第二十七章 ケ・セラ・セラ

空港ロビーで涙ぐむ女を見つめながら、男は少し後悔していた。

昨日ダイヤを渡す為とはいえ、プロポーズをしてしまった。


もちろん男は死にゆく前に、正式ではないにしろ、神の前で結婚を誓えた事は無上の幸福なのであったが、何も知らないさゆりを残す事は裏切りのような気がするのと、その後の彼女の悲しみを思うと強く心が痛んだ。


『だが男よ、そう悩む事はない』

ロビーに貼ってあるポスターの、真実の口の像が言っている。


いくら何十年生きようとも、本当の愛に巡り会える人は少ないのだ。

二人はこの三週間あまり、世界中の人がうらやむ程の恋をした。


この思い出を一生忘れる事はないであろう。

色々これから悲しみもあるだろう苦しい事もあるかもしれない、でもそれも人生なのだ。 


『ケ・セラ・セラ・・・・・

なるようになる・・・さ』


『まっ、いいか・・・・・・』

の人生で、いいではないか。


卓也の耳にこの神の声は届いていない。


暗い表情でハンカチを取り出すと、泣き虫な女に差し出した。

涙を拭いて返そうとする白いおでこに口づけして言った。


「いいよ、持っていって欲しいんだ・・・。

ローマで最後のプレゼントさ・・・」


女は男の言葉に少し微笑むと、その手を強くつかんで言った。


「早く帰ってきてね。

それに・・・絶対、電話して・・・。


明日の2時・・・。

電話にかじりついているから・・・

トイレだってがまんするわ」 


男はくすっと笑ったが、さゆりの眼差しは真剣そのものだった。

いつまでも強くにぎりしめてくる。


男は女を引き寄せ、唇を重ねた。

さゆりも恥ずかしがることなく男の背中に両手をまわし、唇をあずけている。


「早く・・・帰ってきて・・・・」

同じセリフを何度も繰り返し、ためらうように搭乗口の方へ消えていった。


卓也はロビーの窓に立ちつくし、飛び立っていく飛行機のシルエットをいつまでも見つめていた。

やがて振り返り、ゆっくりと歩きだした。


自分の靴音がむなしく響いている。

急に疲れがどっとあふれだし、胃が痛みだしてきた。


女はいなくなった。

今日で二人の旅は終わったのだ。


うつろな表情で、男はあてもなく歩いてゆく。

飛行機が降り立つ轟音が聞こえてくる。


又、このローマに人々がやってくる。

幾つかの出会いを見つける事だろう。


しかし。


男は重い身体を引き摺るようにして、タクシーに押し込めた。

消え入るような声で行き先を告げると、タクシーは走りだしていった。 


後ろを振り返ると、空港から又新しい飛行機が飛び立っていく。


「さようなら・・さゆりさん・・・」


男は小さく日本語でつぶやいた。

タクシーの運転手は一瞬振り返ったが、再び前を見て車を操っていく。


ローマでの一人旅が始まった。

終わりのない旅であった。


卓也はもう一度、心の中でつぶやいた。


(さようなら・・・)


    ※※※※※※※※※※※※


夕闇が迫る空港の上空で飛行機はランディング体制に入り、シートベルト着用の表示ランプがともった。

さゆりは窓の外を眺めている。


(帰ってきたのね・・・日本に。

何だか、すごく長い間向こうにいたような気がするわ。

私の人生が変わっちゃったみたい・・・)


地上が近づいてくる。

ゴルフ場がいくつも山々に点在している。


飛行機が着陸して入国手続きを済ませると、たくさんのスーツケースをワゴンに乗せ、宅配便の所によってマンションに送った。

高価な品物と業務日誌の入ったスーツケースと、左手に光るダイヤのリングを連れて、さゆりは自分の部屋に帰ってきた。


父と母には先に実家により、おみやげを渡して早々にひきあげてきた。

まだ、卓也の事は言わずにいた。


その時だけ、指輪はポケットに大切にしまい見せないでいた。

いずれ卓也が帰ってから、ゆっくり紹介するつもりであった。


軽くシャワーを浴びると、すぐ寝仕度にかかった。

明日の午後2時には卓也から電話が入るのを楽しみにしている。


広子にも明日、電話しようと思った。

今は、とにかく疲れていた。


さゆりはベッドに入ると、すぐ夢の世界へ旅立っていった。

カーテンをあけた窓から、月明かりがもれている。


ローマも天気がよいのだろうか。

卓也が見るサッカーの試合も晴れればいいと思った。


長いまつ毛は閉じたまぶたのライン沿いに、ゆるやかなカーブを描いている。

小さな唇は微笑をたたえ、安らかな寝息を漏らしていた。


女の隣に男はもういない。

再び抱きしめてくれることを疑うことなく、女は夢の中を幸せそうに旅していく。

月明かりは何でも知っているかのように、女の顔を優しく照らしている。


卓也はまだローマにいる。

明日の2時、電話をかけてくれるるのだろうか。


月だけが、それを知っていた。

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