第9話 「密室未満の密室」:空木要(6)

 死体と首らしきものは、正面奥のデスクにあって、そしてそのすぐ後ろに位置する窓のガラスが、大きく割れている。それがドアを破って要が真っ先に目にした光景だった。しかし、その中に人影はない。要と矢津井は反射的に、窓へ急いだ。デスクに突っ伏す死体の後ろに回り込むようにして窓に取りつく。窓からは、正面にアパートの窓のない壁面が見える。さらに左右を見ても外には特に人影は確認できない。


「誰か、いたよな……」矢津井がつぶやくように言う。


 要は無言で頷く。確かに、誰かがいたはずだ。そして窓を割ったはずだ。しかし、部屋には誰もいなかった。とっさに割れた窓から逃げたのか、と窓へ急いだものの、人が去っていくような影はなかった。それに、そもそも窓にはクレッセント錠が下りている。


 要はとりあえず、部屋を改めてよく見るように眺めていった。


 死体は部屋の奥に置かれた木製のデスクに、窓を背にして座らされ、ドア側に首の切断面を見せるように突っ伏していた。そして、死体の後ろの窓、その左側上部のガラスが割れ、大きな穴が開いている。


 それから、デスクの上で首の切断作業を行ったらしく、デスクには血のこぼれた跡が広がっていた。突っ伏す死体の脇には、血をふき取った血染めのタオルが何枚も重ねて置いてあり、誰のものなのか分からないが、タオルのそばに携帯端末も置かれている。そして、グロテスクに焼けただれた首が、無造作に置いてあった。その口には白い紙がくわえさせられていた。例の金釘流で、『道化師の脱出ショウ、残るは死体だけ』と書かれている。


 その文面を口にする矢津井の横で、要は入口から見て左――最初に覗き込んだ部屋側の壁とデスクの間に何かが落ちているのを発見していた。


「これで窓を割ったみたいだが……」


 木製の三〇センチはありそうな大きさで、結構古めかしく、白と赤の縞模様のペイントはところどころはがれて、握り手ではない先端部は少し縦に割れ目が幾筋かついている。ジャグリング用のクラブらしかった。


 クラブが落ちていたフローリングの床には、セルロイドのお面も落ちていた。よく見なくてもわかる、道化師のお面――。あとは特に何もないようだった。


「これってジャグリングとかに使うあれだよな? それと道化師のお面か。……いたんだよな、奴が」


 要の後ろから覗き込むようにしていた矢津井が言う。要は無言で、今度は死体を観察することにした。もうここまで来たからには、覚悟を決めるしかないだろう。


 とりあえず何とか近寄って、なるべく切断面は見ないようにして死体を観察する。性別は男性のようだ。Tシャツにジーンズという風体からは、若い気もするが、年齢については判断がつかない。


 御堂かどうかも要には判断がつかないので、矢津井の方をどうか、という風に見ると、同じ視線にぶつかる。矢津井もやはり判断がつかないらしく、引き攣った顔のまま首を振る。


「御堂かどうかわかんねぇが、ひどいな……顔はこれ、燃やした感じじゃないな……薬品――硫酸かなんかで焼いたのか?」


 それだけ言うと、矢津井は死体から目を離す。要もやはり耐え難くなって、同じように死体から目を離した。


「あれは……ドア?」


 逸らした先に、扉が目に入った。入口から窓に向かって左にあるそれは、この建物の三つ並んだ部屋の一番奥へつながるドアのようだ。要は矢津井を促すと、ドアへ向かう。犯人がここからこの部屋を出たのか――? その疑問が立ちのぼるとともに、再び緊張感が二人の間に張り詰め始める。


 要がノブを取り、ひねる。ドアはゆっくりと開き、そこから要と矢津井は警戒しつつそろそろ中へ入っていく。しかし、この部屋にも人の気配は無い。やや埃っぽい部屋は、死体のあった部屋よりも少し狭く、書類棚だったらしき棚が三つほどあるだけだった。この部屋にも窓はあったが、しっかりと鍵が掛かっていた。


 窓の施錠を確認すると、ふたりは廊下側のドアへ向かう。そこは鍵が掛かっていなかった。要と矢津井はそのままそこから部屋を出て、死体のあった部屋の前まで戻ってくる。


 死体のあった部屋の入口近くでは、志帆が相変わらず青白い顔をしていた。廊下の開けた窓から外を見つつ、呼吸を整えている。どうやら志帆は死体を目にした瞬間、部屋に入るどころではなかったらしい。そういえば要の背後で足早にドアから離れていった気配を感じてはいたが、それからずっと廊下の窓に取り付いていたようだ。まあ、あの首の切断面を直視したりすれば無理からぬことだし、それにこの臭い――。吐いてもおかしくないような現場の状況は、要もかなりきつい。


「おかしい、誰もいない。どういうことだ」矢津井が頭をガシガシかき回しながら唸る。「誰かいたはずだ。音がして、窓ガラスが割れて……なのに消えちまった」


「消えたってなに? 中に誰もいないの?」

 青息吐息で尋ねる志帆に、中での状況をおおよそのことで説明する矢津井。


「割れた窓から逃げたんじゃないの?」

 当然の発想としてそう言う志帆に、矢津井は首を振って、

「窓には鍵が掛かってたんだぜ。割れた窓から手を入れて、鍵を掛けられないこともないけど、逃げる時にいちいちそんなことをするか? 第一、二階から飛び降りたら下はコンクリートだし、派手な音がするはず。そんな音はしなかっただろ?」


「それは、聞いてないけど……」

 志帆の返答に、だろ、と声を強めると、

「そして早瀬はずっと廊下にいたんだから、誰も建物から出でれなかったはずだ……」


 再び矢津井は志帆に確認し、志帆も弱弱しく頷く。

「まあ、確かに私はずっとここにいたけど、特に何も……」

「ということはだ、この建物は一種の密室状態にあった、ということが言えるんじゃないだろうか」

 密室、という言葉を矢津井はどこか熱っぽく、強調するように言った。


「結論を急ぎ過ぎないほうがいいんじゃないのか。まだ、よく分からない点が多すぎる」


 要が制するように言ったものの、矢津井は逆に反発するように、

「じゃあ、犯人はどこから逃げたっていうんだ? あの割れた窓からじゃないのは空木だって認めるだろ? 現場は密室状況で、しかも犯人は消えてしまったとしか思えないじゃないか」


 要はそう易々やすやすと認めたくはなかったが、確かに矢津井が言う通りの状況ではある。


「まあ……そうだとして、でもなんでわざわざ? どうしてこんなパフォーマンスみたいなことをする必要がある?」


「それは、必要云々というより、犯人がそうとう自己顕示欲の強い、どこか狂った奴ってことなんじゃねえの? わざわざ呼び出して消失ショーを見せつける――そういうやつなんだよ」


 それは少し納得しがたい、という意思をこめて要はうなる。確かに、状況は矢津井が言うように密室状況的な場所からの犯人消失なのかもしれないが、ただ単にそれが狂った人間の仕業とは思えない。しかし、常人だとしても、いやに手の込んだことをするというのもまた奇妙としか言いようがない……。


「ねえ、それより殺されてた人、誰だったの? もしかして……」

 そんな議論よりも、という志帆の問いについては、要も矢津井も答えることができない。矢津井は首を振りつつ、

「俺達にも全然よく分からん。何しろ首は薬品かなんかで潰されていたわけだし、御堂かどうかも……」


 そう答えると、今度は要に向かって、

「そもそもメールを送ってきたやつが御堂なのか、何を意図して送って来たのか、そもそも何故要にメールを送ってきたのか――」


 疑問点をずらずら並べ立てていく。出すだけの疑問を放り投げられた格好だが、要としてもとりあえず〝さあ〟としか言いようがない。


「そんなの全部分からないって。ただ、僕にメールを送ってきたということは、僕のメールアドレスを知っていて、そのつもりで送ってきた。もしくは、たまたまだったか――」


「たまたまってどういうこと?」志帆が怪訝な顔で訊いてくる。

「御堂の携帯から無作為に選んでメールを送った、それがたまたま僕だった――ということ」

「じゃあ、その場合は……」

「さあ、御堂が生きてるか死んでるか、それはまた別だ。――だから、分からないものは分からないよ」


 要はそういって、志帆や矢津井を制するように言う。実際のところ、御堂によるものなのか、それとも彼は被害者になったのか、分からないとしか言いようがない。疑問はやたらと出てくる。ただ、それは後回しだ。


 はっきりしている目の前の大きな疑問は、この建物に先ほどまで犯人がいて、なんだか知らないが要たちの前から消えたように見える――ということだ。


 些末な疑問はともかく、それをまずははっきりさせたほうがいい……。要はもう一度死体の部屋へ足を運ぶことにした。


 もう一度ちょっと調べに行ってくることを志帆と矢津井に告げて、要は再び部屋に入った。


 とりあえず、人が隠れていそうな場所は見当たらない。部屋にあるものといえば、死体とそれを乗っけたデスクに椅子、部屋中央に置かれていた小さな卓とそれを挟むように据えられた安っぽいソファーが二つあるだけで、人の隠れられそうなロッカーなどの類はない。


「やっぱり、誰もいないよな。隠れる場所なんてないし」

ついてきたらしい矢津井が、後ろからそう声をかける。


 要は割られた窓のほうへ行き、もう一度窓の施錠を確認する。クレッセント錠はやはりしっかりと下りていた。


 少し迷ったものの、要はハンカチを取り出すと、慎重に鍵を外し、窓を開け、下を覗き込む。もちろん、誰もいない。視線を上に向けると、隣接するアパート屋上の鉄柵が目に入る。しかし、ここから飛び移るにはだいぶ無理がある距離だ。


 窓から逃げたとして、アパートの屋上には登れそうにない。今いる建物の屋根によじ登るのも無理そうだった。可能性としては、やはり下に降りるくらいしかないのだが……。しかし、先ほど矢津井が言ったように、下はコンクリートなので、飛び降りればきっと結構な音がするだろう。要の耳にはそんな音は聞こえなかったが……。


「だいたい、急を要しているって時に鍵なんて掛けるかねえ」

 矢津井もまた同じように窓の外を確認しながら言う。


 確かに、窓から逃げるとして、わざわざ鍵を掛ける必要はないと要も思うのだが、そもそも犯人がこんな面倒な消失パフォーマンスをする必要も無いだろう。要たちに死体を発見させるだけで十分のはずだ。


 なんなんだ……。要は、そう呟きながら、今度は窓の穴をじっと見る。窓の左側の上部に開いた穴は二十センチ大くらいだろうか。妙にギザギザしているな――と思ってよく見ると薄い切れ込みのようなモノ――どうやら大ざっぱな道化師の姿――が薄く入っている。なるほど、叩いて道化師の形をした穴が出てくることを想定していたらしい。思いっきり失敗しているが……。


 矢津井もそれを確認して、犯人の失敗に苦笑していた。


「なあ、やっぱり窓から逃げたとは思えないぜ。窓から逃げるとしたら、飛び降りるしかないが、二階とはいえ結構高いし、そうするとやっぱり派手な落下音がしたはずだろ。でも、そんな音、聞こえたか?」矢津井はしつこく確認してくる。


 それはそうだが……。とするならやはり、密室状態からの犯人消失、ということになる。またしても探偵小説的な様相。


 細部の確認を終え、部屋の入口のほうへ戻ると、要はふと、破ったドアの裏側――部屋側のほうを見てみる。


「ん? これ、何なんだろうな」


 ドアのノブに、赤いテープが貼ってあった。よく観察してみると、このドアはノブのつまみを横にすることで鍵がかかるタイプらしいが、その横になったツマミと十字になるように、一本の赤いビニールテープが貼りつけてあったのだ。


「おい、これ。もしかして、なんかのトリックの跡なのかもしれないぜ」

 背後から覗き込む矢津井の、だいぶ興奮したような声。


「しかし、こんなにあからさまな形で痕跡を残すかな……」

「それでも分かるわけがないっていう、自信があるのかもしれない」


 矢津井はそう言うが、要にはこれ見よがしすぎて、手掛かりとしては逆に警戒感がわく。まあしかし、犯人のパフォーマンスぶりを見ると、自信過剰という点も捨てきれないが。


 とはいえ、やはりなんだかいろいろと変だ……。というか、諸々の要素が理屈に当てはまるのか心配になってくる。要は額に手を当てた。汗が幾筋も伝う額はひどくぬるぬるしている。


「どうしてだ? どうしてわざわざ人を呼んでまで、こんなものを見せつけたんだ?」


「……だから、御堂の仕業なのかもしれないぜ」矢津井はぽつりと言う。


「昔のあいつの小説にあっただろ。犯罪自体に意味なんかなくて、そこにもっともらしい動機を求める連中を茶化したような小説が」


「だとしたら、矢津井の好きな探偵小説という風にはいかないんじゃないのか」

 いささか皮肉っぽく、要は言葉を返してみたが、矢津井は特に気にするふうでもなく、

「とにかく意味よりも現実に起きてることが大事だろ。少なくとも犯人が消えている。その謎を解くことが先決だ」


 そう言ってのけられるとなんとも言い様がない。一方、要としてはこの現場の奇妙さ以上に、いつの間にか事件そのものにどっぷり足を突っ込んでしまっていることに、気味の悪さを覚え始めていた。誰が自分にメールを送ったにせよ、明らかに自分を巻き込もうとしている。


 ひとまず、要はいいかげんこの建物を出たくなってきた。さすがにキツイ。


 廊下では、相変わらず志帆がしゃがみこんでいた。ハンカチで汗を拭き、二人を見上げる顔はちょっと青白くなっている。


「大丈夫かよ、早瀬」矢津井が心配そうに声をかけ、要が手を出して志帆を引っ張り上げるようにして立たせた。


「とりあえず、ここを出よう。僕も正直限界だ」

 要の言葉に矢津井も頷き、ほうほうのていで要たちは建物の中から抜け出し、下の駐車場部分に入り込むと、とりあえず座り込んだ。


「……一日に二度も死体を発見しちゃうなんて、もう最悪」

 喘ぐように言う志帆へ、矢津井は「これってギネスになるのか?」ととぼけるが、志帆はこれみよがしなため息で応えるのみ。


「それで、本当に誰もいなかったの?」

 改めて二人に問い質す志帆に、矢津井が部屋の詳しい状況を説明した。


「そういうわけで、犯人は消えたとしか思えない」

「密室状況ってわけね」


 密室――完全にはそうとは言えないものの、状況的にはそう思わざるを得ない。それは実際に現場に居合わせた要もよく分かっていることではある。


「でも……なんでわざわざ? 何でこんなことをする必要があるの?」

 志帆もやはり、分からない、という風に混乱気味な様子だ。


「要にも言ったけど、いちいち真っ当な理由を考えてもしょうがないんじゃないか? わざわざ呼び寄せて、こんな消失パフォーマンスを見せつけるなんて、どだいまともな奴じゃねえ」


「そうだとして……カナにメールを送ったってことはカナに見せつけたかったって意図はあるんじゃないの」


 志帆の問いは当然といえば当然のもので、矢津井もそれはそうだと頷きながら、説明を求めるように要を見やる。しかし、もちろん要自身にだって何の覚えもなく、こっちが聞きたいぐらいなのだ。だから要としてもただ、不可解だという顔をして首を振るしかない。


 そういえば、机にあった携帯――あれは恐らく御堂のものだろう。見覚えはあるが、中学の時以来なので要としてもそこまで断定できる自信はないが。


 その携帯からメールが送られたとして、持ち主本人が送ったのか、そうでないのか……御堂がどのように事件にかかわっているのか、結局は分からない。


 とはいえ、やはり自分が標的にされたらしいことは感じる。しかし、そうなると逆に犯人は、自ら容疑者の範囲を狭めているのではないか、という風に思える。


「意図的なら、犯人は要のことを何らかの形で知っている人間の可能性が高いな。御堂はもちろん、その周りにいた人間――」

 矢津井もまた要と同じ結論に至ったようだ。

「つまり、御堂、もしくは御堂を隠れみのに、元第二文芸部のメンバーで事件を起こしているやつがいる……」


「あくまで可能性だ」

 

 要は慎重であろうとするが、矢津井の勢いは止まらない。


偶々たまたま空木を選んだなんてよりは、そのほうがよっぽどありそうだろ。まあ、俺はこうなってくると、いよいよ御堂が事件を起こしてまわってるって可能性を疑うけどな」


 要は黙り込む。御堂をはじめ、かつての知り合いたちの中に犯人がいるという可能性。だとすると、そのなかではやはり、御堂という存在は要の中でも大きくなっている。


「とりあえず、いいかげん、警察に電話しないと」

 志帆が、ようやく二人の間に入るようにしてそう切り出し、そうだな、と矢津井が携帯端末を取り出す。


「拓人さんに直接電話するほうが早いだろうな、もう」


 紙谷に電話をかける矢津井をぼんやり見ながら、これからどうなってしまうのか、と要は考えを巡らしていた。いずれにせよ、もうすでに十分すぎるくらい巻き込まれている。


 本当に中学生時代のあのメンバーが関わっているのか。関わっているとして、それは複数か、それとも単独か。もしくは……御堂のどこか楽しそうなニヤニヤ笑いが一瞬頭をよぎる。


 要が事件の一部に組み込まれていることが、要の原稿に御堂が書き足したシナリオであり、かれ自身がこの事件を主導しているのかーー答えの出ない疑惑だけが、要の頭の中で渦巻いていく。


 汗をぬぐいながら、要は自分が引き返せない場所に来ていることを自覚し始めていた。

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