きく悲鳴をあげて、小さな棒を持った一人が床に倒される。さらに、対戦相手らしきもう一人が、馬乗りになってボコボコに殴っている。

「……何? ケンカ?」

 思わず口から出たすばるの率直な言葉に、遠野は声を上げて笑った。

「確かにケンカだな」

「……え? 違うの!?」

逮捕術たいほじゅつっていうんだよ、すばる」

「逮捕……術?」

「身につけて損はない。やるぞ、すばる」

「……え?」

「あっちに道着と防具を準備している。着替えてこい」

「え、えぇーッ!?」

「あ? 授業で柔道くらいやったことあるだろ」

「それとこれとは別……」

「いいから、やるぞ」

「……」

 何も考えてなさげな笑顔を浮かべながら、遠野は再び、すばるを引き摺り道場を横切る。

 無茶振りもいいとこだ、とすばるは思った。遠野の無茶振りに、反抗できない自分に驚いてしまった。

(きっと、この手のせいだ)

 いつもなら、繋がれた大人の手は、必ずと言っていいほど振り払ってきた。大人の手から伝わる偽善や嘘で作り上げられた親切心。それは、得体の知れない気持ち悪さをしていて、必ずと言っていいほどすばるの手に伝わる。しかし、不思議と。遠野の手から、それは感じ取れない。遠野にしろ、市川にしろ。何故か、すばるにはその手がとても心地よく感じてならなかったのだ。


 逮捕術は、司法警察職員に準じた職務を行う公務員が、犯人等を制圧・逮捕・拘束・連行するために進化し、特化した術技のことである。

 その歴史は、警察から派生している。

 警察官はもちろんのこと、皇宮護衛官や海上保安官、麻薬取締官や自衛隊警務官などの司法警察職員、または入国警備官等もこの術科を習得している。また、職務を行う者の受傷事故を防ぐための護身術として、最も意義があるされていることから、警察官は定期的に訓練を実施するのだ。

 逮捕術は、総合格闘技的な要素を持っている。しかし、犯人に対し過剰な攻撃を与えたり、結果殺傷に及ぶことがあれば、事件の捜査や刑事裁判に支障をきたすため、国家権力による人権蹂躙にもつながることから、実践による打撃は逮捕に必要最低限となるように指導されているのだ。

「逮捕術は、まぁ、犯人を制圧するために生まれた術科じゅつか……まぁ、格闘技みたいなやつで。空手や柔道・剣道を組み合わせた、所謂いわゆる何でもありなヤツなんだよ。決まり手も、例えばこんな風に。ソフト警棒をもっていても。純粋に警棒で突きをしてもいいし、膝当てを蹴ってもいい。警棒を握った逆の手で殴ってもいいし、取って投げてもいいし。とにかく相手を素早く制圧する。それが逮捕術。一番、警察官の実戦に近い訓練なんだ」

 緒方と名乗った警察官は、ケンカにしか見えない格闘技を、やたら明るくすばるに説明した。小学生みたいに目をキラキラさせて喋る緒方のその隣で。白い柔道着に着替えた遠野が、入念にストレッチをしている。

 白い柔道着と胴当てを、半ば無理矢理に遠野に装着されたすばるは。遠野と出会ってからの一連状況が、実は夢なのではないかと疑いはじめていた。あまりにも転換しすぎた、すばるの一日。夢ならば。投げ飛ばされても、ボコボコに殴られても痛くないだろう。すばるはそんなことを考えながら、キラキラした緒方の説明をぼんやりと聴いていた。

(なんで……こんなことしてんだよ、オレ)

 しかも、逮捕術をするとか……。中学生のすばるにとっては、全く関係のないことだ。いつものすばるなら、無視して逃げる。余計な関わりを持ちたくないし、過度な詮索も気遣いもしてほしくない。でも何故か、無条件に安心できるこの状況から離れたくないと、すばるは切実に思っていた。


 

「緒方は警務部代表か?」

 ミシミシと。見ているだけでも音がしそうな体を大きくそらした遠野は、すばるに〝型〟を教える緒方に聞いた。

「はい! っていうか……会計課はもちろん、警務部は俺くらいしか若いヤツいなくって」

 警察官でもないのに、道着を着せられたすばるは、二人を交互に見ながら会話に聞き耳を立てる。

 F県警察では、警察官の士気高揚・執行力維持のため、年に一度逮捕術大会が実施される。

 警察本部の各部や県下警察署から選抜された警察官が己の技と力量をかけてぶつかり合う。突きや蹴り、投げや締め、警棒や警杖等を使用し、柔道や剣道のように、先鋒から大将が個々に対戦。団体戦で勝敗を決めるのだ。

「すばる、緒方は徒手としゅが強ぇんだぞ」

徒手としゅ?」

 急に話を振られて、すばるは声を上擦らせて聞き返した。

「素手だよ」

「え!? 武器をもたないの!?」

「あぁ」

「めちゃくちゃ不利じゃん、そんなの」

「じゃあ、やってみる?」

「え?」

 緒方の軽い「やってみる?」の言葉に、すばるは思わず目を丸くする。

「やってみるって……何を?」

「なんでもいいから、ここの武器で俺に襲ってきなよ」

「はぁ!?」

 驚いて大声で叫んだすばるに、緒方は警杖けいじょうを握らせた。

「無理……だってば」

 ……大人はこれだから。

 自分の万能感を振りかざして、子どもに無理難題を押しつけてくる。いつもは無視して逃げるすばるなのだが、体の中に蓄積した疲れや不安定さがそうはさせなかった。

 --爆発させたい!!

 ずっと我慢していた感情を、押しつぶされそうになるドス黒い恐怖を。すばるの我慢のリミッターは、限界まできていた。すばるは、警杖をグッと握りしめた。目頭に力を入れて視線をあげると、緒方と目が合った。緒方は、キラキラした目を細めて屈託なく笑う。

「そうこなくっちゃ! 遠慮することない、全力でこいよ!」

「……言われなくても、やってやるッ!」

 型なんか関係ない、と言わんばかりに。すばるは手にした警杖を緒方めがけて振り回した。木製の警杖が、空気を切るたびに唸る。力任せに、体の全部を使う。なりふり構わず、無我夢中に。警杖を振り回していると、不思議とすばるに巣食う闇の存在がいつの間にか薄くなって言った。心身を蝕む得体の知れない不安定さを忘れてしまう。目の前の緒方に、すばるに握られた警杖は全く掠らないのに、アドレナリンが上昇していくが分かる。

「うわぁぁぁッ!!」

 体の中に埋まった、全ての不発弾を爆発させるように。叫び声を上げて、すばるは渾身の力を警杖に宿した。強く、大きく、警杖を振り回す。

「ッ!?」

 瞬間、すばるの視界が回った。体が宙に浮く。気がついたら、目の前に緒方の顔があった。足が床から離れて、視界が高い天井を捉えていて、眩しい水銀灯がすばるの視界いっぱいに広がった。

 --ダンッ!! 

 背中に強い衝撃が走り、息が止まる。頭が床にぶつかる覚悟をした瞬間、襟をグッと引かれて頭が宙に浮いた。衝撃の割には全く痛くない。すばるは、目を丸くしてさらに驚いた。

「すばるくん、受け身」

「あ……」

 緒方に言われてすばるは、慌てて両手を畳に叩きつける。有利な武器を持っているにも拘らず、素手の緒方に掠りもしなかった。悔しくて仕方がないはずなのに、すばるの頭は、体は、妙にスッキリとしていた。すばるの中に埋まっていた不発弾は、いつの間にか綺麗さっぱり無くなったようだった。

 自らの荒く浅い呼吸が、すばるの耳元で反響する。額から、一気に汗がふきだした。寝転がって呆然と天井を見上げるすばるを、緒方は襟を引いて立ち上がらせる。

「体、動かしたら。結構、スッキリしたんじゃない?」

「……うん」

「疲れたなら、奥のシャワー室使っていいからね」

「まだ……」

「え?」

 すばるは、畳に転がった警杖を拾った。

「緒方さんに、掠りもしなかったし……まだ、やりたい」

 緒方は、キラキラした目を細めて「いいよ」と笑いながら答えた。


「そうとう緒方にやられたなー、すばる」

 シャワー室の遮蔽しゃへい壁越しに、遠野の声がした。あれから、すばるは緒方に何回、何十回と投げられた。その度に警杖を手に立ち上がったすばるは、久しぶりに体全体が軋むような痛さを感じていた。

 肺を潤す湯気と水飛沫が、疲れたすばるの体を優しく包み込む。人の気配を間近に感じながら、すばるは全身泡だらけになって遠野の声に応えた。

「そういう遠野さんだって、緒方さんにコテンパンにやられてたじゃないか」

「あははは、そうだったな」

「本当に、オレを守れんの? 遠野さん」

「実戦は俺の方が上なんだよ」

「本当かなぁ」

 あくまでも強がる遠野に、すばるはたまらず笑ってしまった。

「なぁ、すばる」

「何?」

「あんまり溜め込むなよ」

 遠野が発した何気ない一言。すばるは一瞬、動きが止まった。たった一日しか、一緒に過ごしていないはずなのに。その一言が、すばるの胸にズキンと刺さる。

「爆発したくなったら、いつでも相手になるから。ちゃんと泣きたい時に泣いて、怒りたい時に怒れ。大人はそのためにいるんだ、すばる」

 すばるにとって、家族を失った日から大人は得体の知れない敵だった。優しく声をかけてくるのに、手のひらを返したように裏では悪口を言う。心配などしていない。いなくなれば厄介者が減ると、曖昧な態度で接してくる大人。先生すら、親戚すら、すばるには得体の知れない敵だったのだ。

 無自覚に、涙がすばるの頬を伝う。側にいる遠野も、市川も、緒方も。事件に係る一過性のものだと、すばる自身自覚はしている。それでも、その言葉は、心底安心し支えてくれる存在があることをすばるに教えてくれた。

 泣いていることを悟られまいと、すばるは声を押し殺す。

 ただ、強がりだけは、させてほしかった。

 すばるは、シャワーの水流を思いっきり強くする。

「すばる、腹減ったか?」

 そんなすばるを察してか、遠野はいつもの口調ですばるに聞いた。

「……うん」

「やまびこ亭のオムライスにするか。ばあさんが作るオムライス、めちゃくちゃボリュームあるぞ」

「うん、めちゃくちゃ腹減った。それ食べたい」

 すばるの中に埋まる不発弾はまだ、色々な要因をはらみ燻る。残っているのだ、まだ。

 しかし、今は。差し出された手を離したくない、その思いが。目に見えぬ敵の脅威に晒されていふすばるの気持ちを、軽く明るくさせていた。

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