第二十一章 エンブレム

タクシーがホテルの前にとまり、卓也が先に下りてさゆりの手をとった。

多めにチップを渡すと、運転手はイタリア語で二人を祝福して去っていった。

二人は握った手を離さず、見つめ合っている。 


「どうしようか・・・?」

卓也が先に言った。 


「私・・・少し、歩きたい・・・」

さゆりは、はにかむように答えた。


二人は石だたみを歩き出した。

握られた手は時折、愛を確かめるように互いを強く握り締めている。


靴音がコツコツと心地よく響く。

たあいのない話をしながら、二人は歩いていた。


もう卓也も自然に話す事が出来ていた。

さゆりも男の視線を素直に受けとめ、見つめ返している。


温かいものが二人を包む。

このまま永遠に地の果てまでも、歩いてゆけそうだった。


裏通りの路地を入った所で、数人の男の影と靴音が聞こえてきた。

只ならぬ気配を感じた卓也は手を離し、囁くように言った。


「逃げるんだ、さゆりさん・・・。

ここは危ないっ。

明るい所まで走るんだ」


突然の事にうろたえるさゆりであったが、卓也に突き飛ばされるように押されると走り出した。

しかし、もうそこにも男達の影が待ちかまえており、さゆりは短く悲鳴をあげた。


卓也は慌てて駆け出していって、さゆりの手をつかんでいる男に体当たりをくらわせた。

その男はふっ飛び、別の男が飛びかかってくる。


卓也はさゆりを抱きかかえるようにして倒れた。

さゆりは卓也の手をついた身体と石だたみの間に、あお向けのような形で倒れている。


卓也はさゆりを押しつぶさないように、懸命に手で身体を支えていた。

男達の影が数人、卓也に被さり攻撃している。


鈍い音が聞こえてくる。

さゆりの目の前に、白い大きな胸が覆い被さっていた。


ヒョウのエンブレムが、卓也が殴られたり蹴られたりする度に揺れている。

さゆりは必死になって、卓也をどかそうとしていた。


「やめて・・・卓也さん。

どいて、どくのよ・・死んじゃうわ・・・。

どいてったら・・・卓也さんっ・・・」


小さな手で卓也のたくましい胸を叩くが、大きな胸はびくともしない。

さゆりの目から涙がボロボロこぼれ、顔がゆがんでいる。


「いやだ・・・死んじゃダメ・・・。

逃げて・・・卓也さん・・・」


卓也は必死で耐えている。

この天使に指一本、触れさす気はなかった。


たとえ自分は死んでもいいと思っている。

どうせ、あとわずかの命なのだ。

だがせめて、さゆりと過ごす一週間が終わるまで生きていたいと願った。


男達の一撃が頭を襲った。

だんだん気が遠くなってくる。


天使の顔がぼやけてくる。

その時、通りの向こうから数人の男達が大声を上げて駆けてきた。


やがて卓也に被さっていた男達は捕まえられ、警官に連れられていった。

卓也は力尽きて石だたみに倒れ込んだ。


さゆりが泣きながら介抱している。

あとで聞いた話であったが、助けてくれたのは昼間のバールマン達であった。


乱暴をはたらいたのは、相手チームの身内の者達で負けた腹いせに、偶然見かけたユニホームを着たままの卓也を見て襲ってきたのである。

いずれこのおとしまえはつけさせる、悪い事をしたとバールマン達は済まなそうに謝った。


とにかく卓也が無事である事を確かめると抱きついたまま、いつまでも泣いていた。

男達の見守る中、卓也は女の小さな肩を優しく抱きしめ、生きている喜びを実感していた。 


二人のローマの時間は、始まったばかりである。

少し荒っぽい挨拶は受けたが、まだ天使は卓也の腕の中にいる。


卓也は痛みの残る背中を丸め、愛おしそうにさゆりを抱きしめている。

石だたみの冷たさが心地よかった。


女の温もりがうれしかった。

卓也はまだ生きている。


街の灯が二人の影を、石だたみに長くおとしていた。


      ※※※※※※※※※※※※


「いたいっ・・・」

上半身裸の卓也はベッドにうつ伏せになって手当を受けている。


「ガマンしなさい・・・こんなに傷だらけになって、無茶するんだから・・・」

さゆりは青く腫れた背中や肩の傷に消毒薬を塗っている。


「明日ちゃんと病院に行って、診察してもらいましょうよ」

病院という言葉を聞いて一瞬、顔をこわばらせた卓也であったが手当が終わり、ベッドに起き上がるとさゆりの隣に座り直して言った。


「大丈夫だよ・・・見た目より大した傷じゃないさ。

奴らも本気で殴ってたわけじゃないみたいだったし、

ちょっと腹いせに脅かしたつもりなんだろう・・・」


卓也が言い終わらないうちに、さゆりの目から再び涙がこぼれてきた。

そっと肩に手をあてると、さゆりは倒れ込むように顔を埋めてきた。


涙が身体を伝ってくる。

小さな手が男の胸を叩く。


「バカバカ・・・心配したんだから・・・。

恐かったんだからぁ・・。

卓也さん・・卓也さんが・・・死んじゃうかと思った・・・」


男はクスッと笑って、優しく抱きしめた。


「もし・・・僕が死んだら・・・泣いてくれる?」

女はいっそう泣きじゃくり、激しく胸を叩く。


「イヤッ・・・絶対イヤァー・・・。

そんな事、二度と言わないでぇ。

本当に・・・・・本当に・・恐かったんだからぁ・・・」


女の息がくすぐったく、いっそう強く抱きしめ、愛おしそうに女の髪に頬をすりよせた。


「さゆりさん・・・好きだ、愛している・・・」 

ずっと女を見つめていたのに、男はこの台詞を初めて言った事に気づき驚いてしまった。


さゆりは尚も泣きながら、声をしぼり出すように言った。


「私も・・・好き・・大好き。

卓也さん・・・愛して・・います・・・」


濡れたままの瞳を男に向け近づいていった。


唇が重なる。

涙の味がした。


抱き合う温もりに心が溶けていく。

熱い囁きが絡み合う。


「そう・・だ・・・」

「な・・に・・・?」


「シャワー・・・浴びなきゃ・・・」

「いいもん・・このままで・・・」


「試合・・・終わってから・・・そのまま・・だし・・・」

「いいもん・・・」


「汗・・・ベトベト・・だよ・・・」

「いい・・もん・・・」


「で・・も・・・」


言葉を、唇がふさいだ。

愛という宇宙が二人を包んでいる。


永遠の時の流れを旅していく。

今日から、二人の時が始まる。


今日から、二人の旅が始まった。

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