第19話 「シャボン玉と赤」:早瀬志帆(8)

 スイカの片づけなどを済ませ、伯母の家を後にした志帆達三人は、特に話すことなくぶらぶらと相変わらず暑い道を、肩を並べて歩いていく。時間は五時過ぎだが、なかなか暑さは衰えない。


 空をふと見上げると、青みがかげる空に一本の飛行機雲が引かれていく。特に感慨もなく、志帆はその様子を眺める。響くセミの声はこの時間になっても衰える気配がない。


 横の要は何か気になるのか、ロープがどうとか、時折ぶつぶつ言いながら眉間にしわを寄せている。時々、跳ね返ったクセ毛をかき回す。一方、矢津井はどこかぼんやりとしていた。


「ねえ」

 そんな二人に志帆が言う。要と矢津井は一テンポ遅れながらも、何だというように顔を向けた。


「この事件ってやっぱりなんか変だよね。妙に装飾されていて、ただ無差別に殺しまわっている感じではないってのもそうだけど、警察に対する挑戦をあからさまにした劇場型犯罪みたいにしながらも、カナや矢津井君を意図的に巻き込んでいるみたいだよね」

 そこに御堂司という少年が介在していることは確定的だ。


「まあ、それで御堂が犯人なら話は早いんだけどね……ただ、正直御堂が道化師として人を血祭りにあげている、という風には思えないというか……。とはいえ、事件全体に御堂の意思のようなものは感じる」

 要はそう言うと複雑そうな顔をしながら、

「この状況は、御堂が望んでいたようなものになっているとは思う。最初に富田に言ったらしい僕の原稿から始まる――その続きがまさにこの状況なんだろう」


「自殺サークルの運営とか、あの自殺事件を管理していたらしいメンバーを殺して回る――ということも含めての?」


「僕の原稿を持ち出したのは計画の第二弾みたいなものなのかもしれない」

「第二弾?」

「うん……。大量の自殺体が一か所に集まることで、一時世間はパニックにはなった。ただ、それは一時期だったわけで、ほとんどすぐみんな無かったことにしていった」


「なにそれ……」

 要の言わんとすることに志帆は唖然とする。

「じゃ何、世の中の反応がいまいちだったから、今度はもっと派手にしてやろうってわけ? しかも共犯だったメンバーを殺していくことで?」

 思わず声が大きくなる。


 要の話を聞きながら、志帆はどこか自分の御堂像がズレていたような気がしていた。“世の中に影響を与えたい”――それはどこか子供じみた欲求で、誰にでもある自分の無力感からきているところもあったのではないかと思っていた。


 どこかぞっとし始める。本当に御堂という少年は退屈だからこんなことをやっているのではないか。何をやってもつまらない。それが肥大していくだけの化け物。――なんだ、つまらないな、そんなつぶやきとともに。


「御堂司――彼が犯人である可能性は低いはずなのに、なんだか彼がすべてを支配しているような感じがしてしまう」


 思わず、そう口にする。一度、姿を見たきりの人間が、ここまで得体のしれない存在になってしまっている。


「あいつが望んでいることを誰かが引き継いでいるのか、それともあいつの意志そのものがすべてを動かしているのか」

 矢津井が志帆の言葉につられたような形で言い、

「とにかく、富田や犬塚たちにもう一回話を聞いたほうがいいかもな。それに、まだ兵頭とは話してないし。本当は、現場検証だってやりたいんだが、まあ、無理だろうしなあ……そこは拓人さんだよりか」


「兵頭はあまり話したくない、というか会いたくなさそうな感じだったが……」

 要は彼女に用件を入れていたらしいのだが、会いたくない、とメールが帰ってくるだけだったと話す。


「俺は着信拒否されたんだが……あいつ、俺たちを疑ってるんじゃないのか」

「かもしれない……まあ、ただ関わりたくないだけだとは思うが」

 そんなことを言って、要はため息をついた。


 三人はそのまま入り組んだ路地を歩いていく。一番熱い時間は過ぎているはずだが、アスファルトの上は、今まで含んだ熱が染み出ているような熱気を感じる。


 事件については離れたものの、そのままとりとめのない話は続き、三人は道すがら買った缶ジュースやペットボトル片手に、小さな公園に寄る。端っこのトイレの横にある小さな東屋に陣取って、買った飲み物でのどを潤していた。


 少し涼しくなってきたからか、公園には意外と人がいて、子供たちが砂場で遊んでいたり、ブランコを漕いでいる。その近くの木陰にあるベンチでは、母親たちが井戸端会議をしながら子供たちを見ていた。


 志帆たちもようやく黄昏時に入りつつあるこの公園の光景を見つめていた。

「夏祭り、どうなるんだろうな――」

 矢津井がポツリと言う。毎年街で一番大きな神社で開かれている結構大掛かりな祭りがあるのだが、そういえば今のところその開催についてはよくわからない――というかすっかり志帆は失念していた。


「さあ……中止するってアナウンスはなかったと思うけど。ちょっと雲行きは怪しい感じだよね。私は同好会のみんなと行くことにしてるけど」


 志帆は去年の祭りにはテニス同好会の面々と行っていて、今年もそのつもりだった。一方、要と矢津井は映画同好会の面々とブラブラしながらカメラを回していたが、今年はどうするのか。そういえば映画の一部にするといってカメラを回していた彼らだったが、未だに映画が完成したという話を聞かない。


 そんな話をしながら、公園の子供たちを見ていると、志帆はここ何日か続く事件がどこか遠ざかっていくような気がしていた。


 ジャングルジムのてっぺんから男の子がストローを吹いていた。ストローの先から無数のシャボン玉が現れ、その下にはほかの子供たちが集まっている。男の子たちは歓声を上げながら飛び跳ねてはシャボン玉を破ろうと手を振り回し、女の子はそれを遮ろうと同じようにジャンプしながら抗議の声をあげている。


 どことなく微笑ましい思いが志帆の中にわいてくる。少し、セピア色を帯び始めた空をたゆたう七色の玉は風に揺れながら、子供たちの歓声の中に溶けていく。

 夕暮れのゆったりとした時間の中、それはどこか夢の中のまどろみのような、そんな思いすらしてくる。


だから、次に起こったことは、ほとんど夢の中のような気がしてしまったのだ。


 ピエロが東屋側の入り口から走ってきた。

 顔にドーランを塗りたくり、花を真っ赤にペイントして、頭にもじゃもじゃのカツラをかぶり、ダボダボした青と白の縞々の服を着ていたそれは、どこからどう見てもピエロだった。


 シャボン玉の舞う黄昏時の公園に現れるピエロ。それから展開された現実はまさに夢のようだった。


 それは真っ赤な悪夢だった。


 ピエロは右手に包丁を握っていた。ジャングルジムまで走ってきたピエロは、それでもって一番近くにいた少女を切りつけた。


 何をされたのかわからないといった表情の三つ編みの少女からパッと赤いものが散った。そして、少女はそのままぐったりと人形のように倒れる。


 その瞬間、時が止まった。そうとしか言いようがなかった。子供たち、母親たち、そしてもちろん志帆たちも、その光景を見たままただ固まっていた。


 母親の一人が悲鳴を上げ、子供のもとへと走り取りすがる。ピエロはすかさずその母親にも凶器をふるった。ショートカットの母親の首あたりから赤いしぶきが上がる。


 シャボン玉、血しぶき、そして赤く染まる狂気のピエロ――。それは非現実的な現実だった。だが志帆は、目の前に広がる光景が、カタカタ回る壊れかけの映写機に映し出された出来事なのではないかと訝った。それほど、目の前の風景は現実感を欠いていた。


 時がワンテンポ遅れで動き出したように、子供たちが悲鳴のような泣き声を上げ始める。


 もつれるように足を動かし、必死に親たちのほうへと逃げる。ジャングルジムの上にいた少年も逃げ出そうともがき、足を滑らしてジャングルジムから落下した。激しく地面に叩きつけられた少年は泣きわめきながら地を這う。そこへ、ゆっくりとピエロが近づいて行った――。


 すぐ横で獣じみた声が上がり、志帆は思わずビクッと胃が引っ張られるような心地がした。


 要の声だった。今まで聞いたこともない声と表情をした彼が、志帆が呆然とする中それこそ脱兎の勢いで飛び出し、ピエロへと突進していく。


 それにすぐさま矢津井が続いていった。志帆も彼らに遅れながらもなんとか立ち上がって駆け出す。自分にピエロを取り押さえることができなくとも、少なくても子供たちを逃がすことはできる。


 ピエロが向かう倒れた少年以外の子供たちは、だいたいが逃げていたが、女の子が一人、躓いてぐずっているのが目に入った。志帆はその子を目指して走っていく。

 視界の端で、ピエロが一直線に包丁を要に突き出すのが見えた。包丁に伝う赤いものが残像のように視覚にこびりつく。志帆は思わず目を見開いた。


 しかし、要は寸前のところで身をひるがえして包丁をかわし、ピエロの腕を取る。そこで一瞬の安堵を覚えた志帆は、倒れていた少女を抱き起し、小さな体を抱えてもと来たほうへと体を向けた。


 その時、要の小さな叫びが志帆の耳に届く。ハッとして振り返った志帆の目には、逃げていくピエロ、そして、要の横で倒れている矢津井が映り込んだ。


 今度は、志帆が息をのむ番だった。

「矢津井君‼」


 少女を抱えたまま、志帆は要たちのところへ駆け寄る。志帆の腕から降ろされた少女は、泣きじゃくりながら、母親のところへ駆けていった。


「う……」

 矢津井は歯をかみしめ、その歯の間からふいごのように空気が出し入れされる音がしている。手で押さえたわき腹からじくじく血が染み出て、黄色いシャツを染めていく。立ち上る濃厚な血の匂いに、志帆の頭は真っ白に塗りつぶされていく。まるで頭の中で聞こえるはずのない警鐘が、鳴り響いている感じが止まらない。


 思わず、矢津井の手に触れる。これ以上真っ赤なものがあるのだろうか、というほどの赤が志帆の手を濡らす。暖かく、ぬらりとした感触。


「僕のせいだ……」

 要の声は震えていた。

「あいつの腕をとって、捩じ上げたら包丁を落とした。落ちた包丁に意識がいって……あいつが、もう片方にナイフを持ってたことに気が付かなかった。あっと思った時には突き飛ばされてて……」


 要の声がだんだんと戦慄くようになっていく。普段は見せないほどうろたえている要だった。志帆はその要の様子で自分がパニックに陥る一歩手前で何とか踏みとどまる。


 落ち着け――血染めの手を握りしめ、大きく息を吸い込む。


 そして、要の手を取った。

「カナ。今は矢津井君の血を止めないと」


 まっすぐ要の目を覗き込むようにして言う。しばらくして要の目に緩やかに光のようなものが戻ってくるのを感じた。


 要はなんとか頷くと、シャツを脱ぎ、矢津井の止血に取り掛かり始めた。志帆自身は、それを見とどけると、ほかの被害者たちのところへ向かう。


 ピエロに切り付けられた母親は呻きながらもそれでもわが子を守るようにひしと少女を抱きしめていた。志帆はまず、どうしていいかとその周りをオロオロしている。ほかの母親たちに向かい、叫ぶようにして、

「救急車をお願いします! それから警察のほうにも」


 それを聞き、一人の母親が慌てたようにして携帯電話を取り出す。志帆はもう一人へ、「タオルとかハンカチありますか?」と尋ねると、そのほかの二三人も志帆に準じて動き始めてくれた。


「篠原さん、純ちゃん、すぐに救急車来るからね」「がんばって」そう、彼女たちは志帆と一緒になって少女と母親の応急処置にかかる。志帆は少女の傷口を抑えるほうに回り、同じように何度も何度も声をかける。手に伝わる暖かさ、少女のか細い呼吸。手についた血の乾いていく感触。


 祈るような思いで少女の小さな手を握る志帆の目から、いつしか涙がぽたぽたこぼれ始めていた。涙は少女の小さなほほを打ち、やがて彼女自身の涙と合流するようにほほを滑り落ちていく。


 たまらなくなって顔を上げた先に、目を閉じたまま蒼白な顔で呻く矢津井の顔と必死の形相で矢津井のわき腹を抑えた要の顔が見えた。


 どうしてこんな――。ぼやけた視界の端に、凶器が映った。ピエロの取り落としていった包丁。母娘の血を吸ってぬらぬらと赤く光る一本の台所用品。


 見慣れた日用品が凶器に変わる、そんなフィクションやニュースでのありふれた事態に、いざ巻き込まれるとその暴力性と非現実性に押しつぶされそうだった。


 涙が流れるままに志帆が見上げた空は、それなのに、おだやかな琥珀色に滲んでいた。

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