1-2 見上げた空は

「……まぁ。想定の範疇つったら、範疇なんだけどな」

 遠野は息を吐き出すように呟くと、大きくバツのついたA3サイズの用紙を手から離した。力なく漂う用紙は重力を感じさせることなく、遠野のデスクにふわりと着陸する。誰もいない執務室。パサッと、乾いた紙の音が厭に遠野の耳をくすぐった。

 遠野は、窓の外に目を向ける。四角い無機質な窓から空を、遠野は一人見上げた。遠く高く澄み渡り、空の下にいる万人に秋の終わりを告げ始めている。捜査員は皆出払い、人の気配がない執務室は。空からはっきりと見下ろされるように、遠野の存在をやたらと浮かび上がせるのだ。


 F県警察本部刑事部捜査第二課--。

 企業の横領や談合、脱税や贈収賄をはじめ、選挙違反や詐欺など。所謂いわゆる〝知能犯〟を扱う部署だ。知能犯を扱うだけあって、捜査第二課は別の意味でも県警内で一線を画す。

 警察庁で拝命を受けた若き〝キャリア組〟が、都道府県警察本部の捜査第二課長として赴任する。いわば、次世代を担う警察官僚の登竜門だ。その下で働く県警捜査員等も、言わずもがな優秀な人材が揃っていることから、靴底を減らし情報を集める昔ながらの捜査員とは違う。なんとも洗練されたスマートな面子が多い。

 F県警察の拝命をうけ、警部として職務を全うする遠野隆史は、自身の警察人生の半分以上を刑事部門に身を置いている、のだが。そんな遠野でさえ、赴任当初から今現在にいたるまでの間。他の課とは違う、また直前まで配属されていたサイバー犯罪対策課とも違う、捜査第二課の独特の雰囲気に、心底馴染んでいるとは思えずにいた。

「さて、イッチーに相談すっかなぁ……」

 自身の独り言に返事をするように頷くと、遠野は自席の椅子に体を預ける。

 『刑事部に係る当初予算内示書(案)』と表題がついたA3の用紙の中央。そこには、大きく斜線が交差している項目が幾つもあった。

 来年度の大規模事業に係る予算内示。捜査を円滑に合理的に執行するため、遠野は捜査第二課のシステム構築を新規事業として予算要求していた。

 今春、遠野はサイバー犯罪対策課から捜査第二課へ異動し、捜査のバックアップを担う審理係--所謂いわゆる〝デスク〟と呼ばれる係に配属となった。会計部門とは違う配置にありながら、捜査第二課の予算要求を一手に引き受けてしまっているのは、サイバー犯罪対策課でつちかった情報処理に係る能力スキル折衝力せっしょうりょくを買われての抜擢だ。

 通常業務と並行して、毎日遅くまで専門業者や情報関係技術者と長期に渡り、新規事業の構築案を打ち合わせをした。要求書を無事作り終えても、予算編成室から幾度となく修正を言い渡される。予算編成室の事前審査をクリアしても、予算要求に係るヒアリングでこてんぱんにしごかれ、ようやく県財政課の審議までこじつけた。薄くではあるが、手ごたえもそれなりに感じていた遠野だったが、ようやく出た結果が〝予算枠認められず〟のバツ印だ。ため息すらでてこない。

 F県全体の予算を警察費が占める割合は約七パーセント。全体予算枠から考えると、県警察が執行できる予算額はほんの僅かと言える。余程なことがない限り、大規模な予算を伴う事業は認められないといってもいい。

(そもそものハードルか、高ぇんだよなぁ)

 新規事業の予算要求自体、すんなり通るなんて遠野自身、毛頭思ってはいない。ただ僅かな期待は頭の隅に転がしていた。そんな慎ましい期待すら、容赦なく木っ端微塵に砕かれる。遠野は苦笑いすると、大きく伸びをした。

(サイバーは、どうだったかな……)

 そう思い、目の前の内線電話に手を伸ばそうとした瞬間。プルルル--と、遠野の動く手より先に内線電話の呼び出し音が大音量で鳴り響く。遠野は小さく息を吐くと、受話器を取った。

「二課審理、遠野です」

『遠野補佐、二班の名倉です』

「おう、なんだ名倉。捜索差し押さえ許可状フダとれそうか?」

『はい。認定二十三号の令状請求をお願いします』

「了解。詳細は変わりねぇか?」

 受話器を肩と顎で挟むと、遠野は素早くノートパソコンを開く。体を小さく反転させ、デスクの後ろにある書棚から一冊のファイルを手に取った。

『はい』

「書類を作成次第、検察に走る。そっちからも一人寄越せ。検察で落ち合おう」

『特研生の花村を向かわせます』

「了解。おい、名倉」

『なんですか? 遠野補佐』

「あんまり花村を急がせるなよ」

『はい』

「検事は早々にフダは出さねぇから」

『了解です』

 電話を切り、起動するノートパソコンに指を滑らせた遠野は、ふと一年ほど前の記憶が蘇ってくるのを覚えた。きっと、あの言葉のせいだ、と。先刻の電話で呼び起こされたのだと、遠野は苦笑いする。

「特研生……か」

 呟いた言葉に、色んな思いが交錯する。

(それでも前に進む……立ち止まることない、か)

 遠野の頭の中に沈む暗い記憶。浮かんでは胸を苦しくさせる記憶を払拭するように、色んな笑顔が覆いつくす。その笑顔は、遠野の背中をトンと前に押すような、暖かな感覚。感覚に体を預けた遠野は小さく声を出して笑うと、鋭くディスプレイに視線を投げた。



「遠野補佐、ありがとうございました!」

 若干荒い息遣いの青年は、顔を紅潮させ茶封筒を握りしめて深々と頭を下げた。

「礼なんか……。それより、気をつけて帰れよ。そのフダがなけりゃ、元も子もないんだぞ、花村」

 若さと勢い、やる気とパワーが漲る。特研生独特のパワーに苦笑いをした遠野は、左手に収めていた缶コーヒーを花村に手渡した。

「あ……ありがとうございます! 遠野補佐」

行動確認行確で、あんま休んでねぇだろ。一服してからゆっくり行け」

 一瞬、戸惑う表情をした花村だったが、すぐさま顔面にいっぱいの笑顔をのせる。

「はいッ! 遠野補佐もお気をつけて!」

 地方検察庁の静かなロビーに、場違いなほど溌剌はつらつとした花村の声が響いた。予想だにしない声の音量を浴びせられた遠野は、若干引き気味で花村から視線を逸らす。そんな遠野を知ってから知らずか。花村は再び深々と頭を下げ、軽やかな足取りで検察庁から飛び出していった。

「若ぇっていいなぁ……」

 缶コーヒーを一口流し込んで、ボソッと独りごちた遠野は、花村の運転する白いセダンを目線だけで見送った。

 ホッと息を吐く、その時。

 遠野のスマートフォンが、ポケット中で規則的に震え出す。スラックスに手を入れると遠野は目を細め、睨みつけるようにスマートフォンの画面を確認した。

(老眼がすすんでんなぁ、マジで)

 あまり認めたくはない自覚をしてしまうほど、それなりの年齢が遠野に軽く衝撃を与える。自分自身にうんざりしながらも、遠野はぼんやりと浮かび上がる発信者の名前を見て、スマートフォンの通話ボタンを押下した。

「どうした、イッチー」

『お忙しいところすみません。遠野補佐、今、大丈夫でしょうか?』

 静かな検察庁のロビーにフランクな喋りをする遠野の声がこだまする。それとは対照的に、イッチーと呼ばれた電話先の相手は、非常に丁寧に応答していた。

「あぁ、今ちょうど令状請求が終わったとこだ。そうだ! 俺もお前に聞きたいことがあったんだが……」

『補佐、すみません。私の用件を優先していただけないでしょうか?』

「あ? あぁ」

 普段から冷静で押しも強くないイッチーこと市川雪哉。そんな彼がさらに淡々とした口調で、自分の用件を優先するなど只事ではない。胸騒ぎを感じた遠野は、飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れ、足早に検察庁の玄関をくぐった。

『戻られたら、F会議室に来ていただけませんか? そちらでお話します』

「十五分、待てるか? イッチー」

『はい、大丈夫です』

「じゃあ、またな」

『あ、遠野補佐』

「なんだ? イッチー」

『運転、気をつけてください。ちょうど、ラッシュ時ですから』

「了解」

 花村も市川も、さりげなく発する言葉。遠野はその言葉を、空と重ねていた。

 空は繋がる、どこにいても見渡せる。〝気をつけて〟という言葉も同じように。繋がって、目の届かない相手の無事を見守る。いい歳をして、と言われるかもしれないが。目には捉えることのできない絆や思いを、空が繋いでいるように遠野には思えて仕方がなかった

 遠野は、黒い覆面パトカーに体を滑り込ませると、エンジンキーを押下する。

 まだまだ日が長いと感じていた空が、うっすらと朱に染まる。遠野は視線を空から外すと、サイドブレーキを解除した。そして、ゆっくりと右足でアクセルを踏みこんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る